水仙を植えたわけは
多分…、やや希望的観測気味だが、昨日までの寒さが今冬最後の寒波の襲来だったのだと思う。
一昨日や昨日と黄砂が降ったのも、春の到来を告げている…と(願望を籠めて!)思いたい。
寒さにめっきり弱くなった小生、春の訪れを待ちわびているが、さりとて、手放しで春を待ちわびているとも言い切れない。
← 樹齢百五十年ほどの梅の木は、今年も花を咲かせてくれてた。
別に花粉症だとか、冬も去り行くとなると寂しいとか、そんな理由ではなく、春の生暖かさが嬉しくもあるのだけど、何処か気鬱っぽいというか、憂鬱というか、何故か億劫なのである。
多分、命の芽吹きが眩(まばゆ)いからだろう。
眩(まぶ)しいばかりではなく、何か植物達の横溢する生命力に圧倒されるものを感じるからではないかと思う。
春になり暖かくなって体は動きやすくなるはずだし、外出だって億劫ではなくなるはずなのだが、ちょっと動くと汗を掻いたりするのが面倒なのである。
こんな情けない自分など、暖かくなって動くと汗を掻くのが爽快だった若い頃の自分からしたら、嘘のような気がする。
冬は動いても、その分、体が暖まってよかったという面が幾分はあったのが、暖まるだけじゃなく汗がジンワリ滲んで来ると妙に疲労感ばかりが覚えられてならないなんて。
→ 梅の実の収穫は、この数年、僅か。やはり土壌が疲労してしまっているのか。
動くのが面倒以上に、庭にしても畑にしても、雑草の育つ早さが憎らしいほどだ。
冬の間は大人しくしていた雑草も、いよいよ我らの天下だとばかりに辺り一面、ところかまわず一斉に育ち始める。
つい先日は芽だったものが、ほんの数日も経たないうちに、雑草としか言いようのない、いかにも丈夫そうな葉っぱや茎を伸ばしている。
なんだか、ドン臭い動きしかできない小生を嘲笑っているようにも思える。
人生半ばを過ぎて、今更、成長などあるはずもなく(お腹などの部分的な膨張は例外として)、むしろ年々衰えていく一方の小生を差し置いて、雑草どもは年年歳歳元気である。
数日前だったか、気の早い小生、早速、庭や畑の花や野菜や立ち木から離れた部分に除草剤を撒布した。
如雨露(じょうろ)に除草剤を入れ、そこに水を差し、薄めた溶液を如雨露で撒くわけである。
が、撒き方に濃密があったのか、あるいは液が足りなかったのか、全然、効果が現れていない。
尤も、小生がせっかちなのであって、効果が現れるには数日では足りないのだろう(と思っておく)。
← ヒヨドリ君は、いつもの柿の木で一休み。一瞬、小生と目が合ったような気がするが。
春の気鬱というのも、もしかして、いよいよ本格的に雑草との戦いの日々が始まるのだという、そのしんどさを思ってのことなのかもしれない。
それでも、野菜や花々などを植え、育てるという楽しみがないわけじゃない。
それに、上記したことと矛盾するようだが、雑草との格闘の日々ってのも、案外、楽しくもある。
やや自虐的な快感があるようなないような。
もぐら叩きというゲームがあるが、雑草との戦いというのは、生命力の驚異そして脅威を思い知らされる営為でもある。
湿潤で、大して地味が超えているわけではない土地であるにも関わらず雑草は毟っても刈り取っても生えてくる。
それこそコンクリートの僅かな罅割れをも見逃さないし、家の土台だってなんのその、さらに下を木々や草花の根っ子が潜り込み、根を張り巡らし、放っておくと、冗談でなく土台を揺るがしかねない。
生命が自然発生するはずはないのだが、雑草や苔などの生え方を日々、見ていると、少なくともある種の植物は自然発生するに違いないと感じてしまうのだ。
→ まだあまり開花していない水仙を3株、買ってきて、早速、植えてみた。雑草も丁寧に毟り取ったし、せっかく整地した畑だから、元気に育って、この一角全体に広がって欲しい。
日本という温帯の湿潤な気候と土壌との結果なのだと分かっていても、雑草が生い茂り、土壌にはミミズやらオケラやら数え切れない種類の、厖大な数の虫や細菌類が蠢いている現実を目の当たりにする驚異の念は、度し難いものがある。
人が手ずから植える綺麗な花々は、人が手塩に掛けないとすぐに萎れたりするのに、雑草は足で踏んづけても平気である。
野菜だって、土壌に肥料を与えるし、周辺の雑草を目に付くたびに毟り取って、水を注ぎ、日々、様子はどうだと見守りにいく、それでも、ダメな時はダメである。
いずれにしても、もうすぐ冬も去り、春が到来する。
本格的な土との格闘の日々が始まる。
今日、初めて水仙を植えたのも、ちょっと大袈裟に表現すれば、土との宣戦布告のつもりだし、同時に、土と陽光と水と空気との恵みを初心に帰って思い知るのだという、自分への言い聞かせのつもりでもあるのだ。
(でも、密かな願いは別にある。春になり、暖かくなったら、家に閉じこもりがちの父母に、せめて庭くらいは散歩してもらいたいのだ。父が母の乗る車椅子を押して、長年、丹精籠めてきた庭や畑を見て回る…。すると、そこに昨年のうちに球根を植えておいたムスカリや水仙の花などの咲いているのを目にする…。夢物語ではないと思いたい。)
[後欄無駄]
今日、スーパーで水仙を買ってきたので、水仙に絡む雑文を綴ろうと思ったが、既に3年前に大よそのことを書いてしまっていた:
「水仙…ナルシスの花の香」
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