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2009/02/27

「たまゆら考」再見!

 このところ、家の中がゴタゴタしていることもあって、気晴らし半分で銭湯へ行く回数が増えている。
 なので、今日は、ほんの僅か銭湯に関係のある(?)過去の記事を再掲する。

 銭湯へ行く。当然、男風呂である。隣には女風呂があるが、入った事はない。覗いたこともない(多分)。

 バイトは夜なので、銭湯へ行くとしたら昼間である。
 ガランとしているが、それでも、小生一人というわけにはいかない。
 誰かしら、年輩の(小生よりも年輩…なので、60代以上の)方々である。

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→ 近所の銭湯では、更衣室と風呂場との仕切りのガラス戸は、開けるのは手動だが、閉めるのは自動。といっても、水の入ったペットボトルが下りることで閉まる仕組み。

 別に興味はないが、やむを得ず、男の持ち物が眼中に入ってしまう。
 観たくはないので、目はすぐに背ける。
 逆に、小生も銭湯の中では、タオルで前を隠すこともないので、その気になれば、観放題というわけである。
 まあ、あまりしげしげ眺められたことはなかったと思う。

 とにかく、まあ、なんだかんだで、その気はないが少なくとも男の持ち物を(トイレのような閉鎖空間ではなく)照明が煌々と灯っているもとで眺める…目に入る機会が増えてしまったわけである。
 だからというわけではない(こともない)が、旧稿である「たまゆら考」が妙に懐かしくなった次第である。

 拙い…、思いっきりの駄文だけど、ちょっと一緒に読みましょう!

たまゆら考

 昨夜、車中のラジオで「たまゆら」という言葉を聞いた。
 久しぶりに聞いたこともあって、なんだか、懐かしい響きを感じる。床しい感じもその言葉から受ける。そうだ、暇の徒然に、「たまゆら」という言葉について、自宅に帰ったら、ネットなどで調べられる限りのことを書き連ねてみようと思い立ったのである。
 由緒ある言葉であることは、間違いないので、とりあえずの「広辞苑」である。すると、以下のように説明されている:

 たまゆら[玉響]
(1)(万葉集の「玉響(たまかぎる)」を玉が触れ合ってかすかに音を立て る意としてタマユラニと訓じた)ほんのしばらくの間。一瞬。一説に、かす か。方丈記「いずれの所を占めて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身 を宿し、玉響も心を休むべき。「たまゆらの命」
(2)草などに露の置くさま。<日葡>

 「広辞苑」などの辞書(事典)で困るのは、何かもっと詳しいことを知りたい言葉を調べると、次々とさらに分からない言葉、ついでながらにでも、意味合いを再確認しておきたい言葉が見出されてくることだ。
 それはそれで、勉強にはなるが、下手すると、言葉の連なりの際限のない連鎖から抜け出せなくなってしまう。
 上記の説明でも、「たまかぎる」という言葉が目に飛び込んでくる。
 授業などで耳にも聞き、あるいは無粋な小生も万葉集を詠むことがないわけはないので、目にもした言葉だが、せっかく今、ここで目にしたのだから、この言葉についても、脳裏に語義を明瞭に印象付けたくなる。
 ということだとすると、仕方ない、調べてみるしかない。

 あるサイト(「枕詞(まくらことば) たまかぎる」)を参照する。
 すると、「たまかぎる」は、枕詞であり、「「たまかぎる」は「夕」、「ほのか」、「ただひと目」などを導」き、「「たま(玉)」は、たましい(魂)や霊力(れいりょく)のことでで、「玉」のように丸いものもイメージさせ」るとあり、さらに、「「かぎる」は、ほのかに輝く意味と考えられます。原文では、限、蜻、響という漢字が使われてい」るとした上で、ご丁寧にも、万葉集から幾つか歌まで例示してくれている。
 好きな歌も並んでいる:

  1816: 玉かぎる夕さり来ればさつ人の弓月が岳に霞たなびく

  2391:玉かぎる昨日の夕見しものを今日の朝に恋ふべきものか

 とりあえず、「たまかぎる」は分かったことにしておこう(そうしないと先に進めない)。
 だって、「たま(玉)」にしてからが、霊魂(魂)だとか、霊力だということになると、うっかりこの玉に拘ると、どこまで探求が進んでいくか見当がつかない。さっさと行き過ぎるしかないのだ。
 では、「玉響」が「たまかぎる」なのだとして(小生は全く納得していないのだが)、そして、それが、「玉が触れ合ってかすかに音を立てる意」なのだと認めるのだとして(当然ながら、何ゆえ、この意なのか自体も調べないと委曲を尽くしたことにならないが、飛ばします)、だからといって、何故、「タマユラニと訓じた」という結果に至ったのか、さっぱり分からない。
 さらに、何かの理由があって、「タマユラニと訓じた」のが妥当なのだとして、「玉が触れ合ってかすかに音を立てる意」から、どうして「ほんのしばらくの間。一瞬。一説に、かすか。」という意になるのか、理解不能である。
 むしろ、玉が触れ合ってかすかに音を立てる、その妙なる音の響きの繊細微妙さを愛でる表現なのだ、というのなら、小生にも理解が及ぶ。なのに、なぜか、玉が触れ合ってかすかに音を立てる意」から、一挙に「ほんのしばらくの間。一瞬。一説に、かすか。」である。

 まるで狐に抓まれた思いである(といっても、小井は狐に抓まれたことはないので、この比喩表現の使い方が的確なのか、自信がない。では、何故、自信がないのに使うのか…。つい、浮かんできたので、知っている言葉は使いたくなる、我輩だってこんな言葉を知っているんだぞと見せびらかしたくなる、そんな心理があったのではないかと思われたりする…が、これはまた別の話である)。

 そもそも、この玉って何なんだろう。水晶? 黒曜石? 翡翠(ヒスイ)? 青銅か鈴? もしかしたら玉ということで、つい真ん丸の玉を思い浮かべがちだけど、勾玉のような形のものなのか。あるいは、やはり素直に考えて、首飾りに使われるという以上は、丸い玉でいいのだろうか。
 いや、もしかしたら、この玉というのも、実は当て字なのであって、意味合いが、霊魂とか霊力にこそ、重きをおくべきなのかもしれない。
 とにかく、古典に限らないが、何かを調べ始めると、その奥行きの深さを感じて、探求することに楽しさを覚えつつも、時に途方に暮れてしまう。
 それはそれ、小生のこと、この辺りのことは、中途半端に放棄しておく。宙ぶらりんのまま、放置プレーである。気が向いた人が調べてくれるだろう。あるいは、疾うの昔に語義など説明され尽くしているのかもしれない(そんな予感がある)。

 それにしても、「たまゆら」に限らず、「ほんのしばらくの間。一瞬」を意味する言葉がある。一瞬というのも、当たり前に使っているが、「ほんのしばらくの間」を意味する言葉の代表例だろう。
 この「一瞬」の「瞬」って、どういう意味なのだろう。
 で、またまた「広辞苑」にお出まし願うとしよう。すると、以下のように説明されている:

  まばたきすること。またたくひま。非常に短い間。

 そうか、そういえば、中学か高校の授業か何かで、そんな説明を聞いたことがあったな。英語で「瞬間」は、a momento、 a second、 an instant ということになるらしい。が、ドイツ語では、ein Augenblickとなって、まばたきという日本語の意味合いと相通じるものがある(Augeはäugern=見るの名詞形で、目を意味する。Blick は視線)。
 他に、「非常に短い間」を示す言葉としては、「刹那」という言葉が浮かぶ。「刹那」を「広辞苑」で引くと、下記のようである:

 (仏)(梵語 ksana の音写)極めて短い時間。一説に、一弾指(指ではじく短い時間)の間に、65刹那あるともいう。⇔劫(こう)。
  ということは、一瞬よりは、刹那のほうが短い時間ということになるのか。

 他に、例えば、須臾(しゅゆ)という言葉がある。これまた極めて短い時間を表す。仏教(梵語)に由来しているような匂いがするが、日本では、刹那もそうだが、須臾も、仏教的色彩より、文学的色彩が勝っているような気がする。
 刹那の恋。須臾の間。これらの言葉を使うと、なんとなく文章に味わいというか、格調が増すような気がする。言葉の力である。呪力とまではいかないが、それでも、本当は本来の意味などまるで分かってなどいないのに、使ってみると、尤もらしいし、深い意味合いが込められているような錯覚くらいは与えてくれる。

 ところで、ネットで、こうした短い時間を示す言葉を検索してみたら、案の定、ちゃんと扱っているサイト(「刹那はどれくらい短い?」)があった。
 このサイトを覗くと、そうだったそうだったという記述から、そうだったのか、知らなかったという記述まで、いろいろ見つけられて面白い。そういえば、「塵劫記」という書があったなと思い出す。
 この「塵」「劫」のそれぞれについても、説明がされている。「「塵」は鹿の大群が通ったときに巻き上げる土煙の粒」であり、「「埃」はさらに小さくて風で巻き上げられるホコリを意味」だという。
 そうだったのか! ユリイカ! 「塵」より「劫」のほうが小さなホコリを意味するのか(それにしても、何故、鹿の大群なんだろう)。
 どうでもいいようなことだけど、この「発見」は、小生、なんとなく嬉しい。どうして嬉しいのかは、正直、分からないのだけれど。
 「「渺」、「漠」、「模糊」は霧や湯気のような気体とも固体とも区別の付かない小さなものを指す」というのも、小生にとっては、発見である。「渺」も「漠」も「模糊」も、小生、今までは漠然と、曖昧模糊に使っていたが、これからは、この意味合いを認識しながら、使いたいものだ。
「逡巡」が、小生は、ためらいを意味するのかと思っていたら、「須臾」と同様、本来は時間を表すための言葉だったというのも、ささやかな発見だった。こうした検索をしてよかったなと思える瞬間である。
 あるいは、「虚」「空」「清」「浄」のそれぞれが、須臾や、さらには刹那よりはるかに短い時間を表す意味もあると知ったのも、だから何だと聞かれると、返答のしようがないけれど、でも、面白いのである。

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↑ 銭湯の玄関前から立山連峰を望む。

  さて、ちょっと前置きが長くなった。やっと本題に入る。

 ちょっと入りづらいが、以下の一文は、「たまゆら」という言葉から、昨夜、小生が真っ先に浮かんだことなので、逸するわけにはいかないのである。
 人によっては、余談だ、冗談だという人もいるかもしれないが、小生の話は、もともと全てが余談なのだ! と開き直るというか、居直ることで、そんな揶揄を遣り過すことにする。
 ぶっちゃけた話、ラジオで最初に「たまゆら」という言葉を聞いた時、実は小生、恥ずかしながら、「たまずら」のように聞こえた。

 小生にしても、「たまゆら」という言葉は知らないわけではなかったのだが、そう聞こえたので、聞きとがめたというか、ついつい、リッスン ツーしてしまったのである。
 玉ずらとは、何か、どういう意味なのか、と聞かれても困る。そんな言葉は恐らくは、ないはずである。別に広辞苑を引いて調べたわけではないのだが… (でも、調べて、あったら、どうしよう)。
「たまゆら」という言葉は、とても綺麗な言葉である。耳障りもいい。まさに響きのいい言葉なのである。

 が、男なら、「たま」、「ゆら」ということから、ついつい、「玉」が「ゆら」となり、「玉」が「揺れる」と即座に連想し、そんな状態は、困るなと考えてしまうのも、無理からぬものがあると思う。
 ブリーフなどを穿いていると、ぴったり収まって、珍も棒も、ゆらゆらすることなど、ないようだが、小生のようにトランクス派だと、結構、ゆらゆらぶらぶらすることもないわけではないのである。
 トランクスを使い始めの頃は、先っちょの敏感なところなどが擦れ、刺激が常にあって、身も世もない感触に耐え難い身悶え(と喜びの)日々を送ったものだった。

 そう、小生だって、最初はブリーフ派だったのだ。 お袋に買い与えられたものも、ずっとブリーフだったし。

 しかし、紆余曲折があり、また、棒殿はともかく、珍さんは、空冷が必要だ、風通しを良くしておくことが、彼等のためになるのだと、また、湿気を防ぐことでインキンを避けるためにもなるのだなどと、何かの本で読んで納得してからは(それとも、そう耳学問をしたのだっけ)、当初の快感なのか、苦痛なのか定かでない、妙なる、じゃない、絶えざる接触・擦過の感触に身悶えしつつも、珍さんのためだ、お玉さんのためだ、お棒さんのためになるのだと、自らに言い聞かせて、たまゆらの日々に耐えて来たのだった。
 その甲斐あってか、案外と早く、少々のたまゆらにも、たまずりにも、動ずることのない日々を送れるようになったのである。
 玉の妙なる響き(本来は、二つの玉共に袋の中なので、響きが外界に洩れ聞こえるはずはないのだが、しかし、男たる当人には、チンチンと、えも知れぬ無音の響きが鳴っていると思えてならないのだ)、妙なる揺れ具合、妙なる擦れ具合、こうした男の玉珍の…、じゃない、魂の語られざる絶妙なる世界を現すには、「たまゆら」ほどに似つかわしい言葉はない、小生は、そう、信じるのである。

                                      (03/10/26 記

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