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2009/04/07

時節柄、桜二題

 昨日も、今日も外出が多かった。晴天に恵まれたこともあり、今のうちにと、外向きの用事を纏めてこなそうと思い立ったのである。
 御陰で、花粉や埃塗れの空気を一杯、吸い込んだ。
 帰ったら、口の中が変な味。

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→ 4月5日、チンドンパレード見物の帰り、松川にて。

 微風だったので、漂う埃は吹き飛ばされることなく、舞ったまま漂っている。
 御陰で、天気晴朗なれども視界は悪し、霞んでいるようだった。
 こういうのを花曇というのか(← 多分、間違っている)、それとも花霞?

 いよいよ桜の季節である。

 小生、結構、純朴で素直な性格のはずなのだが、世が桜に浮かれると、へそ曲がりというか天邪鬼というか、妙に逆らってみたくなる。
 以下、旧稿だが、桜を巡る二つの拙稿を一部を削除の上、再掲する。

1.「ジョージ・ワシントンの桜の木の逸話
2.「坂口安吾著『桜の森の満開の下』

1.「ジョージ・ワシントンの桜の木の逸話

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 昨日のラジオでアメリカ合衆国大統領ジョージ・ワシントンの桜の木の逸話が話題に上っていた。
 その逸話というのは、「アメリカ合衆国の初代大統領、ジョージ・ワシントン(1732~1799)は少年時代、父親が大事にしていた桜の木を斧で切ってしまったのですが、正直に「僕がやりました」と告白。逆にその正直さに父親も「お前の正直な答えは千本の桜の木より値打ちがある」とほめたというあのお話」である(イタリック体の部分は、某サイトからの転記だが、既に消滅している(09/04/06 再掲に際し、注記))。

 素直な小生は、ガキの頃、こんな話を多分、小学校の授業の中で聞いて、「そうか、正直って大切なんだ、でも、自分にはできないな」と、こっそり思っていた。
 この話にはいろいろ考えさせるところがある。
 そもそも正直に話したからといって、みんながみんな出世できるとは限らない。父親によっては、お前はなんて碌でもない奴だと罵倒された挙げ句、宮本武蔵ではないが、それこそ桜の木にぶら下げられる、なんていう罰を食らうかもしれない。
 あるいは、馬鹿だな、そんなこと黙っていればいいんだと大人の<知恵>を授けられるかもしれない。秘密を保てない人間は偉くはなれないよ、と諭されるかもしれない。
 穿った見方をすると、ワシントン少年は父親の性格を見抜いていて、正直に告白したら褒めてくれる父親だと分かって告白したのかもしれない。
 それに正直といっても、勇気を持って告白したのかもしれないし、ただただ黙っていることに耐え切れずに、打ち明けることで不安や孤独を紛らわしたい一心だったのかもしれない。小生が犯した過ちを打ち明けるとしたら、気の小さい人間で一人では秘密を保ちきれないからだったかもしれない。
 いずれにしろ、正直者というのは、為政者の立場からすると、国民としての大切な資質なのだということは痛いほど分かる(もし、小生が人を管理する立場の人間だったら、みんな、どんな隠し事もしちゃいけないよ、と言うだろうな。あるいは隠しカメラだって設置するかも)。だからといって、為政者が正直とは限らないのが皮肉というか、悲しいが。

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 この有名な逸話を聞いた時、現下の英米によるイラク攻撃のことを連想した。

以下、略
 
 ワシントンが正直に告白したとしても、桜の木を切り倒した後のことである。後でいくら正直に言ったとしても、やってしまったことは決して取り返しが付かない。殺人を犯した後で、轢き逃げをした後で、実はあれは私がやりましたと言っても、殺された人はこの世に帰らない。一度決まったことは元には戻らない。
 
 さて、昨日のラジオでは、ワシントン大統領の子供の頃の逸話に関して、さらに先があった。
 それは、かの有名な話は、実は真っ赤な嘘、作り事なのだというのである。かの逸話が本当はある人物による作り話なのだということを、聞いた瞬間、えっ、と思ったが、そういえば、以前、作り話と聞いたことがあったかなと思われてきた。
 上掲のサイトから再度、引用する:
「……はこの習慣の由来となった桜の木のエピソードにも及びました。なんとこの話そのものが作り話だったという疑いがでてきたのです。この話はロック・ウィームズが書いた『逸話で綴るワシントンの生涯』という本の中で紹介されましたが、初版にはなく、1807年に出版された第5版から突然登場しているのです。どうもウィームズは売上を伸ばそうとして、それまであった逸話よりさらにオーバーなエピソードを「創作」してしまったようです」

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← 以下、4月5日に見物したチンドン大パレード画像。(「09チンドン大パレードへ」の続き)

 まあ、ワシントンが正直者だという前提があるからこそ、この話に信憑性を持ったのだろう。ニクソンやクリントンだったら、誰も信じないかもしれない。

 思うのは、アメリカの言論の自由であり、あるいは言論の怖さである。ロック・ウィームズ(Weems, Mason Locke 1759-1825)に類似した人間が自分の本をもっと売ろうとして、過激な話、実話でない話をでっち上げて、ある人物の印象を左右してしまう。ある人物を立派な人間に仕立て上げようとして、思いっきり脚色された人物像をテレビで新聞でネットで、あるいは本の形で、キャンペーンの形で世間に印象付ける。高潔で決断力と勇気のある大統領ブッシュ…。正義の味方。十字軍。


2.「坂口安吾著『桜の森の満開の下』

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(前略)
 桜というと、「檸檬」や「闇の繪巻」、「Kの昇天」などの作家・梶井基次郎の「櫻の樹の下には」を即座に思い浮かべる方も多いだろう。小生もその一人である。桜の樹が美しいのは下に死体が埋まっているからであるという妄想のもたらす顛末。
 この31歳で亡くなった作家のことは、いずれまた触れる機会があるだろう。

 さて、坂口安吾の「桜の森の満開の下」も、桜の木についての、独特な想念それとも妄念が前提としてある作品である。桜の木には死の臭いが漂っている…。そうした観念は、古来よりあったのだろうが、明治以降、特に昭和の前半までは強かったようである。

 それは言うまでもなく、桜が幕末の頃から武と結び付けられたからであった。咲くときはパッと咲き、満開になったと思ったら、その盛りの時期も短く、あっという間に潔く散ってしまう桜の花びら。そこに(結果的にではあろうが、命を粗末にすることに繋がってしまう軍国主義の脈絡での)武に必要な潔さを読み取ってきたのだった。
 やがて明治以降は、学校の庭などに桜の木を植えていくようになった。それはつまりは日本人に桜の美(開花の美より散る美学)と共に桜の観念を植え付ける狙いがあったようである。その極が、特攻隊のシンボルとしての桜のイメージの活用であろう。「桜花」という名の人間爆弾でもあった特攻機を思い出される方もいるのではなかろうか。

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 本居宣長の <大和魂>を謳ったとされる『敷島の 大和心を人とはば 朝日に匂う山桜花』は小生でさえ暗唱できる有名な歌だが、神風特別攻撃隊(特攻隊)の4つの部隊にそれぞれ隊名を選択し、敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊と名づけられたことも忘れてはならないと思う。
 その故か、「意匠が軍国主義、神道等の象徴に関係ある郵便切手及び郵便葉書使用禁止に関する省令(昭和22年逓信省令第24号)」において、「盾と桜の意匠の三銭郵便切手」が対象に含まれたりした。

 その間の桜のイメージの変遷の経緯や歴史は、下記の本に詳しい:
 大貫恵美子著『ねじ曲げられた桜―美意識と軍国主義』(岩波書店刊)

 ちなみに、さるサイトに拠り本書の要旨を紹介すると:
「日本の国花である桜は、一九世紀末より、「祖国、天皇のために潔く散れ」と兵士を死に追いやる花となり、太平洋戦争敗戦の直前には特攻隊のシンボルとなった。著者は、明治の大日本帝国憲法をはじめ、軍国主義の発展を分析する一方、特攻隊員の遺した膨大な記録を読み解き、桜の美的価値と象徴によるコミュニケーションに常に伴う「解釈のずれ」を中心に、どのように「桜の幹」がねじ曲げられてきたのかを検証する。平和への願いを込めた、人類学の見事な成果」

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 下記サイトによると、桜が武のイメージを持っていることは、昭和天皇も認識していたという:
文化勲章 Order of Culture

 このサイトによると、「文化勲章は、日本文化の固有の長所を確立し、時勢の進歩に応じて一層その精華を発揚し、科学、芸術などの文化の発達に関して偉大な貢献をなした男女に与えられる」ものだが、与えられる文化勲章のデザインは、淡紫色の橘である。
 当初の図案では、「日本文化を表すものとして桜の花が予定されていたが、「桜は昔から武を表す意味によく用いられているから、文の方面の勲績を賞するには橘を用いたらどうか」との昭和天皇の思召しにより、橘の花に曲玉を配する図案となったという(『増補皇室事典』(井原頼明著、冨山房、昭和13年)233頁)」のだとか。

 橘については、「昔、垂仁天皇が常世国(とこよのくに)に橘をお求めになったことから、橘は永劫悠久の意味を有しており、散るという印象のある桜よりも適当であるとのことであ」り、まさに文化を顕彰するに相応しい花ということなのだろう。

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 戦後は、桜というと、平和日本を象徴する花ということで、戦争や、まして武のイメージとは程遠い受け止め方をされている。それでも、パッと咲き、パッと散る潔さという美学・美意識・美の観念が思わず知らずのうちに刷り込まれているということは否めないように思われる。
 まして、戦前は、軍国主義そのものの象徴で、桜の木や花びらに誰もが死の臭いを嗅ぎ取るしかなかったわけである。
(後略)

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