ヒヨドリから「富山と義経、そして平家伝説…」へ
[以下の拙稿は二月一日に書いたもの(本文の旧稿は除く)だが、アップしそびれていた。一ヶ月以上も経っちゃった。今日は母に続いて父も不調で、病院嫌い(医者嫌い)の父をようやく説得し、病院で受診。それはいいけど、小生、付き添いなどで風邪を引いたみたいで、頭が痛いし、体が憂い。夕方、寝込んでいたが、今からも寝る。誰にも世話になるわけにいかず、ただただ我慢である。(3月3日、アップに際し付記)]
→ テレビCMの一場面。天才バカボン! 懐かしい。漫画が連載されていた同時代に好きで読んでたっけ。天才バカボンの居宅は、東京都新宿区中落合。小生が上京した最初の居住地が新宿区西落合。何か因縁でもあるのだろうか。まあ、我が人生は漫画チックではあるが!
「ヒヨドリから「富山と義経、そして平家伝説…」へ」
この冬の寒い最中、家の庭や近所の畑や柿の木などにスズメやカラスなどと共にヒヨドリがよく飛来する。
餌を啄ばみ、あるいは探し求めてキョロキョロする光景がほぼ毎日、見ることができる。
ヒヨドリと書いたが、その名前を知ったのはつい最近のことである。
それまでは名前不詳の鳥だった。
つい先日は、リクエスト(…小生の願望に応えてか)内庭で数メートルのところでの撮影にも成功した。
ところで、ヒヨドリという鳥は今では日本各地で見ることのできる珍しくもない鳥だと分かった。
それはいいのだが、小生の脳裏では、「ヒヨドリ → 鵯越=平家 → 富山の平家伝説」という、あまりに短絡的な、まあ、理解の容易な連想が働いた。
せっかくなので、富山の平家伝説について、多少のことをメモっておこうと思ったのである。
…が、調べてみたら、既に数年前、大よそのことを書いてしまっている:
「富山と義経、そして平家伝説…」
一日、一つの記事(日記)として、ブログを始めた04年秋口以降だけでも、書いた記事(日記)の数は、1600個。
ネット参入した99年11月以降となると、一日一個と計算しても、3200個以上の雑文を綴っている。
(一日一個のノルマで文章(日記)を書き始めたのは、89年の正月15日からなので、そこからの通算だと、7千個以上。今、気がついたのだが、こうしたノルマを自分に課して今月でまる二20年となる! 肉筆での日記は15歳の頃から続けている。今は、ただのお天気メモになっているが。)
記憶力には学生時代から自信のない自分なので、同じテーマで書いているやもしれないが、それでもネット検索という武器が(通信速度の速さや検索サイトのレベルアップもあって)自分の記憶力の覚束なさを助けてくれるので、重複を避けつつ、あれこれ書ける。
以下、03年の9月に書いた小文を再掲する。
リンクなどが既に無効になっている可能性があるし、若干でも書き直そうと思ったが、とりあえず、載せておいて、徐々に訂正することにした。
イタリック体の文字は、書いた当時は有効な、しかし今は無効(削除?)となったリンクを貼っていた言葉である。
それでも、幸い、リンクのURLが変更となって生きているサイトもある。
ネットの世界も浮沈が激しい。新陳代謝というべきなのか。
但し、数年前に拙稿を書いた際にリンクを貼った頁が生きているからといって、油断はできない。
内容に間違いがあるか(その後の研究の進展などがあって)変更・加筆を施すべきなのに、単に放置されている場合も結構あるからだ(同じことが自分の頁についても当てはまることは悲しくも事実だが、この辺りも追々指摘などいただきながら訂正・改変していきたい)。
(以上、09/02/01記)
「富山と義経、そして平家伝説…」
インタヴュー記事 「源義経主従が北陸道(ほくろくどう)を平泉の藤原秀衡(ひでひら)を頼って奥州へと逃げる途中」関守に、「「判官殿だ」と怪しまれるが」 「弁慶が「加賀の白山より連れてきた御坊だ」と言って、嫌疑をはらすために扇で義経を打ちのめすという機転で切り抜け、無事に乗船できたという一節」は、かなり有名な話となっている。
一般的には、「舞台は石川県小松の安宅(あたか)の関」での逸話として知られている。「これは謡曲『安宅』や「歌舞伎十八番」の『勧進帳』(能の『安宅』の詞章をもとに、能の舞台と演出を写し、長唄を地にした新形式の演劇を創造したもの)」の影響に依るところが大きい:
「「如意の渡」と『勧進帳』---富山の義経伝説」
(冒頭から、以下、括弧内の引用はこのサイトから)
しかしながら、この芝居の元になっているのは、『義経記』だと言われている。その根拠については、「渡辺保『勧進帳 日本人論の原像』(ちくま新書)は『勧進帳』のルーツは『義経記』の次の三つだという」として、上掲のサイトに三つの根拠が示されている。
芝居では、『義経記』の記述をドランチックに演出するため、様々な趣向が凝らされている。
「関守の富樫(ワキ)と弁慶一行(シテとツレ大勢)との力の激突の演出に能の主張がある。『安宅』では12人近くの山伏が登場。義経を子方(子役)とするのも能の演出である。偽山伏となって奥州へ下る義経主従を捕らえるための新関が設けられ、義経は荷物持ちに身をやつす。関守の阻止、祈祷による威嚇、白紙の勧進帳(東大寺再建のための寄付集めの趣意書)の読み上げ、主君を金剛杖で打つ弁慶の苦しみなど、緊密な構成と集団による能舞台の活用のみごとさで劇的な現在能の大作」なのである。
ただ、小生が不思議なのは、舞台が石川県小松の安宅(あたか)の関になっていることだ。何故、『義経記』の記述から推定される富山の「如意の渡」ではないのだろうか。
地元では、富山ではなく、石川県小松の安宅(あたか)の関がこの逸話に関して有名なことが悔しいのか、「伏木の矢田八幡宮境内に「如意渡趾」の石碑がある。小矢部川河口の現在の渡船場近くには、弁慶が義経を扇子で打ち付けている場面の銅像も立っている。古来、射水川(小矢部川)河口の渡し場をそう呼んできた」のである。
あるいは伝説の舞台が富山というのは、怪しいという判断が芝居の作者にあったのか、それとも、富山よりはるかに文化程度の高い地(なんたって石川県は前田利家の領地なのだ)石川のほうが世間的に通りがいいからなのか。そんなことまで、石川県にコンプレックスを持つ富山県人(特に呉東地区の県人)卑屈にも妄想は思い至ってしまう。
富山には雨晴(あまはらし)という観光地がある。風光明媚な、まさに海沿いの景勝地なのである。前にも紹介したが、海岸線に沿ってドライブすると、海側は真っ青な海と孤絶した島が望め、山側には、立山連峰が真っ白の巨大な天然の屏風となって迫り来る。その立山連峰が海越しに見えるのは、日本では、ここでしか見られない絶景なのである。:
「雨晴海岸」
「美しき越の国」
かの大伴家持も、この景勝をこよなく愛でたという:
「家族と風土を歌う家持 越中高岡」
その雨晴という地名も、義経伝説に由来するものなのである。但し、これは『義経記』には出てこず、別の伝説に由来するらしい。
その雨晴伝説というのは、「雨晴(「東下り」の途上、にわか雨に遭った源義経一行が、雨宿りをして晴れるのを待った」という伝説だが、このくだりを読むと、「雨晴(あまはらし)」というのは、「東下り(あづまくだり)」の転訛とも推測しえる。
つまり、「あづまくだり」「雨宿り」の「あめ」とが意味や話の上で懸けられて、いつしか語韻的に(耳で聞いた印象的に)耳障りのいい「雨晴(あまはらし」に変わったのだと解釈される余地があるということだ。
ただし、こうした雨宿りの伝説は、安宅関の話同様、日本各地にある。 富山だけの専売特許ではない。早くから特許登録を済ませておけば、優先権が得られたものを…と、口惜しい気がする。
また、「富山には井口村に義経が泊まって、十月十日で子どもが生まれ、その子は美人だったという伝説がある」
さて、余談だが、冒頭に紹介したサイトには、この伝説の地が富山か石川かという因縁に絡み、ある戦いで決着がついたという落ちが紹介されている。即ち、「決着は既についていた。2000年に甲子園で如意の渡(新湊)と安宅(小松)が戦って、大逆転の末、新湊高校が小松を破った。このドラマティックな戦いはまさに『勧進帳』を象徴している」というのである。
なかなかに地元のライバル意識というものは、凄まじきものである。
尚、義経伝説などについては、このサイトにもリンクされているが、下記のサイトが詳しい:
「島津久基『義經傳説と文学』(明治書院1935)」
この富山(実際には、ほとんどが高岡)と平家伝説については、いろいろなサイトで採り上げられている。例えば、下記:
「平家物語と富山県」
この中で、「雨晴(あまはらし)」という地名について、「源義経が奥州へ行く途中に、雨が降ってきて、雨を晴らした(雨宿りをした)ので、その名が付きました」という話を「保育園で聴いたような記憶が、有ります」とあるが、小生はちょっと驚く。その方の記憶力に、である。小生は、小学校の遠足の時、バスの中で聞いた記憶はチラッとあるが、保育所には預けられていたけれど、そんな話を聞いたものかどうか。聞いても覚えてないだろうけれど…。
やはり先のサイトの主の方は高岡の方で、優れた頭脳の持ち主なのだろうと思うしかない。
このサイトの中で、平家物語に止まらず、近代文学作品も含めてテキストを読むことが出来る。
結構、有名なサイトなので御存知の方も多いだろう。
ところで、「平家物語と富山県」という頁で、「富山県は、呉羽山を境に「呉東(ごとう)」と「呉西(ごせい)」に分かれます。ここで東西の天候も文化もがらりと変わります」という記述がちょっと気になった。
確かに、「富山県は、呉羽山を境に「呉東(ごとう)」と「呉西(ごせい)」に分かれ」るし、ここが文化の分岐点であることは否定できないが、江戸時代の藩の領地の事情で、もう一つ、呉羽山のさらにすぐ東に流れる神通川も大きな分岐点だったことも、忘れてはならないと思う。さらに、旧富山藩の領地は富山市を中心とするが、その両側を挟むように旧加賀藩の領地が広まっていたという事情も鑑みる必要があるかも知れない:
「とやまことばの下位区分」
「富山町の成立」
その他、平家落人伝説については、富山にはいろいろある。合掌造りで有名な五箇山地方の平村もその一つ。ここはユネスコ世界遺産に選ばれている:
「白川郷・五箇山の合掌造り集落」
あるいは、倶利伽羅の合戦で有名な木曽義仲公の愛妻巴御前終焉の地も 富山の福光町にあり、そこには巴塚がある:
「福光のみどころ:巴塚」
無論、弁慶伝説に絡む地もある(但し、弁慶の存在自体については未だ不可解な部分があるが…)。
このように、つらつら書いてくると、富山といっても、呉西(ごせい)、つまり高岡を中心とする地域ばかりで、富山といっても、呉東(ごとう)に生まれ育った小生は、何か力が入らない。文化的に後進的な地域で、風土的な厳しさもあり、呉東(ごとう)の人間、特に旧富山藩領の人間は実利的な人間性が養われたという。
よく言えば働き者。しかし、つまるところ文化や芸術については、今一つ、ピンと来ない。
このことを以って、小生の素養のなさや芸術性の乏しさの理由にするわけにはいかないだろうけれど、ちと、寂しい。
(03/09/07記)
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