魔女狩り……出口なし! (後篇)
和歌山毒入りカレー事件の最高裁判決が出た昨日の天気は、不穏なものだった。
有能な方々が証拠はともかく、緻密な論証を尽くしての結論なのだろうし、穏当な判決と納得するしかないのだろう。
→ 外出の途中、ふと、脇を見たら、住宅街の合間に立山連峰が垣間見えた。雲が多いが、風があったからか、空気の透明度が高いらしく、稜線の陰影が際立っていた。
でも、小生のような知能朦朧な人間は、水も漏らさぬ論証には不感症なところがある。
頭上はるか高いところで、当人を置き去りに結論が出され処分が勝手に決められる感を抱いてしまう。
反論どころか、碌に自分の思いを述べる術(すべ)もない人間は、ただなすがままなのか。
生活苦もあって、小生が裁判員になる見込みは、まず、ないだろうけど、万が一ってこともある。
自分には、状況証拠だけで判断を下す勇気は湧きそうにない。
鉄壁の論理のように見えて(見せられて)、心証に傾き、その場の雰囲気に流されての挙手になりそうで怖い。
では、以下、田中 雅志【編訳・解説】の『魔女の誕生と衰退―原典資料で読む西洋悪魔学の歴史』(三交社)所収の、フリードリッヒ・シュペー『犯罪にたいする警告、または魔女裁判について』(一六三一年)からの抄訳を転記して示す。
← 天候の急変する日で、強風の吹き荒れる中、晴れ、曇り、薄日と次々に変わり、夕方、食事の準備をしようとしたら、外から激しい雨音。どうやら驟雨のよう。慌てて台所の勝手口のドアを開いたら、大粒の雨、そして一気に豪雨に。東京で一人暮らししていた頃だったら、いつまでも雨の風景を眺めていただろうけど、急いで炊事に戻った。
信じがたいことであるが、ドイツの民衆のあいだでは、それもとりわけカトリック教徒のあいだで、迷信、ねたみ、嘘、中傷、不平などが蔓延している。そのことを当局者は処罰せず、説教師も叱責せず、そのためまず第一に魔術に関する容疑が沸き起こっている。神が聖書でお戒めしている神罰にあたる行為はみな、魔女が犯しているとされる。もはや神や自然が何事かをなすのではなく、魔女こそすべての出来事の張本人だというのだ。
そこで、誰もが熱心に叫ぶ。当局者は魔女を取り調べろと(ところが、魔女の多くは、じつはそのように叫ぶ者の言葉から生みだされている)。
命じられた裁判官たちは当初、どこから着手したらよいか分からない。証拠も証言もないからである。それに良心に省みて、正統な理由なしに事を企てる気にもなれない。
そうこうするあいだに、裁判官たちは審理を開始するよう何度か勧告される。民衆はこのようにもたついていることこそ怪しいと叫ぶ。そして、諸侯たちは何者かに助言され、民衆とほぼ同様の事柄を確信するようになる。
ドイツでは、諸侯のご機嫌を損ね、諸侯にただちに服従しないことは、ゆゆしき重大事である。ほとんどの人々は、たとえ聖職者でさえ、諸侯が気に入ることならばほとんど何でも大仰に賛同する。そして、諸侯をしばしばそそのかす者について指摘におよぼうとはしない。たとえ諸侯がどんなに素晴らしい資質の持ち主であったとしても。
そのため、裁判官は最終的に諸侯の意向にしたがい、ついにはどうにか裁判へと着手する。
裁判官がこうした厄介な問題にあたるのになおも逡巡していると、特別に任命された異端審問官が送り込まれることになる。その異端審問官が人の常として、いささか未熟であったり欲に駆られていたりすると、そうした欠点はこの問題においてはその様相を一変させ、まさしく純真な正義や情熱へと化す。そして、この正義や情熱は金銭欲によって間違いなく煽りたてられる。それもとりわけ、異端審問官がたくさんの子持ちで貧しく貪欲であり、また前述したように、異端審問官が臨時の賦課金を農民から自由に徴収できるとともに、罪人を火刑に処すごとに数ターラーの報奨金を支給される場合にはなおさらである。
そのため、憑依された者が何事かを漏らしたり、貧しい平民の女神が悪意ある根拠のない(なぜならけっして証明されないからであるが)世間の噂の標的にされたりすると、彼女は真っ先に犠牲者となる。
噂だけに基づいて、その他の証拠なしに彼女を裁判にかけているなどと思われないようにしなければならない。そのため審理が開かれる際には、ご覧あれ! 突如として、証拠が次のような両党論法(ジレンマ)を用いてもたらされる。すなわち、彼女は悪しき不道徳の生活を送ってきたか、それとも正しい生活を送ってきたか、という論法である。もし悪しき生活を送ってきたとすれば、悪は悪を呼ぶ容易に想定されるため、それは有罪の有力な証拠とされる。ところが、たとえ正しい生活を送ってきたとしても、同様に有罪の有力な証拠とされる。なぜなら、魔女はそのようにして自分の本性を隠し、じつに品行方正に見えるよう装うものとされているからである。
女神(ガイア)は投獄を命じられる。するとご覧あれ! さらなる証拠がこの両党論法からもたらされる。すなわち、彼女はいま脅えているか、それとも脅えていないか、という論法である。もし脅えているのであれば(それはもっともである。というのも、彼女はこうした場合にはふつう過酷な拷問が用いられると耳にしたからだ)、それは有罪とされる。なぜなら、彼女は良心に苛まれているはずだからである。もし脅えている様子がないならば(それももっともである。というのも、彼女は自分の無実を確信しているからだ)、それもまた有罪の証拠とされる。なぜなら、無実であると言い張り、堂々と振る舞うのは、当然ながら魔女の特徴とされているからである。
しかし、それでも依然として有罪にするに足る証拠を得られない場合には、異端審問官は自分の部下に彼女の過去を洗いざらい尋問させる。その部下というのは、往々にして不道徳でいかがわしい輩である。すると当然ながら、異端審問官たちは尋問で得られた彼女の言動を悪意ある解釈によっていともたやすくねじ曲げ、魔術の証拠とすることができるのだ。
もしも彼女をひどい目に遭わせてやろうと思っていた者がいれば、いまやまたとない機会の到来である。そうした者たちは何でも好き勝手なことを申し立てできるし、その証拠となるものなど簡単に見つけるであろう。そして、じゅうぶん証拠があるからあいつは有罪だ、と四方八方から叫ぶのである。
こうして彼女は連行され、できるだけ速やかに尋問される。逮捕された当日に尋問が開始されることも往々にしてある。
被疑者には、弁護人もまったく公平な抗弁もいっさい認められない。というのも、これは例外の犯罪であると誰もが言い張っているからだ。そのため、彼女を弁護しかばおうとする者までも、同罪の疑いをかけられてしまう。それについて何か発言しようとする者、裁判官に慎重になるよう促そうとする者の場合も同様である。そんなことをすれば、たちまち魔女の擁護者と呼ばれてしまう。こうして、誰もが口を閉ざし、ペン先を鈍らせ、言わざる書かざるになってしまうのである。
ところが、彼女にはなにがしかの自己弁護の機会が与えられていると見せかけるために、裁判官はふつう彼女を法廷に出廷させ、証拠をあげつぶさに検討する。ただし、それが本当に検討と呼べるものであればだが。
たとえ彼女が証拠に意義を唱え、すべての容疑にたいして納得のいく説明をしたとしても、そんなことは気にもとめられず、記録されもしない。どんなに見事に受け答えしたとしても、容疑は依然としてそのまま残る。裁判官は彼女を牢獄に連れ戻すよう命じる。さらに頑迷を通し続けるつもりか、よくよく考えさせるためである。彼女は自己弁護したために、すでに頑迷とされているのである。それに、たとえ彼女がすっかり身の潔白を証明したとしても、このことが新たな証拠となる。魔女でなければそんなに弁が立つはずはない、というわけである。
裁判官はこうして彼女によく考えさせたのちに、翌日ふたたび出廷させて、拷問を行なうとの宣告を読みあげる。告発にたいする彼女の返答や意義などいっさいなかったかのように。
ただし拷問に先だって、刑吏が彼女を別室に連れていく。そして彼女が何らかの魔術によって悼みを感じなくさせるのを防ぐために、全身の毛を剃り、からだじゅうをくまなく検査する。まったく恥知らずにも、女性器さえ検査する。今日にいたるまで、もちろんそれで何かが発見されたためしはない。
だが、女性へのこうした検査がどうしてなくなろう。なにせ相手が聖職者でも行なわれるのだから。(以下、中略)
→ ジェフリー・スカール/ジョン・カロウ著『魔女狩り ヨーロッパ史入門』(小泉徹訳、岩波書店) 「ヨーロッパの魔女狩りは、「暗黒」の中世ではなく、近代が胚胎しつつある一六、一七世紀に爆発的に起きた。この「狂乱」を成り立たせた原動力は何だったのか」。 そう、魔女狩りというと、中世に激しかったという先入観のようなものがあったりするが(少なくとも小生はかつてそうだった)、実際は、近代の曙光時代に激しかった。近代の産みの苦しみだったのだろうか。大航海時代など、世界への視野が急激に広まりつつあった、その社会不安のようなものが魔女狩りという形で内発的に病魔として発症したのかもしれない。
彼女の身体検査と剃毛が終わると、拷問が行なわれる。真実を述べさせるため、つまりは、私は有罪ですといわせるためである。それ以外の彼女の発言はみな真実ではなく、また真実とはなりえない。
拷問は第一段階のものから、つまり比較的ゆるやかな拷問から始められる。ただし、それは次のように考える必要がある。すなわち、第一段階の拷問は実際のところじつに過酷であって、あとに続く拷問に比べればゆるやかなだけなのだと。そのため、もしそれで自白が得られれば、拷問なしに自白したと称される。
そのように報告された諸侯らは、彼女が間違いなく有罪であると思うであろう。なにしろ、拷問なしにみずから進んで自分の罪を認めたのだから。
自白ののち、彼女は一顧だにされることなく処刑される。たとえ自白しなかったとしても殺される。ひとたび拷問が開始されたら、死は避けられないからだ。もはや逃れる術はなく、死を迎えるしかない。
だから、自白しようがしまいが一緒である。どのみち彼女は次のいずれかの場合により殺される。つまり、もし彼女が自白すれば、すでに述べたとおり、容疑は明らかとなって処刑される。どんなに自白を撤回しても無駄である。そして、もし自白しなければ、拷問が二度、三度、四度と繰り返される。裁判官は何でも思いどおりにできる。というのも、この例外的な犯罪の場合には、拷問の期間や過酷さの度合いや回数について、何の規則もないからである。しかし、やがては自分の良心という法廷で、その罪と直面せざるをえなくなるだろう。
もし彼女が拷問で、苦痛あまり目をきょろきょろさせたり凝視したりすれば、それが新たな証拠となる。目をきょろきょろさせれば、見ろ、こいつは愛人[つまり悪魔]を捜しているぞ、と言われる。そして凝視すれば、見ろ、こいつはすでに愛人を見つけ、見つめていやがる、と言われる。もし彼女が何度も拷問を受けたのに口を割らなかったり、苦痛で顔を歪ませたり、気を失ったりすると、こいつは沈黙の妖術を使っている、拷問の最中に笑っていやがる、または寝ているぞ、だからいっそう罪深いにちがいない、などと言われる。そして、生きながらにして火炙りするにふさわしいということになる。最近のこと、何度も拷問を受けたにもかかわらず自白しようとしなかた何人かの女性たちにたいして、こうした処刑がなされた。
(中略)
(一年も拷問しても死ななかった場合は)
裁判官のなかには、彼女をしたたか悪魔祓いし、別の場所に移し、そしてふたたび拷問にかけるよう命じる者もいる。このように清めて場所を変えれば、彼女の沈黙のまじないを解くことができるだろうとでもいうように。しかし、それでも何の進展も見られないと、そうした裁判官はついには彼女を生きたまま火炎にゆだねてしまう。お願いだから私は知りたい。彼女は自白しようがしまいが、どんなに無罪潔白であっても死ぬというのなら、いったいどうやったら逃れることができるのであろうか? ああ、哀れな女性よ! あなたはいったい何を期待しているというのだ。最初に投獄されたときに、なぜ自分は罪を犯しましたと言わなかったのだ。愚かで正気を逸した女性よ、なぜあなたはただ一度だけ死ぬだけでよいのに、何度も死のうとするのか。私の忠告にしたがい、拷問を受ける前に私は有罪ですとだけ言い、死んでいくがよい。どのみちあなたは逃れられないのだ。なぜなら、あなたを逃すことは、熱狂的なドイツの人々にとっては、つまりは大いなるしくじりだからである。
彼女があまりの苦痛に耐えかねて、自分は有罪ですと偽りの供述をするならば、ほとんどの裁判で彼女には罪を逃れる術が何もないために、筆舌に尽くしがたい悲惨な事態が訪れる。彼女は見ず知らずの他人を告発するよう強いられるのだ。告発する相手は、往々にして尋問者によって吹き込まれたり、拷問吏によって示されたりする。すでに悪評高かったり非難されている者、または一度逮捕されたのちに釈放された者の場合もある。こうして、彼女たちは今度は自分以外の人間を告発しなければならなくなる。こうして告発された者もまた、他人を告発しなければならない。それが延々と続き、際限がないことくらい、誰でも分かるというものだ。
したがって、裁判官は裁判を打ち切っておのれの所業をやめるか、はては自分の一族や自分自身やその他すべての人々までも火炙りにするか、いずれかを選択しなければならない。というのも、まったくの虚偽の告発は、ついにはすべての人々におよぶであろうし、告発に続いて拷問にかけられれば、誰もが有罪だと認めてしまうだろうからだ。
こうして、火刑の炎を絶やすなと声を限りに最初に叫んだ者たちも、ついには自分自身が巻き込まれることになる。そうした思慮の浅い愚か者たちは、いつかはかならず自分の番がやって来るのが分からない。そして、これこそ彼らへの神罰となろう。というのも、彼らこそがその禍々しい舌でもっておびただしい魔女を作りあげ、あまたの無実の人々を炎に投じたのだから。
(以下、略)
← 森島恒雄 『魔女狩り』(岩波新書) 懐かしい! 情けなくも、大学に入学して間もない頃、「密告、拷問、強いられた自白、まことしやかな証拠、残酷な処刑」といった点に好奇心を掻き立てられて読んでしまった。肝腎のミシュレの『魔女』は、手が出なかったような。(画像は、「Amazon.co.jp: 通販 - ファッション、家電から食品まで」より)
ついつい文章の熱気につられ転記してしまったが、まさに出口なしの状況だ。
一旦、クロの心証を印象付けられてしまったなら、どんなに懸命に潔白を主張しても、あるいは汚名が晴れてさえも、灰色の人間という結果が残ってしまう。
痴漢の容疑だった方が最高裁で無罪となったけれど、屈辱の日々は消えない。無論、痴漢こそが指弾されるべきなのは言うまでもない。
中世や近世の一時の熱病と思いたいが、時折、ニュースでも報じられるが、「魔女狩り - Wikipedia」にあるように、今も魔女狩りはアフリカなどで行なわれているという。
魔女狩りは、決してたんなる歴史の逸話ではないと思うべきなのだろう。
(09/04/18作)
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