歌うネアンデルタール
スティーヴン・ミズン著の『歌うネアンデルタール』(熊谷 淳子(訳) 早川書房)を読了した。
副題が、「音楽と言語から見るヒトの進化」で、「人間はいつから、なんのために歌い始めたのか? 人類の進化と音楽の思いもよらぬ深い繋がりを解き明かす」といった本。
人類の歴史(進化)を辿るのに、言語がキーになるのは素人なりに分からないでもない。
→ スティーヴン・ミズン著『歌うネアンデルタール』(熊谷 淳子(訳) 早川書房)
人類を特徴付ける大きな要素として直立歩行とか道具の使用とか体毛とかあれこれあっても、その中に言語を遡上に載せないわけにいかない。
が、言語の誕生の歴史(進化)を辿ろうとすると、その起源や原点がどういう発声(吼え声とか鳴き声)だったのかがどうしても気になる。
が、言語が人間を特徴付けるとしたら、その前に、もっと人間の根底を、それこそ感情のレベルから揺さぶる文化的要素として音楽を持ち出さないのは、考えてみたら不思議なことであろう。
きっと、そんな自明のことが(一見)ないがしろにされているように見えるのは、科学的に根拠付けるのはこれまで至難だったこともあり、実質上、等閑視されてきたのかもしれない。
「ネアンデルタール人は、私たちに最も近かった人類の仲間で、ほぼ20万年間にわたって、ユーラシア大陸に散らばって暮らしていた。その分布域は今の欧州全域から中東やアジアにまで及び、南は地中海沿岸からジブラルタル海峡、ギリシャ、イラク、北はロシア、西は英国、東はモンゴルの近くまで達していた」。
なのに、「ネアンデルタール人と現生人類の分布域が重なっていた約4万5000~3万年前に、いったい何が起きたのか。なぜ一方だけが生き残ったのか」(この節の引用は、「なぜ、ネアンデルタール人は絶滅したのか?:日経ビジネスオンライン」から)。
そこにはクロマニヨン(ホモサピエンス)のほうが知能が高かったとか、急激な寒冷化といった諸々の説があるが、必ずしも定説があるわけではない。
そこに本書である。
出版社サイドによる内容案内によると、本書は下記のような内容である:
われわれの生活に欠かすことのできない音楽。この音楽は、いつごろ、どのようにして人類の歴史に誕生したのだろう。音楽は進化の過程でことばの副産物として誕生したというのが、これまでの主要な意見であった。しかし、ミズンは、初期人類はむしろ音楽様の会話をしていたはずだとし、彼らのコミュニケーションを全体的、多様式的、操作的、音楽的、ミメシス的な「Hmmmmm」と名づけた。絶滅した人類、ネアンデルタールはじゅうぶんに発達した喉頭と大きな脳容量をもち、この「Hmmmmm」を使うのにふさわしい進化を遂げていた。20万年前の地球は、狩りをし、異性を口説き、子どもをあやす彼らの歌声に満ちていたことだろう。一方、ホモ・サピエンスではより明確に意思を疎通するために言語が発達し、音楽は感情表現の手段として熟成されてきたものと考えられる。 認知考古学の第一人者として、人類の心の進化を追究しつづけるスティーヴン・ミズンが、太古の地球に響きわたる歌声を再現する。
この説明に見られるように、あくまで仮説に留まるが、言語の前に音楽こそが人類を人類たらしめたのであって、ネアンデルタールは、その音楽能を発達させたというのだ。
ただ、あまりに見事に音楽的コミュニケーションに特化し過ぎたため、進化の袋小路に嵌まり込んでしまった。
実際、ネアンデルタールは、分化した時点からとうとう絶滅に至るまで文化的(道具面でも表現においても)にほとんど発達することがなかった。
音楽表現の感情面での豊かさが、意思伝達や文化的ノウハウの継承には逆に障害になったのではないかと考えられるわけである。
しかも、ネアンデルタールは、音楽にしても、道具を使っての表現ではなく、あくまで歌(声)でのコミュニケーションを深めるばかりだったとも考えるようだ。
その代わり、歌の上手下手は関係ないから、赤ん坊も含め男女誰もが当事者としていつでも参加しえていたのでは、とも想像する。
が、現代人につながる「ホモ・サピエンスではより明確に意思を疎通するために言語が発達し、音楽は感情表現の手段として熟成されてきたものと考え」るわけである。
音楽と言語との分岐点は、赤ちゃん言葉(幼児をあやす親の言葉)にその名残りの一端を見ることができるという。
あやすにしても、歌もあれば語りかけもある。多くは語りかけであり表情、仕草でコミュニケーションをとる。
言語に一端、特化し始めたら、音楽は相変わらず感情を揺さぶるものでありつつも、音楽表現は可能性のうえでは誰でもが参加し当事者たりえるが、次第に専門家(音楽家)の領分に移っていく。
歌(演奏)の上手下手が音楽の素人と玄人を分け隔てていくという悲しい現実を伴ってしまったのだと考えるわけである。
小生などは、音楽への着眼は良しとするが、もっと根底には吼え声とは唸り声、喚き声、要するに鳴き声一般こそが人類が喉(や体から)発する根源にあったものと思う。
それはチンパンジーなどと似たり寄ったりの原始的な表現に留まっていただろう。
けれど、同時に、体を使っての吼え声などは音楽よりもっと原始的なもの、だからこそ全体的な感情や肉体の表現だったのだろうと思う。
音楽とさえ呼べないような野性の表現。
野性の音楽は、現代にあって聴くことは可能なのだろうか。
とりあえずは、心臓の鼓動でも聴いてみる?
← 塚田健一著『アフリカの音の世界―音楽学者のおもしろフィールドワーク』(新書館) (「『アフリカの音の世界』は常識を超える!」参照)
それにしても、「音楽」がキーワードの本なのだが、肝腎の著者は自認するところでは、自らは音痴だとか。
うむ。だからこそ、逆に音楽への思い入れが深いのかもしれない、なんて。
そういえば、十年近く前、ジョン・ダーントン 著の『ネアンデルタール』 (嶋田 洋一訳 ソニー・マガジンズ文庫)なる小説を読んだことがある。
内容はほとんど忘れたが、現代に生きているネアンデルタール人がいるという設定だったはず。
彼らには現代人にない能力がある。それは、テレパシーめいた超能力。以心伝心。
ネアンデルタール人に現生の人類とは違う能力があった、音楽的に豊かだったり、共感する心があったり…。
だけどその反面、心の優しさがあだになり、故に進化の袋小路に迷い込み、ホモサピエンスとのサバイバル競争に負けたといったストーリーというのは、ありがちなような気もする。
参考:
「沈黙の宇宙に響く音」
「古都サルバドール・サンバの始原への旅」
「『アフリカの音の世界』は常識を超える!」
「ハープのことギリシャからエジプトへ」
「弦の音共鳴するは宇宙かも」
「裸足のダンス」
「イナーヤト・ハーン…音楽は宗教そのもの」
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