「雑草をめぐる雑想」再び
富山は昨日、25度以上と早くも夏日を記録した。今日にしても、暑いくらい。父のお見舞いなどの用事があって、車で外出しようとしたが、昨日の黄砂で汚れきっているし、車中は熱気でムンムンする。
車内の熱を逃がすためと、汚れを落とすため、洗車の真似事などして、三十分ほどしてようやく出発。
冬の寒さも辛いが、いざ、五月どころか六月の陽気を体で実感すると、ああ、自分の体力では冬より夏が辛いのだと、つくづく感じさせられる。
← 今週になって一気に咲いた。夕闇の迫る頃になってもその黄色の花は一層、際立つから不思議。昨年、帰郷早々、雑草と共にまだ花の咲いていなかった芽を無闇に毟って、今はほんのわずか咲く…。
春の陽気となると、脳裡を巡るのは、雑草のこと。
昨年もさんざん手こずったが、今年も悪戦苦闘の日々が待っている。
…というより、既に始まっていて、二月に早々と庭や畑の周辺に除草剤を撒布した。さすがに撒布した辺りの雑草は生え具合が遅いようだし、僅かに生えている雑草も、青々ではなく、黄色っぽい。
といっても、畑の内部や庭でも木々の立っている周辺は除草剤のお世話になるわけにいかない。
と、その前に、まだ雪吊りや雪囲いを外していなかったのだった。
さすがにもう雪は降らないだろう。
家の中も悪戦苦闘しているが、これからは家の外でも、雑草という形での生命の横溢との戦いの日々が続いていくのだ。
以下、確か昨年の記事だったと思うが、その記事の題名や日付を失念してしまった。
とにかく、旧稿なのだが、まあ、雑草との前哨戦というか挨拶代わりに、ここに再掲しておく。
ネット検索で調べてみたら、「雑草をめぐる雑想」だった!
なんて分かりやすい題名だろう!
→ 我が家の庭。写真だと分からないかもしれないけど、随分と荒れている。庭の世話の仕方がまるで分かっていないから、植木たちが可哀想。申し訳ない。
「雑草をめぐる雑想」「雑草という名前の草は無い」という有名な言葉(昭和天皇のお言葉とされるが、典拠不明)があるが、雑草とは一体どんな草花なのだろう。
雑草とそうでない草花との違いは何処にあるのだろう。
そうでない草花と書いたが、花壇などで手塩に掛けられて育つ花々のほかに野草もある。
野草と雑草とも違いがあるのだろうか。
野草も、「山野に生える草」ということで雑草とは生活圏が違うだけで、広い意味では雑草の範疇に入るのだろうか。
野生の草花って、あるんだろうな。手付かずの状態のものがあるかどうか分からないけれど。(中略)
小生などは古い寺や神社、庭園などを散策して回るのが好きである。神社・仏閣を訪れたなら、ご神体やご本尊に敬意を表さないといけないとは思うが、情けないことに仏像を拝んでありがたいと感じたことも、仏像に神々しさの念を覚えたこともない。
なんとも罰当たりな奴である。
本殿の奥に鎮座する本尊より、古い建物であれば、建物自体に、使われている材木・柱・床・梁などに見入ってしまう。
が、そういった造形物より、庭があるなら庭やそこに繁る木々や草花に、さらには苔の生す庭そのものにこそ魅入られてしまう。その苔のびっしり生えている庭というのは自然なのだろうか。
木々があり草花に彩られ、人造物が視野の中にないことが自然というのなら自然ではある。
ても、公園はもとより庭園だって、そして古寺の庭だって人の手が入っている…、というよりむしろ人の目に晒されることの多い、観光地になっているような庭は丹精篭められているからこそ人の目を癒し心を眼を和ませてくれるのだろう。
庭の世話や手入れをしている人は、訪れる人の目線を意識して、一定の美意識のもとに形を整えているのだろう。
その際には、毟り取るのか刈り取るのか除草剤を使うのか、ともかく余分な草などは排除・駆除してしまうのだろう。
あるいは長年の手入れの結果、邪魔で余計な草など最初から生えなくなってしまっているのか。
この辺りの事情は分からない。
きっとそこには小生の窺い知れないノウハウなどがあるのだろう。
いずれにしても、我々の多くが自然だと感じて眺め入っている閑雅な庭は、何十年何百年の歳月の積み重ねの果てに磨き上げられ洗練された美意識でもって作庭された、ある意味人為の極地としての庭なのであって、そうした練り上げられた仮構の自然に興趣を覚えるように我々は既に子供の頃から教育されてもいるのではないかと思ったりもする。
古寺の庭は、すくなくとも一歩奥の方に足を踏み入れたお寺の裏手の庭は、閑寂なものでないと困る、ような。
山間の、当初は人が入りづらかった地に偉いお坊さんが分け入って何がしという名の寺の開祖となったりする。
それこそ原始の森だった山の奥に寺が建立される。
木々を刈り倒し、鬱蒼と生い茂っていた(かどうかは分からないが)藪の野生の草花を刈り取り、あるいは焼き払い、広いか狭いかともかく平地を確保し、動物たちの生息場所を多少なりとも奪い追いやり、寺が、つまりは人間の生活圏の橋頭堡が構築される。
その寺か神社か、それとも隠れ家か別荘か、倉庫か山小屋か、その建物を生活の拠点として山が一気に開発されていく。
森の峠道それとも獣道ならぬ人の道を歩き登って、ようやく辿りついた小屋(寺)で一服する。
眼に映るのは、未だ人の手の及ばない森を借景とする、ちいさな、だけど閑寂な庭、というわけであ。
そうした庭にこそ自然を感じる、眺めて安堵する、古雅な雰囲気を満喫する、悟りの境モドキを味わったりする。
我々にはもう人畜無害な、害獣や毒草のない自然しか自然ではありえないのだろう。
ジェットコースターなどでの絶対安全を前提にしての冒険しか楽しめないように、自然とは人為の極としての、が、人為がうまく消去されている、そんな人畜無害な自然にしか自然を感じることは出来ないのだろう。どちにしても、苔が一定の範囲内で蔓延るのなら許される、雑草は絶対にダメだが刈り込まれた範囲内の一定の種類や見栄えのいい草花なら場合によっては許される、人が実際に歩く道には苔も草もダメなのである。
庭の美しさや雅さで有名な古寺の庭を一年ほどでも放置しておいて、これこそが自然の庭です、作為のない自然なのです、どうぞ御覧ください、なんて企画はありえないたろうか。
ゴミが勝手に投げ込まれた、綺麗に馴れた眼には汚い、不自然な庭だと、不評・不興を被るのがオチか。ただやはり、考えてみれば(考えるまでもなく)寺社の類いは信仰の場、宗教の場なのである。
自然がどんなに歪なもので人為の極を行くものであっても、人の手の関わりの気配や匂いをうまく消し去り、人の目に自然で俗世を遠ざかっているふうに工夫されていればそれでいいのかもしれない。
自然が、動植物が信心するわけでも宗教心を抱くわけもないのだろうし、その意味で寺社の領域は、あるいは寺社で象徴されているものは、徹底して人為の世界そのものなのだし、人の感受性の上で<自然>と受けとめられるならそれでいいのだろう。
← 病院へお見舞いに行く道すがら、知人と待ち合わせの時間に間があったので、環水公園にて休憩。土手に小花が咲いていた。接写で撮ろうとしたが、風が強く、可憐な表情を捉えられなかった。…この花は雑草なの?(下記注へ!)
参考:
「狐の牡丹…雑草のこと」(随筆)
「草むしり」(短編)
(09/03/19夜 記)
「オオイヌノフグリ」だそうです。
http://had0.big.ous.ac.jp/plantsdic/angiospermae/dicotyledoneae/sympetalae/scrophulariaceae/ooinunofuguri/ooinunofuguri.htm
あまりといえばあまりな名前ですね。
可憐な小花なのに。
淡い紫色の花。
紫を敢えて伏せて、「シキブノナミダ草」という名前など、どうでしょう?
(09/03/21 追記)
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コメント
なぜかいつもは植物名の語源を詮索しない人までも、この花に限って、この可憐な花に陰嚢・睾丸は残念?というニュアンスで言及されることが多いようです。〔ルリカラクサ(瑠璃唐草)、ホシノナミダ、ホシノヒトミ(星の涙、星の瞳)の名もあります。〕
が!、この花の――正確には、オオイヌノフグリではなく在来種のイヌノフグリの――果実を「犬のふぐり」と名づけた先人の観察眼、ユーモアにこそ拍手をおくりたいと思います。どう思われますか。(ほとんど目にすることのできないイヌフグリの果実の写真のあるページをリンクしようしたら、スパム対策とかではねられてしまいました。残念。)
なおマツボックリも、松のふぐりが語源だという説があります。
投稿: かぐら川 | 2009/03/21 16:20
かぐら川さん
仮にインノウ(睾丸の袋)に似ているとして、どうして犬なのか。
見方によっては人間のにも似ているし。
あるいは、小動物のお尻とかも連想させる。
>マツボックリも、松のふぐりが語源だという説があります。
初耳です。
興味津々なので、早速調べてみたら、松かさは、「まつぽっくり」と呼称する場合、「松陰嚢(まつふぐり)」が転訛した語である、ときっぱり断言されています。
これは形から、あるいは構造からの命名なのでしょうか?
それはそれとして、今日、小生は近所では一番遅く、雪吊り外ししました。
もう、来年(次)の冬はもう雪吊りは不要かもしれない。
投稿: やいっち | 2009/03/21 22:24