「おわら風の盆」余聞の余聞
折々覗かせてもらい、勉強させてもらっている、かぐら川さんのブログ(「めぐり逢うことばたち」)で、我が富山(八尾)に関係する気になる記事があった:
「めぐり逢うことばたち 「越中八尾おわら踊り」と「金沢ひがしの茶屋」」
なるほど、と思わせる記事だったが、読んで納得しているだけじゃ、済まないような内容に感じられた。
→ 07年6月19日に、皇居のお堀脇(馬場先門近く)を通りかかった際、信号待ちの最中に撮った夕焼け。画像の真ん中やや左側に街灯のシルエット。その右側に立ち上る煙。そう、渋谷にある「シエスパ」という温泉の別館で午後の二時半頃、ガス爆発事故があった、その煙が夕方になっても上がっていたのを偶然、撮ったようだ。悲しくも3人の従業員たちがこの事故で亡くなったが、そう思うと、この写真の空の茜色が不穏な風に感じられる。
思えば、特に東京在住で富山を遠くから眺めていた頃、しばしば富山の話題を取り上げ、「おわら風の盆」を巡る話題(日記)に限っても、(東京在住最後の数年だけでも)十回近くになる(それらは、本稿の後半でリストアップしておく)。
さて、何が勉強になったか。
小生が主にネットで得た情報の集めぶりが如何に中途半端かを物語るようで、ちょっと気恥ずかしくもある。
でも、「風の盆」の背景や成り立ちをより深く理解する意味でも、ここにメモっておきたいのだ。
まず、4年前、小生は新聞情報などを基に、下記の小文を書いた:
「「おわら風の盆」余聞」
ここには一部だけ、転記する(イタリック体は小生の手になる):
その記事によると、「花街の風情を残す墨田区向島の見番通りで23日、「おわら風の盆in向島が開かれる。」という。続けて、「区文化観光協会が「おわら」と向島の意外なつながりを見つけ、料亭街らしい町おこしを、と考えていた人たちの思いと重なって開催の運びとなった。」とある。
(中略)
「墨田区分化慣行協会の石井貞光さん(68)によると、八尾町では、「地方の民謡踊りでは、東京の人に魅力がないのでは」と、当時、台東区柳橋に住んでいた初代若柳吉三郎を40日間招き、洗練された手の動きなど、現在の振り付けを完成させたという」のである。
同記事によると、「吉三郎の2、3代目が向島の花街に住み、今も、そこが若柳正派・舞踏研究所として残るのが縁で、今回の開催となった。」とか。
上掲の転記文中のイタリック体で示した部分の、「地方の民謡踊りでは、東京の人に魅力がないのでは」と、当時、台東区柳橋に住んでいた初代若柳吉三郎を40日間招き、洗練された手の動きなど、現在の振り付けを完成させたという」が問題なのだ。
「めぐり逢うことばたち 「越中八尾おわら踊り」と「金沢ひがしの茶屋」」によると、「越中八尾のおわら風の盆。「四季の踊り」と呼ばれる現在のおわらの踊り(新踊り)が、若柳吉三郎の振り付けであることはご存じの方もあるかも知れません。が、この「四季の踊り」の誕生が、金沢のひがし茶屋街(金沢市東山)と結びついていたことを、ひがし茶屋街での「八尾おわら流し」(4月11日開催)の案内文で初めて知りました」として、当該の部分を書き写してくれている。
ここにその書写部分を転記したいところだが、そこは我慢。
主旨は、「80余年前、四高(現金沢大学)医学生だった八尾出身の川崎順二氏は、度々ひがしの茶屋を訪れ」、「ひがしの踊りの流派は若柳流であることから、昭和4年、川崎氏の伝(つて)で、若柳吉三郎を紹介」という点にある。
詳しくは、是非、当該の頁を覗いてみてもらいたい。
さらに、同じ頁に「おわらと若柳流については、風組さんのHPの詳細な紹介があります」として紹介されているのだが、参照サイトを示しておく:
「踊り」(ホームページ:「おわら風の盆」 「昭和4年、若柳吉三郎(中央)と踊り子たち。小杉放庵の唄をよんだ時に記念撮影」といった貴重な写真も観ることができる!)
[以下は、過去の「おわら風の盆」関連稿の数々]
「二百十日」(「NHKアーカイブス 中継ドラマ・越中おわら風の盆 富山市八尾町から(88年)」の話題を巡って。「二百十日」の関連で、「野分(のわき・のわけ)」や「風の盆」が扱われている)
「「富山の夜」!」(「風の盆」(菅原洋一) や「風の盆恋歌」(1989年、石川さゆり)など、富山に関係する歌)
「田舎で読んだ本」(高橋治著の『風の盆恋歌』(新潮文庫)を扱っている)
ドラマ化されたし、石川 さゆりが同名のタイトル(作詞:なかにし 礼、作曲:三木 たかし)の曲を歌いヒットしたこともあって、「風の盆恋歌」を知る人も少なからず居るのではなかろうか。曲の歌いだしには、「蚊帳の中から 花を見る 咲いてはかない 酔芙蓉 若い日の 美しい 私を抱いて ほしかった しのび逢う恋 風の盆」とあるが、実際、小説では、蚊帳の中の二人の暑い夜の描写が印象的だった。
また、歌詞には酔芙蓉という花が折に触れて登場してくる。小説でも、この花が重要な役割を果たすのだ。
「今日は宮澤賢治忌…それとも…お絵描き記念日?!」(内田 康夫著の『風の盆幻想』 (幻冬舎)を巡って)
「道行きや虚実皮膜の風の盆」(風の盆から不倫、さらには近松門左衛門の心中モノまで)
風の盆は、祭りではなく行事であるということ、性格からして盂蘭盆と無縁ではないことが要諦のようではある。
「現在の「おわら風の盆」は、日本古来の祖先信仰の「魂祭」、中国の『盂蘭盆経』の「盂蘭盆会」、豊作祈願の「習俗」、それらが結合したものだと思います。若衆や娘たちの踊りが不文律のようになっているのも、地域共同体の宗教行事であった名残のように思います」という点は、留意すべきだろう。
そう、本来、風の盆は「若衆や娘たちの踊りが不文律」だったのだ。
← 一昨日の夕方近くに撮った、家の裏庭に咲くパンジー。愛らしい花だけど、一冬を乗り切った強さは、嫋(たお)やかな風情の漂う花びらからは窺えない。
「酔芙蓉…一夜の夢」(高橋治著の『風の盆恋歌』(新潮文庫)でアクセント的に扱われる酔芙蓉を巡って)
「夢路にて古筝(こそう)から胡弓へと川下り」(若林美智子『風の盆恋歌』(ビクターエンタテインメント)など)
「「おわら風の盆」余聞」(05年10月6日付け朝日新聞朝刊に載った「花街に「おわら」の風」と題された囲み記事を巡って)
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コメント
やいっちさん、拙ブログのおわらの記事を取りあげてくださって有り難うございます。あの記事には、加えておきたいことがらが“たくさん”あって、「川崎順二氏についてはあらためて紹介する機会をもちたいと思います。」と書いたままになっています。ここにその一端を書かせていただければ幸いです。
「ひがし茶屋街」がイベントのPR文として書いていることは、そのままでは誤解を生む要素が多いと感じていますが、私が興味深く思って引用したのは、後に順二が八尾に若柳吉三郎を迎えておわらの改良に取り組むに至った伏線が、学生時代の金沢での若柳流との出会いにあったらしいこと。このことは、八尾の地ではほとんど触れてこられなかったことなのです。(なぜ、おわら改良の核になったのが、若柳流だったのか、その謎を解くカギの一つが金沢にあるらしい、ということ、そのことを忘れないうちにメモしたのがブログの拙記事だったのです。)
現在のおわらができあがった歴史は、踊りについても、歌詞についても、今ではおわらの代名詞にさえなっている「胡弓」の取り入れについても、一筋縄ではありません。「風」との関わる民俗行事の側面についても謎だらけです。
ある関係で、おわらというより旧八尾町との縁は二十年近くなっていて、整理したいことは山ほどあります。少しずつ、書いていきたいと思っています。
投稿: かぐら川 | 2009/04/05 15:22
かぐら川さん
勝手に参照させてもらいました。
いろんな記事を読むと、今日の「おわら風の盆」が成るに至るまでには、いろんな方が関わり、幾つもの源流が辿れる、奥の深いものだとつくづく感じさせられます。
金沢、向島、八尾…などなど、それぞれの方が自分たちこそ、「おわら風の盆」の隆盛・盛名に貢献していると自負しているようですし、それぞれに尤もな事情があるようです。
きっと、掘り起こせば、さらに隠れたエピソードが見出されそうです。
「おわら改良の核になったのが、若柳流だったのか、その謎を解くカギの一つが金沢にあるらしい、ということ」や、「踊りについても、歌詞についても、今ではおわらの代名詞にさえなっている「胡弓」の取り入れについても、一筋縄ではありません」という面の掘り起こしも、大切ですね。
そして、そもそも、<風の盆>という、本来は土着で素朴な伝来の祭りの発端や源流こそ、一番、肝腎のはず。
この辺りは、全体像を見渡す研究がされているのでしょうか。ありそうな気もするし、個別な調査がされているだけで、全体を展望する段階には至っていないような気がする。
要するに、(少なくとも小生は)肝腎なことは踏査されていない、と言えるってことでしょうか。
投稿: やいっち | 2009/04/05 20:04
現在の自分になにがしかの文化的な感性があるとすれば、それは「八尾」に育ててもらったものだと有り難く思っています。そんなわけで八尾というと、つい、熱く語ってしまいがちで、意識的に自制しているつもり(笑)なのですが・・・・。
というわけで?、やいっちさんのコメントへのお答にはなっていないのですが、思いつくままに勝手なことを以下、書きつらねさせていただきました。お許しを。
八尾についてまず言っておかねばならぬことは、現在「旧町」と呼ばれている八尾の町々は、江戸期から「(都市)自治」の伝統を堅持しているということ。これは北陸の町としては稀有のことだろうと思います。が、そうした自治意識を基礎にもつ八尾固有の文化的な蓄積が、現在の「おわら」を支えていると言っても過言ではないというのが持論です。(「自治」という点では、おわらよりも、5月の曳山行事の運営の方に見るべきものがあると思います。文化的史にも、曳山に込められている文化は、高岡の御車山の比ではないと思います。たとえば、北村七左衛門の彫刻などの価値はもっと評価されていいと思いますし、曳山にちりばめられている中国故事などの彫刻の多様さと教育的意義も注目されていいと思います。)
なお、八尾旧町に寄り添うように街を見守っている「城ケ山」の別名「龍蟠山」にちなんだ「龍蟠歴史研究会」の皆さんが地道に、八尾の歴史を掘り起こしておられています。
投稿: かぐら川 | 2009/04/08 00:03
かぐら川さん
> 現在の自分になにがしかの文化的な感性があるとすれば、それは「八尾」に育ててもらったものだと有り難く思っています。そんなわけで八尾というと、つい、熱く語ってしまいがちで、意識的に自制しているつもり(笑)なのですが・・・・。
どうぞ、遠慮(?)なさらずに、ドンドン、披瀝してください。
小生などは、逆立ちしても空っぽのポケットからは何もでない。
文化的な(?)心性が郷里にあると思いたく、結構、足掻いて探しているけど、どうも、こじつけにしかならない。
根っ子を捜しても、歯槽膿漏の歯根で、グラグラフラフラしているようです。
…むしろ、その曖昧さこそがブログに限らず書くことの隠れたテーマ…エネルギー源になっているような(← これもこじつけっぽい)。
八尾について(も)、何も知らない小生です。
短い話の中だけでも興味津々。
かぐら川さんのこのコメントが、当然ですが、かぐら川さんのブログが注目されたらいいなって思います。
投稿: やいっち | 2009/04/08 09:51
過分なコメント有り難うございます。明日は、金沢へ「おわら」のおっかけ?に行く予定です。
東の茶屋街は徳田秋声の「挿話」にも印象的に登場する街です。秋声については、小寺菊子の項のコメントでも少しふれる予定です。小寺を世にだしたのは秋声だったのですから。
投稿: かぐら川 | 2009/04/10 23:13
かぐら川さん
>明日は、金沢へ「おわら」のおっかけ?に行く予定です。
その行動力と意欲に感服します。
小生は、家に貼り付いて、ただ遠くを見遣るばかりです。
茶屋町や徳田秋声のこと、そして小寺との関わり、いろいろありそうです。
徳田秋声の臨終に小寺が立ち会った、その回想を書いたサイトも見つかっていたのですが、省略しました。
載せるべきだったかな。
小寺菊子「徳田さんのこと」
昭和19年4月
http://uraaozora.jpn.org/tokuda.html
投稿: やいっち | 2009/04/11 01:34
いつもやんちゃな書き込みに、温かくコメントをくださりありがとうございます。
ところで、小寺菊子が秋声の臨終間際の床に訪れたのは、菊子の文章にもあるように秋声の死の前日で、臨終には立ち会っておりません。臨終は身内の人のみで迎えています(午前4時25分とのこと)。その場におられたのは、長男の一穂氏のほか、次女の喜代子さん、三女の百子(百々子)さん、お孫さんの章子さんかなと思いますが、残念ながら手元に確認できる資料がありません。家族以外で最後に秋声に会ったのは、野口冨士男さんで、野口さんに「菊の花――徳田先生の最期」というエッセイがあります。「その日は、昼間から小寺菊子さんが見えており、夕刻には文学報国会の使者を兼ねて舟橋聖一さんもお見舞いにみえていたということであったのに、ぼくが参上した時刻にはご親戚の方々の姿すらみえなかった。」
秋声が亡くなったことを知らせる文面の写しが、拙日記にありました。
http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=325457&log=20071118
親戚代表として記されている依田春一は、秋声の実姉カヲリの子。
投稿: かぐら川 | 2009/04/11 14:26
かぐら川さん
丁寧に教えていただき、ありがとうございます。
「小寺菊子「徳田さんのこと」昭和19年4月」は、臨終の前夜のことなのですね。
小寺菊子の文面だと曖昧なのを小生が勘違いしたのですね。
小寺菊子(の文学)と徳田秋声(の文学)との関係も含め、いろいろ調べることがありそうです。
投稿: やいっち | 2009/04/12 00:34