ど根性雑草とは呼ばれない
今日、いよいよ重い腰をあげて午後から草むしり作業をやった。
日曜日だし、快晴続き。
昨年も散々やったけど、今年も雑草との格闘の日々が始まったわけである。
同時に、草むしり作業で汗だくとなった体を水シャワーで頭から洗い流す、という日々も始まった。
→ 舗装された道路の狭苦しい繋ぎ目から生えてくる雑草。
風呂はあるのだが、灯油も残り少ないし、汗まみれの体は火照っているので、お湯など使わなくても、水で十分というわけである。
少々、やせ我慢の気味もある(実際には小生は痩せていないが)。
実際、天日の下での時に泥まみれの作業なので、衣服も泥や埃、汗で汚れてしまう。
となると、シャワータイムといいつつも、洗濯も同時にしないといけない。
それがちょっと拙かったようで、外から家に入った時点では、汗だくだし体もカッカとしていたのだが、家人の分も併せて洗濯するので、洗うものの量(点数)も多く、洗濯機に水を浸したり洗剤を投下したり、あれこれしているうちに、すっかり体が冷えてしまった。
なので、浴びる水が冷たい!
心臓が止まりそうな気さえした!
← 健気…だろうけど、誰も目に留めない。邪魔に思うだけ。ど根性草とは決して呼ばれない。
もう少し季節的に暑ければ、家の中も暑く、当然、浴室だって小窓を開けておかないと(湯気はないが)熱気でムンムンするのだろうが、今の時期はまだ家の中は寒くはないが、暑いわけでは決してない。
日光に焼けたような気分も家の中でじっとしていると、アッサリ平温に戻ってしまう。
夏場なら水シャワーは爽快な気分をもたらしてくれるが、今日に限っては、繰り返すが、水シャワーはまだ時期早々だった。
といって、途中で止めるわけにはいかない。意地で水を浴び続け、髭をそったりもした。
草むしり(草刈)は、主に畑でやった。
今年はナスもキュウリも、つまりは野菜作りはしない。
苗が手に入らなかったのだ(いつも届けてくれる方に不都合があったらしい)。
なので、畑は、今年は雑草の野になっている。
でも、昨年、植えておいたチューリップやムスカリなど(それぞれ一列弱ずつ)はなんとか、やや歪(いびつ)ながらもそれなりに育ってきてくれている。
そう、今年はだから、畑は野菜畑ではなく、花畑状態に。
けれど、冬が去って春到来を待ちかねたように、雑草が生い茂っている。
チューリップもムスカリも、白菜もキャベツも、何か植える予定で整地しておいた畑の畝(うね)も何もかもが雑草に埋まってしまっている。
背の高さでは、さすがにチューリップやムスカリのほうが優っているが、数の上では雑草のほうが遥かに多いし、目立つ。
雑草だけの列のほうが、お花たちの列より多いのだ。
今日は、チューリップやムスカリなどの花の列周辺だけ、草むしり。
その後、家の裏…というか、表の通りに面している側溝周辺も雑草を刈り取る。
根性ダイコンとか何とか、コンクリートの道路から顔を出して元気に育つ野菜が話題になったが、道路の端っこの繋ぎ目というか合わせ目の辺りには、根性で首を出している雑草が何処の道路でも目立つ。
そういった雑草は根性雑草とは呼ばれない。
綺麗どころか、とにかく意外性のある植物でないと相手にもされない。
まあ、雑草が道路の罅割れの透き間を縫って育つのは当たり前すぎてお話にもならないのだろう。
その根性雑草たちをよせばいいのに、小生はなんだか意地になって除去しようとした。
手に持つ鎌(かま)の刃を道路の継ぎ目(?)の筋に沿って突き立て、ガリガリやって、根こそぎ雑草を刈り取る。毟り取る。刃で削るように抉る。
別に雑草に恨みがあるわけじゃない。
確かに畑や庭の雑草は見栄え的にも邪魔ではあるけれど、「雑草を巡る雑想」といったエッセイを幾つも書いてきたことでも分かるように、心中は何ゆえ雑草を刈らないといけないのか、分からないでいる。
お寺などの綺麗な庭を見ると、閑雅だったりして侘び寂びの感を覚えないではないが、一体、どんな考えで雑草と他の花とを区別するのか、訊いてみたいような気がする。
野暮なので、訊ねてみたことはないが。
そのくせ、畑の周辺や庭の植木から離れた場所には年初に除草剤を撒いている。
矛盾だらけである。
なんだかんだと言いつつ、自分でも除草剤を使うし、雑草を刈る。
→ 夕方、夕焼けの赤に誘われて、自転車を駆り、近くの公園へ。久しぶりの本格的な草むしり作業で体の節々が痛むのを堪え、夕景を胸一杯に戴く。
内緒なので、今年は、畑の6列ほどの畝(うね)で、数列はお花の畝(← 畑で、作物を栽培するために細長く直線状に土を盛り上げた所)にするとして、一列だけ、雑草をそのまま生え放題にしてみようと思っている。
畝と畝の間はちゃんと雑草を刈る。
一列の畝だけ、雑草を空き放題に放置しておいたら、一体、どうなるのか、試してみようというのである。
実験という大袈裟なものではなく、単なる興味本位である。
どうせ、我が父母も、親戚筋のものも誰も我が庭も畑も見ることはない(母は動けないし、父は家のことには無関心)。
見るとしたら、近所の人か、畑の前に広がるよそ様の畑や田圃越しに近隣の誰彼がチラッと垣間見るくらいのものである。
せいぜい、あそこはやけに緑が豊かな畑だな、何、育ってるのかね、と、ほんの一瞬、いぶかしむくらいだろうか。
← 今日、精米に行った。お零れを狙ってだろう、ハトが様子を窺っている。油断ならない目。そういえば、この前、精米に行った時は、「鈴なりのスズメたち」が虎視眈々と狙っていたっけ。
植物の生命力。
湿度の高い日本ならではのことなのだろうが、どんな狭い透き間だろうが日当たりが悪かろうが、風雨が容赦なく襲いかかろうが、人が踏みつけにしようが、ふと見ると、思いがけない小花が咲き、あるいは苔が生してくる。
太古、動物のいない世界で、光合成という武器で世界を席捲した植物たち。
その旺盛なる生命力のほんの少しでも自分にあったらと思ったりもする。
お裾分け、というわけにはいかないだろうが、命の一端にでも触れられたら、それはそれで嬉しいことだと感じたりもするのである。
→ 今日、見かけた不思議な光景。道路沿いの立ち木の上に涸れた蔓(つる)が乗っかっている。
関連拙稿:
「狐の牡丹…雑草のこと」
「草むしり」
「「雑草をめぐる雑想」再び」
「雑草をめぐる雑想」
「石橋睦美「朝の森」に寄せて」
「芽吹きの春あれこれ」
「「仮の宿」とマッチ箱の家と」
「日の下のサツマイモの時ほくほくと」
「日の下の花の時」
(09/04/12 作 09/04/14 冒頭の2つの写真を追加)
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