叡智 はるかに
今日は、旧稿を公表当時のままにアップする。書いたのは、もう7年前のことだ。何ゆえ、本稿をアップするかは最後にメモする。
← 家の中が大変。心象風景そのものだ。
まあ、こんな、やや気恥ずかしい記事を再掲するのも、今日は帰郷してちょうど一周年の日ってこともあるかもしれない。
「叡智 はるかに」
愚かなるもの、それは人間、という言葉があるらしい。その意味するところは、知る人ぞ知るなのだろう。
が、一人の静かなる夜の底に佇みながら思いを巡らし始めると、自分がいかに何も見えないかが痛感されて、怖いくらいだ。
ただ、年の功とやらで、荒波をかぶらないようにうまく逃げ隠れするわざだけは、少しは身に付けたように感じる。だから、ガキの頃のように道端の石ころに躓くことはないし、振り返りざまに柱に顔をぶつけるドジも、めったにしない。
ちょうどそのように、知恵モドキくらいは学び取ったものだから、今では人とぶつかることだって、めったにない。それとも、ここ久しくなくなってしまっているとさえ、言える。
ちょっとぶつかりそうになっても、ああ、このままいったら衝突だと、心の片隅に黄色信号が点滅し始め、用心深く、泥濘を避け、通り過ぎる車の風圧をかわし、さっさと何処かの安全地帯へ身を潜める。
そして遠く離れた場所から、正直な人が真っ直ぐに進んだが故に困難な事態に遭遇しているのを、さすがに高見の見物はしないまでも、しかし、チラチラと覗き見ているのである。
そんなずるがしこい習性を獲得したのは自分だったはずなのに、さて、では、このようにして誰とも関わりのない安穏たる世界にヌクヌクしていると、この寂しさや静けさは気に食わないなどと、不平を漏らしてしまう。
一体、自分は何をしたいのか。何を求めているのか。そもそも、どうあったら満足するというのか。自分だけは安全圏に身を置きながら、でも、一方では人の不幸や悲しみや不遇に同情を寄せたいだけなのか。このウダツの上がらない人間でも、それなりに共感の心は持っていることを誰かに示したいのか。
そうか。それはそれでいい。じゃ、一体、お前に何ができる?
敢えて、面と向かってそう問われると、やっぱりスゴスゴと尻尾を巻いて逃げ隠れるんじゃないか。
結局のところ、体(てい)のいい引きこもりと同じなのである。
ただ、生計を自分で成り立たせているから、誰にも文句は言われないし、目立たないように用心深く息を潜めているから、後ろ指も指されない。
ああ、でも、何かが心の中で燻っている。神とか仏とは信じないけれど、しかし、ここにだって一個の魂があり、自ら落ち込んでしまった穴倉だとはいえ、その中でもがいている。今では風さえ通らないものだから、空気のこの澱みようはどうだ。壁には黴。天井には沁み。床にはゴミ。机には紙屑。窓には曇り。心には雨だ。
町を行くと、時折、擦れ違う人がいる。足を引き摺って、ひょこたんひょこたんと、歩いている。遠慮を知らないガキなら笑いたくなるような、何処か滑稽な歩き方だ。えげつないコメディアンなら、その恰好を真似て笑いを取りたくなるようなひょうきんささえ、ある。
顔の表情を歪めて、観客の笑いを取って、それで芸をしていると思っているらしい。
では、自分はどうか。さすがにその人を見て、笑ったりはしない。じゃ、心の中では。神様さえ見詰めていない心の闇の中では、どうか。心が痙攣しているのは、実は笑いを押し殺しているんじゃないのか。ただ、世間体があるから、素知らぬ風を装っているだけじゃないのか。
可笑しかったら、笑えばいいじゃないか。
だって、ひょこたんひょこたんと歩いている当人だって、実は自分で可笑しいって笑っている可能性だって、ないわけじゃない。そうだろ?
ああ、でも、もし、自分の心が何処か、歪で、素直で正直な人の目から見たら、自分の心こそがひょこたんひょこたんとしているとしたら。
もしかして、自分が何も見えない。何も感じない。何にも感動しないのは、自分の心が何処かでフン詰まりを起こしているからではないのか。そして、ただ、自分には自分の心が見えないから、笑う心さえないのではないか。
私という人間は一体、何を失ったのだろうか。今更、何を求めているだなんて贅沢は言わない。せめて心の空白を埋めることができればと思うだけだ。が、それも、実は、贅沢の極みなのかもしれない。
街の片隅には無数の闇がある。無数の死角が隠れている。そのどの心の裏側のような限局された世界にも、人がいる。もう、そのニッチにうまく嵌り込み過ぎて、どうにも身動きが取れなくなっているのだ。
遠い昔、何かの漫画の本で数々の拷問の絵を見たことがある。水地獄、石地獄、火地獄、飢餓地獄、孤独地獄。
その中で、ガキの俺が一番、怖いと思ったのは、狭苦しい空間に身を思いっきり屈めた状態で押し込められるという拷問だった。
もしかしたら、図らずも自分は、そして街の片隅に転がる石ころのようにゴロゴロいる、無数の行き場のない連中は、そんなニッチ地獄に嵌り込んでいるんじゃないか。しかも、当人は、これはこれで快適だと感じていたりして。
でも、魂は飢える。魂とは、太陽へと手を差し伸べる心のこと? 死んでも殺しきれない怒りのこと? それとも、刃で胸を突いても流しきれなかった悲しみのこと?
自分に青春がなかったとは言えないのかもしれない。が、それは水溜まりに沈んだ石ころだった。心が石になった。この世に目覚めた瞬間、浴びた日の光に耐え切れなかったんだ。
転がる石もあるけれど、俺の石は、道端で埃に埋もれていく情ない砂利石の欠片だ。
俺の中に欠ける一番、肝腎なものは、生への盲目的なばかりの意志。
だけど、そんなことは気恥ずかしくて、とても言えないから、石ころをただ、黙って心に思い浮かべている。
そうして、人には、昔の賢人の生への盲目的な意志への傾倒を語る。が、実は、それがないからこそ、心底から感銘を受けたなんて、もっともっと気恥ずかしくて公言などできるはずもない。
生への盲目的な意志は、宇宙の命の洪水は、この世の誰をも分け隔てなく、その奔流に巻き込んでくれる。それこそ、草木や木石や土埃や虫けらや哺乳動物や人間や、そして俺をも、だ。
地震が起きると、誰もが不安がる。けれど、俺は内心は喜んでしまう(実害は別として)。何故なら、俺の心の中はいつも揺れているからだ。心が揺れ惑って定まることがない。心の拍動が止んだことがない。地震は、その俺の心の不安の万分の一を誰もが感じるめったにない機会だから、俺は喜んでしまうのだ。何ていう奴なんだろうって?
ちょうどそのように宇宙を流れる闇の河は、というより宇宙とは何処から来て何処へ去るともしれない闇の大河そのものなのだが、その河は流れ澱んで果てることはない。その河のほんの気まぐれな細波が地震に過ぎないのだ。大地の拍動に他ならないのだ。俺の心は、その絶えることのない微動に真っ正直に呼応しているだけなのだ。
無数のニッチ地獄に呻く奴等がいる。そうした奴等は、もう、とっくの昔に闇の世界の流れに身を委ねてしまった連中なんだろう。
そうした連中は、永遠の相の中で胸の中の魂を切り拓いてみせることしか願っていないのだろう。俺も、もうすぐ、そんな奴等の仲間入りを果たすのだろうか。
ああ、叡智は、遥か彼方だ。
→ このように晴れやかな身心でいたいなー。
[本稿を書いたのが、今日が小生の誕生日だから。ただそれだけの理由。読み返してみて、自分がまるで成長していないことに呆れる。どうも、しみったれる一方で困る!]
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コメント
誕生日、おめでとうございます。そして帰郷一周年も。
ポール・オースター、読んだ中では「幽霊たち」が一番好きですね。
最近のとはまるで作風が違いますが、純一で透明感のある、結晶体のような素敵な本。
また機会があれば読んでみてください。
――僕も久しぶりに再読してみようかな。
投稿: 石清水ゲイリー | 2009/02/26 10:38
〇5回目のお誕生日、おめでとうございます。
帰郷して1周年というのだから、誕生日に戻ったというわけね。
毎日こちらには伺っていますが、変わらない素晴らしい文章を堪能させていただいていますよ。親孝行もあるかもしれませんが、いつかまた長編に挑戦してくださいね。
投稿: 由佑子 | 2009/02/26 19:01
石清水ゲイリーさん
メッセージ、ありがとうございます。
今日は、家庭内が大変でした!
ポール・オースター、次に何を読めばいいのか分からなかったので、たまたまあった『偶然の音楽』を予約しました。
その次、『幽霊たち』を読もうかな。
『幻影の書』、とにかく読ませました!
投稿: やいっち | 2009/02/26 21:13
由佑子さん
55回目の誕生日です。
なかなか大変な誕生日となりました。
誰一人、誕生日に気付く人も居ない我が家です。
今は、家のことで神経をすり減らしています。
なので、雑文ばかり書いている。
そのうち、もう少し、集中力の高まった文章に挑戦できたらいいなと思っています。
投稿: やいっち | 2009/02/26 21:22