「雨上がりの夢想」へ
← 梅を撮ったあと、天気は急変し、春一番が吹き荒れ、昨日は激しい風にボロ家は揺れた。青空に晴れやかに咲く梅。嵐の前の静けさ。
(略)天空をじっと眺めていると、夜の底にじんわりと朧な光が滲み出てくるような、底知れず深く巨大な湖の底に夜の間は眠り続けていた無数のダイヤモンドダストたちが目を覚まし踊り始めるような、得も知れない感覚が襲ってくる。朝の光が、この世界を照らし出す。
言葉にすれば、それだけのことなのだろうけれど、そして日々繰り返される当たり前の光景に過ぎないのだろうけれど、でも、今日、この時、自分が眺めているその時にも、朝の光に恵まれるというのは、ああ、自分のことを天の光だけは忘れていなかったのだと、妙に感謝の念に溢れてみたり、当たり前のことが実は決して当たり前の現象なのではなく、有り難きことなのだと、つくづく実感させられる。
(「沈黙の宇宙に響く音」より)
透明なパイプの中からは、昔と同様、外の世界が見える。風景は全く以前と変わらない。 変わったのは、そこに救いようのない静けさと寂しさがあること、己から人の世界へは無間に遠いと感じる自分がいること、街の風景は、あくまで風景であり、光景であり、背景であるということだ。その一番の背景は自分なのであるけれど。 私はパイプの中で窒息しそうなのである。私が吸い吐く空気は、パイプの中のみを循環する淀んだ空気なのだ。風の息の渦巻く世界との接触は、アクリルの板で遮られている。私は、何処までも縮小再生産する。私には、近いうちに世界の中の極小の点、存在の無に成り果てる予感がある。 (「雨上がりの夢想」より)
生きているこの世界は、もっともっと豊かで奥深いものだと思う。そうした、せっかく生きていることの大切さと尊さとを、ほんのわずかでも自分の心で感じとりたい。 人に何かしてあげるなんて、ちょっと、おこがましいことかもしれない。その前に、そう、自分の乾いた心をほんの少しでも潤わせることができたなら、きっと、それだけのことが、素晴らしいことなのだと、いつの日か、人にも分かってもらえることだろうと思うのだ。 (「足掻き…」より)
→ 風の吹き荒れる最中、買物へ。ふと見たら、店先にランの花が。茶の間の出窓に飾る。目も弱っている母が気付くかどうか。と、思ったら、夕食の時、母が「いい匂いしてるねー。何かと思ったら、ランだにか。ありがと」だって。そうか、匂いか。花には香りという魅力もあったんだと今更ながらに気付く。
性懲りもなく皮膚の底に潜り込もうとする奴がいる。ドアの向こうに何かが隠れているに違いない。皮膚を引き剥がしたなら、腹を引き裂いたなら、裂いた腹の中に手を突っ込んだなら、腸(はらわた)の捩れた肺腑に塗れたなら、そこに得も言えぬ至悦の園があるかのように、ドアをどこまでも開きつづける。 決して終わることのない不毛な営為。 (「ビアズリー 瀬戸際のエロス」より)
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