物質的恍惚の世界を描く!
今日2月19日は、埴谷雄高の命日である。
小生は彼の本を片っ端から読み、読み浸ってきたわりには彼(の本)に付いての感想文はあまり書いたことがない。
せっかくなので、今日こそは何かをと思ったのだが、どういった思考回路なのか、埴谷からカントへ、そしてちょっと飛躍して<物質>へ関心の焦点が移っていってしまった。
そうだ、埴谷(やドストエフスキーやチェーホフやガルシンやカフカなどなど)を読み浸っていた頃、決して耽溺というわけではないのだが、一方では全く違う世界として、ル・クレジオの『物質的恍惚』に惹かれてならない自分がいたのも確かだった。
…というより、小説の世界とはほとんど切り離されて、あくまで<物質的恍惚>という言葉に自分の迷妄の世界を歩んでいく上での糸口のようなもの、手掛りのようなものを嗅ぎ取っていた、というべきか。
まあ、端的に言って、<物質的恍惚>という言葉に感電したわけである。
拙稿「ル・クレジオ…物質的恍惚!」の中で、ル・クレジオの『物質的恍惚』(新潮社)を読んだ頃の思い出のようなものを書いている。
といっても、本の中味はほとんど覚えていない。
ただ、振り返ってみると、結果的に(あくまで印象として!)残っているのは、同書からしばしば引用される下記の文章で、思わず知らずのうちに痺れてしまっていたようだ:
ぼくが死んでしまうとき、ぼくの知り合いだったあれら物体はぼくを憎むのをやめろだろう。僕の命の火がぼくのうちで消えてしまうとき、ぼくに与えられていたあの統一をぼくがついに四散させてしまうとき、渦動の中心はぼくとは別のものとなり、世界はみずからの存在に還るだろう。・・・・もはや何ものも残らないことだろう。ぼくがあっただろうところのものの彼方にぼくを運ぶような傷跡一つ、思い出一つ残りはしないだろう。そして・・・いつの日か(その日は必ず来るのだが)世界からは人間の姿が見えなくなるだろう。人間の文明や征服の数々は人間と共に滅びてしまっているだろう。人間の信仰、疑惑、発明などの数々は消え失せていて、もはや人間のものは何一つ残っていまい。他のたくさんの事物が生まれ、そして死んでゆくだろう。他の生命形体の数々が姿を現わし、他の考えの数々が流通することだろう。そして、そのあと無定形の存在の共同体のうちにふたたび統合されてゆくのだ。それでも世界はつねに存在するだろう。それでもつねに何ものかがあることだろう。およそ考えうるかぎり遠い時間と空間との奥にも、なおも物質、消えることのない全的物質の現存があるだろう。
この一文の中に、「いつの日か(その日は必ず来るのだが)世界からは人間の姿が見えなくなるだろう」という文言がある。
フーコーも、脈絡も地平もまるで違うのだが、『言葉と物』の末尾で、「…さしあたってなおその形態も約束も認識していない何らかの出来事によって、それが十八世紀の曲がり角で古典主義的思考の地盤がそうなったようにくつがえされるとすれば--そのときこそ掛けてもいい、人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろう」と書いている。
意味合いも何も全く違うのだが、『言葉と物』を齧り読みし、通読しきれないままに、本を閉じる間際、最後の節を(それこそ、解答の書いてある答案用紙を覗くように!)覗き見た際に、この言葉に出会って、何か閃いたような、啓示に似た何かが青い稲妻となって小生の背筋を射抜いた、そんな感覚に痺れたのだった。
小生のような凡俗に何が分かるわけもない。
ただ、若い身空の投げやりな、やや自暴自棄な、本人としてはニヒルを気取っていたような、ただ闇雲で窮屈な世界で出口なしを感じていた。
「人間の姿が見えなくな」り、「消滅する」というのなら、それでもいい。
だったら、そう、「それでも世界はつねに存在するだろう」し、「それでもつねに何ものかがあることだろう」からには、「およそ考えうるかぎり遠い時間と空間との奥にも、なおも物質、消えることのない全的物質の現存があるだろう」!
高校の終わりから大学生になりたての頃、埴谷雄高を読んだり、カントを読んだりして、「消えることのない全的物質の現存」に唯一、対峙しえる言葉の時空を作り上げたい、などと不遜なことを想っていたような。
「物質的恍惚/物質の復権は叶わないとしても」から一部、転記する:
(前略)物質とは、究極の心なのだと今は考えている。別に根拠はない。直感的なものに過ぎない。
心というものがあって、肉体にも物質にも経済にも制度にも世界の終わりにも関わらず永遠に存在する……。それは魂という呼び方しか出来ない何ものか……。
そんな風に思った時期もある。そう思いたかったのだろう。この世への、あるいはあの世への憧れ。満たされない魂。叶えられない夢。果たされない願望。理解されない望み。誤解と曲解と無理解の泥沼。無慙にも奪われた命。生まれいずることもないままに闇から闇へ消え行った命。芽吹いたその日から岩の下で呻吟するだけの命。どうしてこの世はこうであって、このようではない風ではありえないのか。理不尽極まるじゃないか。
だからこそ、何か心とか、魂とか、情念とか、怨念とか、幽霊とか、とにかくこの世ならぬ存在を希(こいねが)う。永遠の命。永遠の魂。穢れなき心。そうした万感の思いにも関わらず、今は、心とは物質だと思っている。物質とは究極の心なのだと思っている。物質がエネルギーの塊であるように、物質は心の凝縮された結晶なのだと思っているのである。
結局のところ、あるのは、この世界なのであり、それ以外の世界はないのだという、確信なのだ。あるのは、この腕、この顔、この髪、この足、この頭、この今、腹這う場所、この煮え切らない、燻って出口を見出せない情熱、理解されない、あるいは理解されすぎている自分の立場、そうした一切こそがこの世界なのであり、自分の世界なのだという自覚なのだ。
穢れなき…。
しかし、穢れとは何か、自分が気に食わない何かが自分を歪めているという思い込みに過ぎない。が、気に食う食わないなどに関係なく、自分は自分の望むような人間ではありえないのだ。仮に一瞬でも、何か完璧な瞬間があったとしても、それは束の間の夢か幻だ。決して持続しない。万が一、至上の時が数瞬でも続いたとしたら、心が何も望まなくなった時であり、肉体が新陳代謝を止めた時であり、つまりはそれは死の時以外の何ものでもないのだ。
地を歩き回る蟻も地の中のミミズも、風にそよぐ木の幹も、風に舞う木の葉も、舞い上がる埃も、降る雨も、軒を伝う雫も、水を跳ねて行き過ぎる車も、皹の入ったブロック塀も、根腐れしている垣根も、明かりの洩れる窓辺も、急ぎ足の人も、心を病む人も、その一切がこの世の風景であり、そしてこの世の風景以外には、何もないのだ。宇宙に心を遊ばせても、その心はこの世に粘りついている。この世の森羅万象に絡め取られている。
恐らくは、それでいいのだと思う。
こんな自分なのである。
過日、「『フェイド・アウト』から十年」でうだうだ書いたけれど、思えば、人間を描こうなんて、百年早い…というより、百年遅過ぎるのかもしれない。
物質的想像力の翼の羽ばたくままに、己の本性のままに、物質的恍惚の世界を描くことができれば、それでいいのではないか。
(09/02/18 記)
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コメント
私も大好きな埴谷雄高!命日とはうっかりしてました。
若き頃何遍も読んだ『死霊』はとても難解で、まるで自分が風車に向かうドン・キホーテのように思えたものでた。久し振りに読み直してみようかしら。
そう云えば『死霊』の装丁は駒井哲郎でしたっけ…。
投稿: Usher | 2009/02/20 02:08
Usherさん
『死霊』を初めて読んだのは高校卒業間際の頃。
分からないまま、沈鬱な雰囲気だけ味わっていたような。
学生になって『死靈』の第五章が出たとき、改めて読んで、一気読みしました。
ただ、ちょっと「?」が。
その「?」は、その後の章が出るたびに強まっていった。
明らかに第四章までとは、というより第三章までとは文章の密度が違う…緩まっている…といった若干の失望感。
小生の埴谷雄高に対する評価は、基本的に評論家やエッセイストとして高く、小説は評論家の頭で考えた頭でっかちの作品というもの。
それでも凡百の小説とは違う試みなので別格扱いしていますが。
駒井哲郎についても、拙稿で採り上げたことがありますが、彼の展覧会(二人展)を観に行った際に、一緒に展示されていた清宮質文に出会わせてくれた人という印象。
銅版画は好きでいろんな版画家がいるし、銅版画の魅力を知る切っ掛けになった人でもあります。
投稿: やいっち | 2009/02/20 09:33