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2009/03/08

カプラン著『ゼロの博物誌』と「蜘蛛のいる風呂場」と

 ロバート・カプラン著の『ゼロの博物誌』(松浦俊輔 訳 河出書房新社)を読んだ。
 ゼロを巡る本というと、チャールズ・サイフェ著の『異端の数 ゼロ』(林 大訳、早川書房)以来かもしれない:
ロゴスって言葉? 光? 尺?『異端の数 ゼロ』をめぐって

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→ ロバート・カプラン著『ゼロの博物誌』(松浦俊輔 訳 河出書房新社)

 意外な、と書くと僭越だし著者に失礼かもしれないが、とにかく掘り出し物の本だった。

 ゼロ(零)を巡る本というと、「ロゴスって言葉? 光? 尺?『異端の数 ゼロ』をめぐって」でも言及しているが、一昔前はよく読まれた(今も?)吉田 洋一著の『零の発見―数学の生い立ち』(岩波新書)などもある。

 中学か高校の頃に読んだ。数学などそのセンスの欠片もないのだが、中学から高校の途中に懸けてまでは(高3の夏に理系から文系(哲学)に転向したあとも)好きな学問というと数学が筆頭だった(今も!)。
 小生の中の英雄(将来、なりたい仕事)というと、小学生の頃は漫画家だったが、中学二年になってほんの一時期だが、数学者になっていた。

 理解など出来なくても数学や物理などの本を読み齧っていた。
 理系からは縁遠くなっても、月に何冊かは理系の本(啓蒙書)を読まないと、何か忘れたような気になってしまう。

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← 所用があって外出。その際、悲願(?)だったのラーメン屋「まるたかや」さんに入った。評判に違わぬ美味さ!

 チャールズ・サイフェ著の『異端の数 ゼロ』は、レビューによると、「本書は、史上もっとも危険な概念―ゼロの“伝記”である。バビロニアに生まれたゼロは、そのなかに潜む“無”と“無限”ゆえ、人類の知的営為を揺るがしてきた。ゼロは、古代ギリシアの諸賢によって禁じられ、キリスト教世界では異端視された。パスカル、デカルト、ニュートンらの業績の裏には常にゼロの問題が潜んでいたが、その脅威は、科学が進歩を遂げた現代でも変わりはない。ゼロを追放しなければ、一般相対性理論の無限大問題は解決できないように。歴史を通じて排除の対象でありつづけたが、消えることはなかったゼロ。有用でありながら、多くの矛盾や論理の崩壊をもたらすこの概念の全貌を、まったく新しい切り口で描くポピュラー・サイエンス」といった本だった。

 本書ロバート・カプラン著の『ゼロの博物誌』も、ある程度は類書だと言える。

 詳細によると、「数学の基礎をかたちづくり、私たちの認識に革命的な転換をもたらした「ゼロ」の発見。
“なにもない”とは本当はどういうことを意味するのか―さまざまな文化、さまざまな時代から、興味深いエピソードを選りすぐり、わかりやすく系統だててまとめられた「ゼロ」のもつ豊饒な世界」ということだが、後半から終わりのほうに近付くにつれ、知的興奮を掻き立てるものとなった。
 前半は、まさに博物誌で、ゼロを巡る古来よりの知識があれこれ(小生の頭には)雑多に披露されるだけで、ああ、この本はもしかして退屈? なんて感じたりもした。
 けれど、16章あるうちの13章めの題名が「蜘蛛のいる風呂場」とあって、<ゼロ>という観念(?)のただならぬ問題性に今更ながらに気づかされた。

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→ 夜半、録画でNHKの「サイエンスZERO」を観た。太陽が特集されていて、最新映像や知見を堪能。

 ドストエフスキー好きなら、スヴィドリガイロフの言う「永遠」について、「蜘蛛のいる風呂場」が語られる場面が『罪と罰』にあることを知らないはずはないだろう。
 初めて読んだ時の興奮は一生、忘れられるものではない(以下の転記は、「謎とき『罪と罰』その2 -  エデンの南」より):

 私たちは永遠というものを、なにか途方もなく大きなものとして考えていますがね。〈……〉しかし、そんな考えはさっぱり捨ててですな、そこに小部屋の一つも考えてみたらどうです。田舎の風呂場みたいな、煤だらけの部屋で、どの隅にも蜘蛛が巣を張っている。で、これこそが永遠だ、というわけです。

 小生はこの『罪と罰』に痺れて、通算して少なくとも五回は読んだはずである。
 この「蜘蛛のいる風呂場」と「ゼロ」がどういう関係にあるのか。
 この章には、ヘンリー・ジェームズやサルトル(存在と無!)やトマス・アクィナスやキーツ、そしてドストエフスキーらが登場する。

 罪の意識に苛まれ自分を無価値に感じる人間、あるいは、詩人のキーツではないが、墓銘碑に何事かを刻むなら「その名が水に書かれた者」と言ったという、そんな人間などが話題に上る。
 つまりは、この地上世界に、「蜘蛛しかいないとしたら、その類のものしかいないとしたらどうなるだろう」と思わざるを得ない連中。
 無であることを苦しいほどリアルに感じる人々。
 消滅が苦しい現実の終わりを意味することに安心感を覚える奴ら。

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← 太陽の「コロナ」。美しい!

「蜘蛛のいる風呂場」の次の章「いつも午後の国」では、ヴァージニア・ウルフ(『自伝』)の言葉が引用されている:

 毎日毎日、存在より非存在のほうがずっと多い……善は……名状しがたい脱脂綿のようなものにくるまれている……人は歩き、食べ、物を見、なさねばならないことを片づける。壊れた掃除機、夕食の注文、メイベルへの注文書き。……子供だった当時、私の日々は、今と同様、大部分が脱脂綿だった。……セント・アイブスで一週一週が過ぎ、私にへこんだ跡をつけるものは何もなかった。それから、私にわかる理由もなく、突然、荒々しい衝撃があった。……私は正面のドアのわきにある花壇を見ていた。「それは全体なんだ」と私は言った。葉を広げた一本の植物を見ていた。突然、その花そのものが大地の一部だということが明らかに思えた。輪がその花をとじ込め、それが実際の花であり、あるところでは大地、あるところでは花だということが。

 生活からその脱脂綿を除くことで、ゼロの価値が増してくる。屏風の絵を構成する何もない白い空間の美、機知。
 蜘蛛の巣は卑近で退屈で瑣末なことの象徴ではなく、蜘蛛の巣を通りかかり潜り抜けていく、目に見える(あるいは)見えないすべてを捉えるもの、そう、空気の脈動を感じ、啓示に変えることの象徴たりえる…。
 ゼロであり無であるからこそ、全へ、あらゆるものへと窓が開かれているということ。
 ゼロはマイナスからプラスへの転換点たりうる…。

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→ 太陽の「フレア」。オーロラなどへの影響で有名だが。

 詩や絵や小説は広くは虚構の時空にこそ生まれいずるもの。
 無の時空間。虚無と夢、あるいは愛。
 数学に限らず、ゼロ(無、何もない)とは何かの探求は留まるところを知らない。
 このことを感じられるだけでも、本書(の特に後半部分)は読む甲斐があろうというものである。

参考:
天神とウルフつなぐは弥一のみ
ヴァージニア・ウルフ……クラゲなす意識の海に漂わん
我が友は蜘蛛!
蜘蛛の巣をめぐるエトセトラ

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コメント

いやー、こうしたものを読ませて頂くと、哲学とか文学志向の方がどのような考え方をしているかが分かって興味深いです。

ヴァージニア・ウルフの文章引用「存在より非存在のほうがずっと多い」を読んで、ここからゼロを説く以前に、その文学までも一寸ついていけないなというのが実感です。

サルトルの哲学などは今後とも縁ががないと思うのですが、やはりこうした心情感覚から論を説かれると、一体全体どのように概念にまで到達するのか、不思議ですらあります。所謂後付けならどんな物語の展開も可能でしょう。

投稿: pfaelzerwein | 2009/03/08 15:20

pfaelzerwein さん

ゼロや無や何もないや、何もないとはどういうことなのか、あるいは何もないという感覚とか、数学や素粒子論(宇宙論)は勿論だけど、文学についてもまだまだ探求の余地があると予感させてくれた本です。
サルトルも「嘔吐」に示される無の感覚の表現は絶品です。
ウルフもいるのに、カフカがいたのに、文学も思想もゼロの喫水線付近で一層、振幅の大きな世界が描かれていくのでしょう。
とにかく、後付であれ楽しむし、自分でも虚構(創作)という無からの創造を楽しめたらいいな、そんな自分であれたらいいなって、思っています。
無能を顧みずの話ですし、現状は情けない限りですが。

投稿: やいっち | 2009/03/08 21:58

トラックバック&ご紹介ありがとうございます!!
『ゼロの博物誌』おもしろそうですね!読んでみたいっす。数学には弱いんですが…(^^;)
13章に蜘蛛が出てくるなんて、絶対狙ってますよね。

投稿: SEAL OF CAIN | 2009/03/10 22:03

SEAL OF CAINさん

記事、参考にさせていただきました。
ありがとうございます。

小生、数学に(も)弱いのですが、下手の横好きというのか、数学の話題は好きなのです。
本書は、数学に弱い人にも分かるような内容ですよ。

ドストエフスキーの蜘蛛の話。永遠。瞬間。無限と極小。パスカルじゃないけれど、人間は多分、どんな場合にあっても中間者なのでしょうね。
数学に限らず、哲学でも物理でも音楽でも文学であっても、ゼロ(無)を基点にしての探求(創造)はまだまだ続くのでしょう。
そんな予感を強く抱かされました。

投稿: やいっち | 2009/03/11 00:56

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