綱渡り師とオースターとクレーと(後篇その2)
相変わらず、ポール・オースター著の『空腹の技法』(柴田元幸/畔柳和代訳 新潮社)からの転記である。自分(の創作活動のため)の覚書で、興味のない人には全く、どうでもいい作業だろう。
でも、小生にはとても刺激になった、励ましに近いものを受けたとさえ言える。
とは言っても、メモしたくなる箇所は随所にある。もう、本稿で打ち止めにしておく。
→ 今年度は、父が町内に幾つかあるうちの一つの班の班長になり、小生が父の代わりに町内の雑事を請け負う。今月は、資源ゴミの当番。4月1日の朝は(飲食用)缶類や不燃物の回収のため、スチールの資源小屋の開閉をした。立派な錠前が付いていて、未明に鍵を開け、お昼近くに鍵を締める。問題はゴミ回収当日の早朝に鍵を開けるか、前夜の夜半過ぎに開けるか、である。小生は丑三つ時頃に開けた。普段、その時間帯に就寝するので、どうせなら、床に就く前にと思ったのだ。…尤も、早朝に起きる自信がなかった、というのが正直なところかもしれない。
前稿「綱渡り師とオースターとクレーと(後篇その1)」にて引用した中で、小生の手によりイタリック表記 に変えている部分がある:
「では、なぜやったのか? ただひとつ、自分にできることによって世界を驚嘆させようという理由以外にはないと思う 」
この記述の含まれる節は転記を略したのだが、略した文中で、欠かせない件(くだり)がある。
あとになって、あとがきを読んだりして、やはりメモっておきたいと思いなおした記述があったのだ。
綱渡り師のプティが『綱の上で』という本を書いた、その本についてオースターが絶賛する箇所なのである:
これは、綱渡りに関する初の研究書にとどまらない。個人的な信念表明でもあるのだ。この本から我々は、綱渡りの芸術と綱渡りの科学の双方を学ぶことができる。この技能の叙情性を学べるし、技術上何が必要なのかも学べる。同時に本書は、ハウツー本やマニュアルと誤解されてはならない。綱渡りを他人から教わることはできない。それは独学するしかない芸なのだ。綱渡りの術を身につけたいと本気で思っていたら、人は本に頼りはしない。
したがってこの本は一種の寓話であり、論文の形をとった精神的な旅である。全篇を通して感じられるのは、フィリップその人の存在である。彼の綱、芸術、人格が一行一行にみなぎっている。
特に最後の件などは、オースターその人(の作品)を語っていると言えるだろう。
← 不燃ゴミとして古い自転車が「不要」の札を貼られて小屋の前に置いてあった。小生は自転車を見て、ショックを受けた。我輩が日頃、乗り回している(父の)自転車より新しい。それに自転車に付いている籠がいい。我が自転車の籠は小さくて、買物をしても、籠の中に納まらないことがしばしばだけど、この自転車の籠なら、買物が一杯詰まったビニール袋も詰める! 未明には既に置いてあったので、よほど、持ち帰ろうかと思ったが、恐らくは修理も必要なのだろうし、断念。
なお、本書の末尾にオースターへのインタビューが幾つか載っている。
その中で、オースターが自身の文学(観)や姿勢を語っている、非常に読み応えのある件(くだり)があった。
最後に当該の箇所を転記して本稿を終える:
結局、私の作品は、個人的な強い絶望感、大変深いニヒリズム、世界に対する悲観、そういったものから生まれてきているんだと思う。生のはかなさや、死すべき運命、言語の不完全さ、人と人との隔絶から生まれているんだ。でも、同時に、自分が生きていることを実感したときの美しさや歓喜も表現したい。空気を吸い込む悦び、生きていることを肌で感じる悦びを。こうした事柄から、いかに不十分でも言葉を搾り出していくことが、これまでしてきたことすべての核心なんだ。つまり、それには意味があるってことを言いたいんだ。私の本に出てくる人たちは、自分自身にとって意味ある闘いに従事している。どうやらたいていの小説家が専念しているらしいことが、私自身にはできたためしがない。つまり、社会の傾向とでも言うべきもの、我々を囲む物たちの世界、趣味や流行の世界などを書くことだ。私が書くものは、もっとシンプルで、深くて、たぶんもっとずっとナイーブなんだ。生きること、死ぬこと、我々がここでしていることの意味を理解しようとすること。十五歳のときに自問する、基本的な問いだ。自分がこの星にいるという事実と折り合いをつけようと努めること。ここにいる理由を何か見出そうとすること。私の描くすべての登場人物たちを突き動かしているのは、そうした問いなんだ。私の小説と、詩人としての仕事をつなぐ要素もそれだと思うし、同じ理由で私は自分の仕事を、二つの異なる活動ではなく、ひとつの連続体と考えている。自分を小説家として考えにくい理由も同じだ。ほかの小説家の作品を読むと、作品にどんなに感嘆して、彼らの描写力や表現力をすごいと思っても、自分が目指しているものとの違いに愕然とする。結局たいていは、自分は小説家というよりストーリーテラーなんだという思いに行きつく。物語は魂に欠かせない糧だと思う。我々は物語なしでは生きられない。二歳から先、死ぬまで、誰もが何らかの形で物語に頼って生きている。物語への欲求は、かならずしも小説を読まなくても満たせる。テレビを見ても、漫画を読んでも、映画を見てもいい。どんな形式であれ、物語が大事なんだ。我々は物語を通して世界を理解しようと努める。そう思えるから、私も書きつづけられる――そう思えるから、鍵のかかった小さな部屋で紙に言葉を書いて一生過ごしてもいいんだと思っていられる。私がこの先一冊も書かなくたって、世界は崩れやしない。だが最終的に、まったくの無駄骨とも思っていない。我々が世界でしていることの意味をつかもうと努める、人類の大仕事の一翼を私も担っているんだ。書いていると、希望のない瞬間がたびたび訪れる。なぜ書くのか、こんなことして何になるのか、と疑う瞬間が幾度もある。だから、この行為は無駄じゃないんだと時おり思い出すことも大切なんだ。私がこれまで考えついたことで、少しでも意味をなすことはこれくらいだね。
この一文に出会ったことで、小生がオースター(に限らないが)の詩を理解できないとか、感受できないなんて、小さなどうでもいいことなんだと思うことが出来た。
もっと肝腎なことに目を向けないとって、今更ながらに思う。
→ 昨年の二月末に帰郷した。引越しの際に出た大量の粗大ゴミを含め、我が家からのゴミは随時、捨ててきた。が、プラスチックのゴミや空き缶類やガラス瓶類、金属部品類、あるいは(洗濯機などの家電廃棄物を除く)粗大ゴミ類の捨てる場所や捨てる日を知らなかったので、家の玄関先や裏庭の軒先などには、そういったビンカン類が山になっていた。(父が)班長になったことで、不燃ゴミ類の処分方法や廃棄日程が分かった。今朝は、空き缶類を山盛りにした自転車を駆り、取って返して、寂びた金属製品の欠片、古いポット、風雨に晒されボロボロになっている数本の傘などを自転車の籠などに積み(載せ)、何往復も。不燃ゴミの山が随分と低くなった。次はガラスビン類を捨てる! 宿願が果たせた!
参考:
「クレーさん創造の神の贈り物」
「オースターそしてブレイクロックの月(前篇)」
「オースターそしてブレイクロックの「月光」(後篇)」
「地中の鉱石だったとき」
「風雲急を告げるも波穏やか?」
「「トゥルー・ストーリーズ」へ!」
(本文は、09/03/29-31 作 写真日記は、04/01 作)
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