地中の鉱石だったとき
数日前の日記「風雲急を告げるも波穏やか?」に書いたように、昨日からポール・オースター著の『空腹の技法』(柴田元幸/畔柳和代訳 新潮社)を読み始めている。
← メルロ = ポンティは、「植物界がこの世に生まれ出た日のように」というけれど…(本稿末尾を参照)。
内容の説明によると、「カフカ、ベケット、ジャベス、マラルメ、アメリカとフランスの現代詩…エッセイでも評論でも小説でもない、あたかも書きながら、新しいジャンルが生み出されていくかのような独特な文章で綴られた文学遍歴、書くこと読むことについての真摯な技法。そしてデビュー後、その半生をめぐるインタビュー4本が伝える小説家オースター誕生の軌跡」といった本で、なかなか刺激的。
それはいいが、ちょっとショックなことも。
ポール・オースターが作家(小説家)であると同時に詩人でもあり、詩集を出していることは知っていたが、上掲書の詩人の紹介や詩論を読んで、オースター文学を理解する上では、詩の理解も不可欠だと思い知らされた。
けれど、小生は詩については(も)まるで感受性のない人間。
少なくとも好んで詩集に手を出すことは皆無に近い。
書店であれ図書館であれ、詩のコーナーに立ち寄ることも、まずない(いろんなコーナーを巡る途中で傍に来ても、大概は一冊も手にとらないままに通り過ぎてしまう。
けれど、詩人についての本や詩論は不思議と好きで読む。
まあ、伝記(評伝)はともかく、自分が詩論が好きってのは我ながら解せない。
上掲書を読んでも、ほとんどアメリカの詩人だったりして、日本には翻訳もされていない場合が多く、馴染みがないことも一因とは思うが、しかし、ちゃんと翻訳者の手でオースターが引用している詩は日本語で読めるようにしてくれている。
例えば、ジョン・アシュベリーの詩:
全体が不安定のなかで安定し、
我々の地球と同じような球体が 真空の
台座の上に静止している――噴き上げられた水の上に
しかと収まったピンポン玉。
次は、チャールズ・レズニコフの詩:
私は街の音が好きだ――
でも私は、離れて一人で、
開いた窓のかたわらに
閉じたドアのうしろに。*
私は一人でいる――
そして一人でいて嬉しい、
私は好きじゃない
こんな遅くに歩き回る人々は
真夜中過ぎにのろのろ
舗道の落葉のあいだを歩いていく人々は。
私は好きじゃない
閉店した店先の
スロットマシンの小さな鏡に映った
自分の顔が。
これも、チャールズ・レズニコフの詩:
橋雲のなかに鋼(はがね)の骨たち。
→ ポール・オースター著『空腹の技法』(柴田元幸/畔柳和代訳 新潮社)
これは詩じゃないけど、クヌット・ハムスンの小説の一節(?)から:
或る時期の間、僕が飢餓に苛まれ通しでゐたときには、僕の脳味噌は、だらだら溶けて、頭の中から流れ出して、おかげで僕といふものは、空(から)つぽになつたやうに感じたことがあつた。僕の頭は軽くなつて、途方もない遠方にふつ飛んでゐた。僕はもはや、肩の上に、頭が重く伸しかゝつてゐるやうな気がしなかつた。好きな語調(文体)なので、同じくクヌット・ハムスンの一節を:
しばらく横になつて、闇を、底知れぬ真っ黒々の、僕が究め尽されぬ闇を眺めてゐた。僕の考へでは到底捉へることの出来ないものだつた。只もう限りなく真暗で、僕をひしひしと圧迫するやうに感じられるのだつた。僕は眼を閉ぢて、小さな声で歌を唄ひ、心を紛らす為めに、寝床の上で、体をあちこち揺り動かしてみた。が、何の役にも立たなかつた。闇が僕の心を捕へて、少しの間も落着かせなかつた。体が闇に溶けて、闇と一つになりはしまいか。
こういう文体が好きなのは、小生にしても、こんなようなものを書く輩だからか:
ああ、青い水。青い水の中の花。眺めるはずのオレが眺められている。真っ裸以上に赤裸のオレがジロジロと眺められている。
オレは形をとっくに失い、ブヨブヨし、プヨプヨし、フワフワし、プカプカし、プニュプニュし、風に吹き流され、無数の花粉と隣り合わせになり、誇りを失い、埃の雲に覆われ、焦点を見失い、そして、水中にあって、目に見えない流れに押し流されている。
順不同だけど、また、チャールズ・レズニコフの詩:
この煙った冬の朝――
小枝に埋もれた緑の宝石を蔑むな
それが信号だからといって。*
存分に味わえ、橋を渡る人よ
この寒いたそがれに
これら光の蜂の巣を、マンハッタンのビルたちを。*
地下鉄のレールたちよ、
地中の鉱石だったとき
君らは幸福について何を知っていたか。
いまは電気の光が君らを照らし出す。
小生は、「地中の鉱石だったとき」の一言に参ってしまった。
← 路傍のどんな植物にとっても芽吹く瞬間とは、この世に生まれ出た瞬間でもあるはず(冒頭の写真も含め、昨日の午前、家の近所の庭にて撮影)。
本書には何人も詩人(だけではないが)が取り上げられているのに、チャールズ・レズニコフの詩ばかりを転記しようとするってことは、彼の詩が好きなのか?
同じく、チャールズ・レズニコフ(の詩)を扱っている「決定的瞬間」という一文には、ポール・オースターによると、「レズニコフの詩で起きるプロセスをほとんどそのまま描写している」という、メルロ = ポンティの『知覚の現象学』からの一節が引用されている。
あるいは、それゆえにレズニコフの詩に惹かれる…?
……私がある対象を熟視する際、私の眼前でその対象が、存在するがままにおのれの豊かさを開示するさまをひたすら見届けようと努めるなら、その対象はもはや、一般的な類型を暗示するものではなくなる。そして私は気がつく。知覚というものは、私がはじめて接する光景の知覚のみならず、すべての知覚がそれぞれ独自に、理知というものの誕生を再演しているのであり、ゆえに、創造的天才にも通じる要素を備えていることに。私が木を木として認知するためには、木という慣れ親しんだ意味の下で、目に映る情景が瞬時に整理され意味づけられる過程が、もう一度はじまる必要があるのだ――植物界がこの世に生まれ出た日のように、この木をめぐる個体的な観念が描き出されねばならないのだ。
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コメント
彼女の名は、“ヒメオドリコソウ”。名前だけから花を想像すると、少しイメージが違うかも。。。
花植物名における接頭辞「ヒメ」の語感は、必ずしも愛らしいということではなく、一回り小さいということのようです。在来種のオドリコソウのほうが好きです。それにしてもなぜかシソ科の植物は、茎が四角なのが不思議です。
投稿: かぐら川 | 2009/03/31 01:32
かぐら川さん
またまた教えていただき、ありがとうございます。
見て名前などが分かるってのは、つくづく感心するし、羨ましく思います。
よほど、人間や自然、動植物への愛情が深いのだろうな、なんて勝手に思ってしまいます。
ヒメオドリコソウ:
http://park23.wakwak.com/~koda3/2g/ha2-15.html
この植物って、まだまだ育っていくんですね。
花としては、「和名は花の形を、笠をかぶった踊り子が並んで踊っている様子に例えたもの」とのことで、オドリコソウのほうが面白いというか、見て風情がありますね。
ただ、ヒメオドリコソウは、「唇形で上唇の背に粗毛」で、陸のクリオネって雰囲気が感じられます。
「シソ科の植物は、茎が四角」!
別に茎が四角なのをシソ科にしたわけじゃないでしょうに、不思議です。
多くのハーブを含むってのもシソ科の特徴のようだし。
何か特別なメカニズムが関係しているのでしょうか。
投稿: やいっち | 2009/03/31 20:42
ご紹介いただいたページ、良質な情報があっていいですね。一方、シソ科オドリコソウ属をめぐって、「かぐら川、怒る!」状況があります。
学名のうち属名にあたる部分の「Lamium」の意味を調べようとすると、なんとも困ったことが起こります。どのページにも判で押したように!、《Lamium(ラミウム)は、ギリシャ語の 「laipos(のど)」が語源で、葉の筒が長くてのど状に見えることに 由来する、との説がある。》というフレーズが見られます。これは言うまでもなく、net上に最初に公開された「Lamium」の情報を、何人もが「コピペ」した結果です。(ためしに「Lamium+のど」で、検索してみてください。)
情報が、安易にコピペされるのはまだしも、この説明にはおかしなところがあります。「葉の筒が長くてのど状に見える」の部分です。“長くてのど状に見える”のは、言うまでもなく、「葉」ではなく「花(冠)」です。こんな「誤」情報が、延々とコピペされ蔓延するのは、こっけいを超えて不愉快でさえあります。・・・てなわけで、怒っております(笑)。
投稿: かぐら川 | 2009/04/01 00:06
かぐら川さん
確かに。
「抱茎の Lamium(ラミウム)は、ギリシャ語の 「laipos(のど)」が語源で、 葉の筒が長くてのど状に見えることに 由来する、との説がある」と、一字一句同じですね。
しかも、「抱茎(ほうけい)」と「のど」が掛けてあるなんて、エログロだし、もうすぐノドンが発射されることを予期したかのようなコピペぶりです。
ヒメオドリコソウの、「唇形で上唇の背に粗毛」は、割礼したペニスに喩えたほうが的確だったのかな。
うーむ、やっぱり、クリオネ…でなければ、赤ちゃんを包む白い「産着(うぶぎ)」、でなかったら、花嫁の純白の角隠しを想わせるなー。
いずれにしても、自戒の念を籠め、ネット情報は、慎重な扱いが大切と銘記しておきます。
投稿: やいっち | 2009/04/01 02:06