古井由吉の論考は難しい
古井由吉(ふるい よしきち)著の『ロベルト・ムージル』(岩波書店)を読み始めている。
理解しづらい。というより、読んでいて、まるで理解できない。
こんなとき、自分ってホントに頭が悪いんだなってつくづく感じてしまう。
→ 家の表通りに面する花壇(?)に咲くパンジー。一冬を乗り切り、相変わらず元気だ。夕日を浴びて、気持ち良さそう。夕焼け浴してるのかな? なんとかこの生命力に肖(あやかり)りたいものだ。
同氏の思考法に、あるいは彼の表現方法に馴染めないからだろうか。
…思えば、(意外なことに?)同氏の本は一冊も読んだことがなかった(はずである)。
少なくとも印象には何も残っていない。
代表作(の一つ)の「杳子」くらいは読んでみようと思いつつ、とうとう今日に至るも手にすることはなかった。
何か同氏の文学への偏見があるのだろうか。
思えば、書店でも手に取ってみようとすらしなかったような気がする。
何があって、小生を敬遠気味にさせているのか、自分でも分からない。
小田切秀雄によって「内向の世代」との批判を受けた、その批判が小生に同氏への偏見…恐らくは自分には関心を持ち得ないタイプの作家なのだと、決め付ける結果になっていたのだろうか。
上掲書を読み始めたのを切っ掛けに、「古井由吉 - Wikipedia」を覗いてみた。
すると、冒頭に、「東京都出身。港区立白金小学校から同高松中学校を経て」云々とある。
あれま。小生は、81年4月から約10年間、高輪に暮らしていた、その近所ではないか。徒歩でバイクで近所を散策するエリアには高輪、三田、芝浦、海岸、広尾、芝、白金台、白金がある。
しかも、高松中学校は我輩が居住していた団地の直近である。
高輪は小高い丘を切り拓いた一角にあり、中学校は丘の上にあり、同じ高台には、高松宮邸などもある。
我が団地は、中学校の隣の市役所支所のほとんど隣に位置していた。
知らなかった。
そういえば、島崎藤村が教師をしていた明治学院も白金にあるのだが、そのことも、小生が引っ越してから気付いたのだった。
知っていたら、小生のこと、縁を(勝手に)感じて、必ずや読んだはずなのである。
今から、遅ればせながら関心を持つことにする。
同氏の本はまるで読んだことがないはずだが、河出書房新社刊の『埴谷雄高作品集』の中で(7 戦後文学集Ⅰ 「先達のひとりとして」)同氏の論考を読んだことがある(その前に、この作品集に入る前の単行本に所収された形で読んでいた)。
内向の世代というレッテルが小生の脳裡に頑固に貼り付いていて、埴谷と古井とどうしても結びつかず、違和感ばかりを覚えていたのを思い出す。
埴谷との関係はともかくしとして、せっかく古井の文章に接する機会があったのだから、もう一歩踏み込んで同氏の小説を読んでおけばよかったと、今更ながらに思う。
それにしても、『ロベルト・ムージル』(岩波書店)を読んでもまるで頭に入らない。字面は懸命に追っているのだが、上滑りするばかりである。
自分がそれだけ頭が悪いのだろうし、発想法において相性が悪いということなのだろうか。
ただし、同氏はムージルやヘルマン・ブロッホらの翻訳家であると以前に小説家なのだから、最終的な自分にとっての評価(判断)は、何か小説を一冊でも読んでからにする。
思えば、ロベルト・ムージルも腑に落ちない作家だった。
昨年の夏、ロベルト・ムージルの『特性のない男』を読んで、何が書かれているのか、いや、字面は分かるが、一体、何が表現されているのか、作家の意図は奈辺にあるのか、まるで見えず当惑し、その困惑を正直に書いた、「ムージルの『特性のない男』でさえもなく」なんて感想文にもならない小文を書いたものだった。
← 動きのあるような、ないようなつかみどころのない日々が続く。父の退院も決まり、受け入れの準備をしたり、父が町内の一つの班の班長となったことで、代理人として雑用をあれこれやったり、少なくとも気分的には、あれこれ慌しい。夕方近く、ちょっとした時間を作り、数日ぶりに銭湯へ。束の間の寛ぎ。その帰り、定番の夕日のウオッチング。
せっかくなので、参考に、「ムージルの『特性のない男』でさえもなく」において転記して示した、ムージル(「特性のない男」)の文章例を以下に再度、示してみる:
精神は、美がものを良くも悪くも、愚かにも魅力的にもすることを、体験してきた。精神は、羊と悔悟者を分解して、その両者に従順と忍耐を発見する。ある物質を検査して、それが多量の時は毒となり、少量ならば嗜好品となることを認める。精神は、唇の粘膜と腸の粘膜とが親戚であることを知っているが、一方また同じ唇の卑下があらゆる聖者の卑下と親戚であることも知っている。精神はものを混合し、解きほぐし、そして新しく関係づける。善と悪、上と下とは、精神にとっては懐疑的 - 相対的観念ではなく、むしろ函数の項、つまりその置かれた関係に依存している価値となろう。精神は、悪徳が美徳に、美徳が悪徳になり得ることを幾世紀もの間に習得した。そして一生の間に犯罪人を有益な人間に変えることに成功せぬ場合には、それは結局ただの無器用にすぎぬとみなすのだ。精神は、許されたものと許されないものとの区別を認めない。なぜなら、すべてのものに、他日新しい大きな関係に参入できる特性が、あるかもしれないのだから。精神は、自分は金輪際確実であるかのように振舞うもの、つまり、偉大な理念や偉大な法律、それらの石化した小さな押型、そして垣でかこまれた性格などを、すべてひそかに死のごとく憎悪する。精神は、すべてのものを、それが自我であれ秩序であれ、固定化したものとは考えない。われわれの知識は日ごとに変わり得るものなのだから。精神はいかなる拘束をも信じない。そしてすべてのものにはそれぞれ固有の価値があるが、その価値はすぐ次の創造行為が演じられる時までのものである――ちょうど話しかけられている顔が、話される言葉につれて変ってゆくように。(第二部 40)
こんな文章が延々と続く。
古井由吉がムージルの翻訳に苦闘した話も載っている(同氏が若くして翻訳した訳文と、小説家として一定の経験を経た段階から見ての感懐、翻訳している頭と創作する頭etc.)。
面白くもあるが、隔靴掻痒の感は否めない。
本書から古井氏の文章を多少、転記してみようと思ったが、気乗りしない。
今回、古井由吉著の『ロベルト・ムージル』(岩波書店)を読むことで、一冊二鳥、同氏とムージルとの両者に一挙に親近感や一定の理解を持てる絶好の糸口…突破口になるかと思ったのだが、まるで当てが外れてしまった。
ただ、本書を中途まで読んだ感想として言えることは、古井氏がロベルト・ムージルを訳したり理解するのに、これだけ苦労しているのだから、小生如きが安直にムージルも(そして古井文学も)分かってはおかしいということだ。
→ 古井由吉著『ロベルト・ムージル』(岩波書店) 「分析と解体,自閉と崩壊……現代精神の命運を20世紀初頭に予言し,新しい経験への突破を模索し続けた小説群.その作品による実験の意味を蘇らせるために,渾身の力で対話を試みる.未知の現実に向けた可能性感覚,方法としてのエッセイズム──独自の解釈と批評が,そのまま作家古井由吉の核心をも語っている」とあり、期待の念を胸に読み出したのだが……、まるで分からんぞ。
ま、とにかく、古井由吉氏については、遠からぬうちに小説を読んでみることにしよう。
と、その前に、まだ本書が半ばだった。強引にでも読み終えるぞ。
(最後に念のために付け加えておくが、本稿の表題の「古井由吉の論考は難しい」は、もっと言うと、「古井由吉の論考は小生には難しい」である。)
参考:
「三田編」
「東京は坂の町でもある」
「島崎藤村(『家』/『春』)」
「島崎藤村『桜の実の熟する時』の周辺」
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コメント
どうしてでしょうね。私は本を持っていないので確かめられませんが、ラジオドラマで聞くと二分に一度軽妙さと滑稽さで吹き出します。
なるほど、翻訳には意味論的な困難さが付き纏うのは「しゃれが通じない」のと同じ事で、そうなると元来文章が含有するドイツ文学的研究対象となるものを分析して表現するような難解な訳文となってしまうのでしょう。
その解釈の困難さは別にして、興奮と緊張を要求するトーマス・マンなどよりも気軽な読み物のような気がします。
前回の訳の例文もそうでしたがなにかヴィクトル・ユゴーかなんかの時代的な雰囲気が強いですね。これならかえって笑えない。訳を替えたらどうですか?
投稿: pfaelzerwein | 2009/04/03 04:51
pfaelzerweinさん
古井氏作品のラジオドラマでしょうか。
同氏の小説は読んだことがないので、楽しみにしてます。
今日の日記で扱った本には講演の文章もあります(それでも、最初から最後までなんとなく???だった)。
あるいは、実際に耳で(目で)聞いたなら、印象も違うのかも。
論考は(小生には分かりづらくとも)、同氏の訳したムージルは、あるいは小生にも読めるものなのか、これも、当分は判断や評価は保留としか言えないです。
とにかく、近い将来、同氏の小説を読んでみて、改めて違う印象を持てるのか、確かめてみたいと思ってます。
(家庭内の雑事で、読書する神経が散漫になった面もあるのか…どうか。)
投稿: やいっち | 2009/04/03 20:13
不明瞭で失礼致しました。私が昨晩見つけたのはバイエルンの放送局のラジオ制作版「特性のない男」です。翻訳に滑稽味とユーモアが感じられないのは、おそらく日本語訳のための英訳がおかしいからではないでしょうかね。
哲学書や社会学の書籍でもいちいち分析すればいくらでも複雑な副文化のような補遺の連続で、文化体系が異なるから仕方ないとは言え、門外漢からすると社会科学すらただの翻訳文化でしかありえない所以でしょう。
なるほど上のような箇所は最初の出だしも同じような感じですが、下手な翻訳とは違って、ざっくりと突き放した意味論的なすっきりした文章だと感じました。下手な翻訳家の本を読むより、上手い翻訳家で楽しい本を読んだほうが徳でしょう。
まあ、上のような訳なら、寺山修司でも読みたくなりますが、全く違いますかね?
投稿: pfaelzerwein | 2009/04/04 05:06
pfaelzerweinさん
失礼しました。
なるほど、バイエルンの放送局のラジオ制作版「特性のない男」なのですね。
さすが、pfaelzerweinさんならではの、ちょっと真似の出来ないこと。
(小説に限らず、音楽でもポピュラーな読み物でも)構造を分析すれば複雑でも、読んだり聴いたり見たりして楽しむ分には、(それがどの程度の理解なのかは人それぞれとして)、問題がない。
翻訳ではまるで感じられない、滑稽味やユーモアまでは訳者も嗅ぎ取れなかったのか。
この点、古井氏の訳ではどうなのか、興味のあるところですが、本稿で扱った本での分析からはユーモアや諧謔への言及は見当たらなかったような(もしかして、それさえ、小生は読み取れなかったのか)。
ま、取りあえずは古井氏の小説は近い所来、読みますが、相性が合わないのなら、それまでです。
他に読みたい本が山のようにあるし(忙しいし)。
投稿: やいっち | 2009/04/04 20:16