犬とコロッケ
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あれはいつもと同じように一人で学校から帰る途中での出来事だった。僕は、みんながそれぞれ友達と帰るのが羨ましかった。いつかは僕だってと思っても、結局は一人ぼっちで帰る羽目になってしまう。
みんな連れ立って一体、何処へ行くんだろうか。単に帰る方向が一緒だから、すぐそこまで一緒になるだけなのだろうか。
それとも、何処かに秘密の面白い場所があって、ワクワクする思いでそこへ向かうのだろうか。だから顔があんなにもにこやかなのだろうか。
← 対岸の向こうの小高い連山に夕日が落ち始めると、川面が赤く照り映えて泣きたいくらいに美しいのだった。
僕には何も分からなかった。
落ち零れの僕は、成績のいい、先生に目を掛けられている連中の仲間には到底入るわけには行かなかった。そうした奴らは、何だかもう人生の行方が明確になっているようで、とてもじゃないけれど足が追いつかない。
といって赤点付近でうろうろしている連中にも、どうにも馴染めない。そうした奴らには奴らなりの目に見えないけれど濃密な空間があるようで、どうしても僕ははじき出されてしまうのだ。
結局、僕は落ち零れグループの仲間入りというわけだ。僕は、一人になるのが嫌で、誰も友達が居ないと思われるのが怖くて、そうした悪ガキグループの尻馬に乗っていた。
大人になって、ああいうのを金魚のフンだとか下駄の雪とか言うのだと分かって、思い出すたびに赤面する。
でも、そんな自分を心底可哀想に思ったりする。
だって、そんなガキ連の中でも僕は仲間と見做されていなかったのだから。
ただ、奴らは優しかった。誰にも相手にされない寂しさをみんな体験しつくしていた。だから、俺が恥ずかしげに、でも、必死になって奴らの行くところ行くところを追い掛け回しても、邪険にすることはなかった。ま、取り巻きが一人増えたくらいのものだった。
が、それも終業のチャイムが鳴るまでのことだった。一斉に教室を出、それぞれに目的の、それとも約束の場所に急いで向かっていく。その勢いに乗っかるようにして僕も慌ててランドセルに教科書とかノートとか消しゴムとかを詰め込んで、学校をあとにしたものだった。
僕は、みんなに負けないように懸命に駆けて校門を通り抜けた。
それというのも、みんなのように、「バイバーイ」と呼びかけ合う相手がいないからだ。普通に歩いていると、友達がいないことがバレルからだ。一歩、校庭を出ると、誰もが他人だ。見知らぬ人ばかりだ。見知らぬ人とは、僕が眼前に居ない限りは、その脳裏に僕のことが欠片も浮かばない人間のことだ。
僕も、せめて誰かに「さよなら!」と声を掛けてもらいたいけれど、そんな相手が居ないことは自分が一番よく知っている。
そう、だから、小さく、「バーイ」と呟いて、返事の声が聞こえないうちに、学校を遠ざかるんだ。
その日も同じだった。走って走って、ようやく誰一人の姿も見えなくなって、やっと僕はのんびり歩き出した。
尤も、その足取りは結構、しっかりしている。それというのも、実はその頃、僕に行く当てができていたのである。
その場所は学校の裏通りを更に一歩、奥に入った商店街の裏にある。
ほとんど違う小学校の縄張りになりかけの通りを抜けた一角にあるのだ。僕は、その商店街のある惣菜屋でコロッケの買い食いをするのが習慣になっていたのである。
ほとんど自宅とは方角が反対に近い。
でも、その方向に行けば一番早く学校の連中の姿を見なくて済むようになるものだから、そちらに向かうのがいつしか習慣になっていたのだ。でも、当時は揚げたてのコロッケを食べたい一心だと思っていたのだと思うけれど。
コロッケは必ず二つ買う。
一つ目を食べ終わる頃には、学校の裏手の土手に辿り付く。そしてまだ温かみの残る二つ目を土手の斜面に腰掛けて、ゆっくり賞味するというわけである。僕の一番大好きな時間だった。
目の前を大きな川が流れている。上流は川下りなどの観光地となっている。けれど、僕の学校の辺りまで来ると、途中のセメント工場とか住宅街の排水で巨大なドブ川に成り果てている。
ガキの僕だって川に足を付けようなどと一度たりとも思ったことはない。中州で時折、釣りをしている姿を見かけることがあるが、魚など釣れるんだろうか、釣れたとして魚をどうするのだろう、まさか食べる?! 僕には想像を絶するように思えた。
コロッケは冷めないうちに食べる。そうしないと川のドブ臭が勝ってしまって、さすがの僕も食欲が減退するのだ。
その川は汚かった。
ただ、川幅だけはガキの僕にはだだっ広かった。対岸の向こうの小高い連山に夕日が落ち始めると、川面が赤く照り映えて泣きたいくらいに美しいのだった。
夕日は少しずつ沈んでいく。真っ赤な太陽が、最初はほんの少し山の天辺に触れるかどうかだったのが、次第にまん丸が欠けていって、やがてそれこそ線香花火の消え際の火の玉のように頼りなく歪んでいく。
そして完全に山の向こうに姿を没するのだけれど、連山の上の空は暮れ行く濃い青に抵抗するかのようにいつまでも赤く燃え続けるのだ、まるで名残を惜しむかのように。
そう、あの日は、残暑の厳しさもようやく和らぎ始めたことだった。その日も僕は夕日の沈む光景を楽しむつもりで、コンクリートで護岸された河原の縁に立っていた。二つ目のコロッケを何処で食べるか、場所を探していた。
そのときだった。土手から野良犬がやってきた。
別に狂犬という険しい雰囲気は感じなかった。むしろ、人間で言えば、人の目をやたらと気にする気の弱そうな成犬だった。秋田犬というのか、それとも柴犬というのか、そういった風の雑種で、体毛が薄茶色の、しかし毛が相当に白っぽくなって老犬のように思えた。
こちらの様子を伺うように、僕に向かって真っ直ぐにではなく、やや右方向に斜めに、ついで左方向に斜めにという具合に近づいてきて、とうとうほとんど僕の眼下といっていいほど近くに来てしまった。
痩せて背中に骨が浮いて見えて、餓えているのは僕にも分かった。
ある時、目と目が一瞬、合ってしまった。
どうしようか、コロッケをやってしまおうか。
コロッケをやったら犬は僕のあとを追いかけてくるに違いない。
我が家は昔、僕が保育所に通っていた頃、飼っていた犬がネコイラズを食って死んで以来、犬はご法度になっていた。
僕も犬は遠くで見ているだけなら、物凄く好きのだ。
ただ、いざ飼うとなると臆してしまう。一軒家なのだし、お袋だって犬好きなのだから、僕がお願いすれば、飼うことを許可してくれるに違いなかった。
でも、僕は一度だって飼いたいとねだったことはなかった。
僕は犬が好きだ。
だけど、僕は犬を虐めてしまいそうで怖かったのだ。もしかしたら父のように僕も犬を、さも、事故が避けがたいような状況、自分には責任がない格好にしてのことだが、犬を虐待してしまうような気がしてならなかった。
もしからしたら、じゃなくて、きっと、そう、僕は犬を責め抜くような気がする…。
餌をやる振りをしてやらなかったり(家族のものには、やった振りをする。そのうち犬が痩せてきたら、病気なのかなと、惚けてしまう)、水を碌にやらなかったり、散歩に連れて行っても、何処かに繋いだまま知らん顔をしたり。
僕には犬以外に虐める相手がいないのだ。今までだって、何処かの猫か、鳩か、虫けらを責め苛んできたように、どうせ犬にも意地悪するに違いないのだ…。
僕は相変わらず野良犬を前に立ち竦んでいた。どうしたらいいのか分からずに居た。コロッケを遠くに放り出して、犬がそのコロッケを食いに走っている間に逃げてしまえばいい。コロッケさえなくなれば、僕にはほかに食べ物などないことなど、犬は分かるだろうし。
その実、犬を連れて帰りたい気持ちもあるのだった。犬を虐めるかもしれないというのは、僕の考えすぎで、飼えばちゃんと世話ができるかもしれないではないか。犬と僕とは存外、仲良くやっていけるかもしれないではないか。
何をそんなに怖がっていたのだろうか。
僕は途方に暮れていた。
すっかり冷え切ったコロッケをどう始末したらいいのか決心が付かなかった。
犬は吼えもせず、ただ、散々虐められてきて怯えきったような、でも、餌の魅力には勝てないような、そして僕が最後にはコロッケを与えるだろうと高を括っているような、僕にはどうにも判断の付かない表情を示したまま、じっと僕を見つめていた。
僕はどうしたいいのだろうか。
悲しいことに、そのあと僕がどうしたのか、覚えていない。
でも、僕が今、こんな人間であるということは、やっぱりコロッケを放り出して、後も見ずに逃げ出してしまったのだろう…。
(「犬とコロッケ」より)
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コメント
なんとも切ない気持ちがよく表現されていて、情景が目に浮かびます。私の場合は居候先の祖父母が前に飼っていたコッカスパニエルが死んで、犬は飼わず猫を飼っていました。そうあの頃はノラ犬が小さいのから大きいのまでいましたね。よくノラの子犬と遊んでいて夕方、みんなが帰ってからも、一匹だけ残すのが可哀想で抱いて帰っては叱られて、泣きながら捨てに行ってましたね。今でも切ない想いがよみがえります。
投稿: ピッピ | 2009/02/18 23:11
ピッピさん
読んでくれてありがとう!
小生にとってこの思い出が切ないのは、野良犬とはいえ、動物に対する情愛が薄い…ってことは、人間に対する情愛の念も薄いのではという、自分の中での深甚な疑心を抱く、一つの象徴となる出来事だったからです。
愛情が人並みにあれば、親がどうこう言おうが、勝手に連れてきては叱られ、どこかに放してくる、その繰り返しといったドラマもあっただろう。
でも、そんなことはなく、ただ唯々諾々と親の言いなりになって、というより親の意見を口実に、犬(ペット)はあくまで遠巻きにその可愛さを愛で楽しむだけ、自分では責任を負った形で世話しようとしない、そんな自分が透けて見えるようで、自分で自分が嫌でたまらなくなった、その原点のような出来事だったのです。
前日にアップした、「猫と扇風機の思い出」も、伏線というか、底流にはそんな自分の情愛の薄さも、話の成り行きに関わっていると思っています。
そう、ピッピさんのように、犬はダメなら猫を飼うとか、まして「ノラの子犬と遊んでいて夕方、みんなが帰ってからも、一匹だけ残すのが可哀想で抱いて帰っては叱られて、泣きながら捨てに行ってましたね」といったような、情愛溢れるエピソードなんて小生にはなかったし、ありえなかった、そのことが悲しいのです。
投稿: やいっち | 2009/02/19 09:39