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2009/02/12

『フェイド・アウト』から十年

 気がつけば『フェイド・アウト』(文芸社)を自費出版して今年で十年目となる。
 そんなことを今更ながらに気付いたのは、今日(水曜日)、ちょっとした出会いがあって、やるなら本気で改めて頑張ればと励まされたからだ。

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← 我が家の明かり。

 タクシードライバーを生業としつつ、時間を掻き削るようにして書いたものだった。
 時間を掻き削るだなんて、大袈裟な表現のようだが、実際、そうだった。

 通勤時間も含めると、週に三日の営業で70時間はタクシー関連の仕事。
 営業の終わったあとは、20時間以上、都内でハンドルを握ったせいで、神経が昂ぶっていて眠れないものだから、よせばいいのに、帰宅の途上、コンビニで買ったおでんやヤキソバを食べてお腹を満たして、神経を誤魔化す。
 前日の午前から始めて、帰宅するのは翌日の早朝(時にはロングの仕事がさいごあったりして、お昼頃になることもしばしば)。
 お腹が満ちたところで、ベッドに倒れこみ、眠ったようなまどろんだだけのような数時間を通り抜け、意識が半ば朦朧としながらも、起き上がって、買い置きの惣菜を電子レンジで温め食事。
 もともと睡眠障害の持病があるので、何時間寝ても、健康な人の二三時間ほどの睡眠時間ほどの睡眠効果もない。
 というより、眠る前より起きた時のほうが疲労困憊なのが現実。

 よせばいいのに、その頃(も)、友人の仕事の手伝いで、テープ起こしのアルバイトをやっていた。
 友人が取材した録音テープをカセットやパソコンを使い、活字に変換する仕事。

 アルバイト代は貰ったけれど、時間の余裕がなく、タクシーの営業を早めに切り上げてテープ起こしをすることもあったので、当時はタクシー業も繁盛し売り上げも良かったので、タクシー業務からの給料の減額分を考慮してプラスマイナスするとマイナスだった。

 でも、多少でも文章に触れる仕事をしたかったので、バイト料(自分にとっての採算)など度外視してせっせとやったものだった。

 しかも、小生は自分にノルマを課していることがあって、それは毎日、最低(どんなことがあっても)50頁は本を読むこと(平均して50頁ではダメでその日その日のノルマとしての50頁)、毎日、最低数枚程度の文章を書くこと。
 タクシーのハンドルを握っているか、通勤(移動)しているか、何か喰っているか、テープ起こしや何か書き物をしているか、そうでなかったら、仕事の疲れも併さった睡眠障害に起因する寝起きの疲れでグロッキーな心身を少しでも癒そうとベッドに倒れこむか(しかし、眠るとまた睡眠障害で体が疲れてしまうという悪循環が待っている)。
 女性も含め人間関係は皆無。

 95年の9月からタクシー業務に携わっていて、そんな日々を二年間続けたところで、幸か不幸か、97年の8月に消費税のアップや特別減税の取りやめに伴う大不況がやってきて、タクシー業務(だけじゃなかった)が不況のどん底に陥った。
 読書のノルマも客待ちするタクシーの中で十分こなせたし、97年には友人の仕事の手伝いも少なくなっていた。
 そうでなかったら、サラリーマン時代の最後の数年同様、体を壊していたに違いない。

 日々、数枚程度書くというノルマは果たし続けいてたが、いよいよ本格的に一つの創作に向けて乏しい精力を振り向けることができるようになった。
 長編を書くのが何より好きだったのに、タクシー業に携わってできなくなっていたのが、不況などの御陰で(!)再び、長編に取り組む…というより、出版に向けた雑事に携わる環境が整ったのだから皮肉なものである。

 拙著『フェイド・アウト』の奥付け(の一部)に、「デジタル社会の中、稀薄化する現実感覚や肉体的存在感の恢復をテーマとしている」などと書いている。
 これはまあ、原稿の校正がほぼ終わった段階で、奥付けに何を書くかと言われて、あまり深く考えずに、ある意味、切羽詰って…苦し紛れに書いたようなもの。
 
 でも、今、改めて思うのだが、その「稀薄化する現実感覚や肉体的存在感の恢復をテーマとしている」とは、よくぞ書いた、思いついたものだ!

 かなり、本音に近いというか、的からは遠く外してはいない文言のように我ながら思う。

 タクシー業界に飛び込んだときに既に何か社会から切り離されたような感覚を抱いていたようだし(実際には、とんでもなく重要な責務を負っている仕事なのだが)、否、むしろ、その前の(サラリーマンという)人間関係から逃げ去ったという感懐を抱いていたようでもある。
 しかし、もう少しだけ当時の自分の心中を抉ってみると、稀薄化する現実感覚や肉体的存在感の欠如というのは、そんな文言を使うかどうかは別にして、ガキの頃からの真率な心情の吐露(悲鳴…弱音)のようである。

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→ 国見弥一著『フェイド・アウト』(文芸社)

 当時の自分に限らないのだが、そもそも自分は物心付いた時から周囲の一切から(特に人間達から)宙に浮き上がっている、小生の短編の中の表現を使うと以下のような心境…というより(非)現実感覚:

 透明なパイプの中をボクは今も滑っている。滑らかだ。ざらざらしたところなど、何一つない。手応えなどない。

 ボクは透明なパイプの中を歩いている。外の声は聞こえて来る。だから、決して孤独なんかじゃない。ただ、ボクの声が外に漏れないだけだ。パイプの外の光景は、みんな夢なんだ。みんな、本当は人形なんだ。外見がとっても、人間に似ているだけなんだ。石になってしまうんじゃなくって、最初から、ただの木偶の坊の人形劇に過ぎないんだ。

 時間とは空間である。つまりは通り過ぎるだけのための空間の積み重ね。透明なパイプの中を通過する一個の繭。但し中味は乾いてパサパサ。食い散らされた蓑虫。柿のヘタ。世界を畏怖し恐怖する蛹。本来の形を忘れた胎児。


 こういった、異次元の非現実世界を物心付いた時から浮遊しているとしか思えなかったのである。

フェイド・アウト』以降、まとまった作品は書いていない。
 ノルマは果たし続けているが、書くほうにしても、断片的な、それこそ雑文ばかり

 そろそろ自分なりの世界に再挑戦するか、あるいは、精神的にも肉体的に磨耗しきっていて(特に帰郷してからの磨耗が激しい)、もう再挑戦など論外なのか、見極める時期に来ているように思える。
 さて、どんな見極めになることやら。

                                  (09/02/11 夜半作)

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