石橋睦美「朝の森」に寄せて
それが、在宅だと、折々、居眠りなどで途切れることがあっても、一定の場所での光と闇との錯綜の度合いをじっくり味わったり観察したりすることができる。
夜をなんとか遣り過して、気が付くと、紺碧の空にやや透明感のある、何かを予感させるような青みが最初は微かに、やがては紛れもなく輝き始めてくる。
理屈の上では、太陽が昇ってくるから、陽光が次第に地上の世界に満ちてくるからに過ぎないのだろうが、でも、天空をじっと眺めていると、夜の底にじんわりと朧な光が滲み出てくるような、底知れず深く巨大な湖の底に夜の間は眠り続けていた無数のダイヤモンドダストたちが目を覚まし踊り始めるような、得も知れない感覚が襲ってくる。
朝の光が、この世界を照らし出す。
言葉にすれば、それだけのことなのだろうけれど、そして日々繰り返される当たり前の光景に過ぎないのだろうけれど、でも、今日、この時、自分が眺めているその時にも、朝の光に恵まれるというのは、ああ、自分のことを天の光だけは忘れていなかったのだと、妙に感謝の念に溢れてみたり、当たり前のことが実は決して当たり前の現象なのではなく、有り難きことなのだと、つくづく実感させられる。
もう、すでに短い人生とは呼べない年齢になった。
しかし生き過ぎたほどに生きたわけでもない。体の衰えは、隠しようもない。が、まだ、動くことができる。歩くこともできる。じっくりと時の流れに向き合うこともできる。
たとえ、誰一人、この瞬間に立ち会ってくれる人がいないとしても、とにもかくにも生きて大地の片隅に立っていることだけは、間違いようのない事実のはずだ。
コンクリートとアスファルトとガラスとステンレススチールとプラスチックと化学繊維と漂白された紙の束と化粧紙に覆われた壁とが、見渡した周囲にあるだけの自分の世界。
そしてそれ以上に情の根の涸れたような、泉の源からは遠く離れてしまった自分の心。日々の営みに我を忘れている。明日への気苦労に、自分が本当は素晴らしく有り難き世界に生きているはずの奇跡を忘れ去ってしまっている。
海の底の沸騰する熱床で最初の生命が生まれたという。命に満ち溢れた海。海への憧れと恐怖なのか畏怖なのか判別できない、捉えどころのない情念。
命という、あるいは生まれるべくして生まれたのかもしれないけれど、でも、生まれるべくしてという環境があるということ自体が自分の乏しい想像力を刺激する。刺激する以上に、圧倒している。
自分が生きてあることなど、無数の生命がこの世にあることを思えば、どれほどのことがあるはずもない。
ただ、命があること自体の秘蹟を思うが故に、せめて自分だけは自分を慈しむべきなのだと思う。生まれた以上は、その命の輝きの火を自らの愚かしさで吹き消してはならないのだと思う。
そうでなくたって、遅かれ早かれ、その時はやってくるのだ。
宇宙において有限の存在であるというのは、一体、どういうことなのだろう。
昔、ある哲人が、この無限の空間の永遠の沈黙は私を恐怖させる、と語ったという。宇宙は沈黙しているのだろうか。神の存在がなければ、沈黙の宇宙に生きることに人は堪えられないというのだろうか。
きっと、彼は誤解しているのだと思う。無限大の宇宙と極小の点粒子としての人間と対比して、己の存在の危うさと儚さを実感したのだろう。
が、今となっては、点粒子の存在が極限の構成体ではないと理解されているように、宇宙を意識する人間の存在は、揺れて止まない心の恐れと慄きの故に、極小の存在ではありえない。
心は宇宙をも意識するほどに果てしないのだということ、宇宙の巨大さに圧倒されるという事実そのものが、実は、心の奥深さを証左している。
神も仏も要らない。
この際限のない孤独と背中合わせの宇宙があればいい。自分が愚かしくてちっぽけな存在なのだとしたら、そして実際にそうなのだろうけれど、その胸を締め付けられる孤独感と宇宙は理解不能だという断念と畏怖の念こそが、宇宙の無限を確信させてくれる。
森の奥の人跡未踏の地にも雨が降る。
誰も見たことのない雨。流されなかった涙のような雨滴。誰の肩にも触れることのない雨の雫。雨滴の一粒一粒に宇宙が見える。誰も見ていなくても、透明な雫には宇宙が映っている。数千年の時を超えて生き延びてきた木々の森。
その木の肌に、いつか耳を押し当ててみたい。
きっと、遠い昔に忘れ去った、それとも、生れ落ちた瞬間に迷子になり、誰一人、道を導いてくれる人のいない世界に迷い続けていた自分の心に、遠い懐かしい無音の響きを直接に与えてくれるに違いないと思う。
その響きはちっぽけな心を揺るがす。
心が震える。生きるのが怖いほどに震えて止まない。大地が揺れる。世界が揺れる。不安に押し潰される。世界が洪水となって一切を押し流す。
その後には、何が残るのだろうか。それとも、残るものなど、ない?
何も残らなくても構わないのかもしれない。
きっと、森の中に音無き木霊が鳴り続けるように、自分が震えつづけて生きた、その名残が、何もないはずの世界に<何か>として揺れ響き震えつづけるに違いない。 それだけで、きっと、十分に有り難きことなのだ。
[この旧稿は、「QP Web Gallery 石橋睦美「朝の森」」の中の幾つかの写真を見つつ、気随気侭に綴ってみたものです。但し、本文に掲げた植物の画像は、本稿のアップに際し、挿入したもの。今日、自宅の庭や畑で見つけた花や芽。チューリップの芽がもう綻びかけているのを発見して驚きました。本文とは直接の関係はありません。 「芽吹きの春あれこれ」の続篇…のようなもの。(09/04/11記)]
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