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2009/02/28

縄文サンバにカエルコールに(前篇)

 最近、読書拾遺的な日記を書いてないような気がすると、調べてみたら、多分、「読書以前のつまらない話」が最後のような気がする。
 が、この小文などは、借りた本が(自分の思っていたものとは)違う本じゃないかってことで、すったもんだしたのだから、読書拾遺とは言い難いのだが。

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→ 我が家の玄関先に鎮座する陶製の親子カエル。「行ってらっしゃい」や「お帰りコール」をする。小生の働きぶりを一番よく知っていてくれる。いったい、何年前からここにあったのだろう。せっかくなので、綺麗にしてあげたよ!

 その後に書いた、「オースターそしてブレイクロックの月(前篇)」(や「オースターそしてブレイクロックの「月光」(後篇)」など)は、その頃、読んでいたポール・オースター著の『幻影の書』に絡むものだから、広く言えば読書拾遺の範疇に入るやもしれない。
 まあ、テレビドラマ『相棒』から『鑑識・米沢守の事件簿』がスピンオフするようなものか(…ちょっと無理があるか)。

 となると、厳密には読書拾遺も、まして読書感想文の類いなど、半月以上、どころか三週間ほど、書いていないことになる(但し、なんらかの形で言及はしていることもある)。

 まあ、家庭内がゴタゴタしていて(母に続いて父までが…)、通常の日記さえ、碌に書けない状態だった(し、今も)から、仕方ないのだが。

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2009/02/27

「たまゆら考」再見!

 このところ、家の中がゴタゴタしていることもあって、気晴らし半分で銭湯へ行く回数が増えている。
 なので、今日は、ほんの僅か銭湯に関係のある(?)過去の記事を再掲する。

 銭湯へ行く。当然、男風呂である。隣には女風呂があるが、入った事はない。覗いたこともない(多分)。

 バイトは夜なので、銭湯へ行くとしたら昼間である。
 ガランとしているが、それでも、小生一人というわけにはいかない。
 誰かしら、年輩の(小生よりも年輩…なので、60代以上の)方々である。

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→ 近所の銭湯では、更衣室と風呂場との仕切りのガラス戸は、開けるのは手動だが、閉めるのは自動。といっても、水の入ったペットボトルが下りることで閉まる仕組み。

 別に興味はないが、やむを得ず、男の持ち物が眼中に入ってしまう。
 観たくはないので、目はすぐに背ける。
 逆に、小生も銭湯の中では、タオルで前を隠すこともないので、その気になれば、観放題というわけである。
 まあ、あまりしげしげ眺められたことはなかったと思う。

 とにかく、まあ、なんだかんだで、その気はないが少なくとも男の持ち物を(トイレのような閉鎖空間ではなく)照明が煌々と灯っているもとで眺める…目に入る機会が増えてしまったわけである。
 だからというわけではない(こともない)が、旧稿である「たまゆら考」が妙に懐かしくなった次第である。

 拙い…、思いっきりの駄文だけど、ちょっと一緒に読みましょう!

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2009/02/26

叡智 はるかに

 今日は、旧稿を公表当時のままにアップする。書いたのは、もう7年前のことだ。何ゆえ、本稿をアップするかは最後にメモする。

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← 家の中が大変。心象風景そのものだ。

 まあ、こんな、やや気恥ずかしい記事を再掲するのも、今日は帰郷してちょうど一周年の日ってこともあるかもしれない。

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2009/02/25

東京タワー…沸騰都市東京のシンボル(後篇)

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→ いかにも冬の北陸そのものといった昨日の富山の曇天。沈鬱。でも、地にある人(男)は、お山の大将的な人が多かったりする。女性は働き者で元気な人が多い。

[本稿は、「東京タワー…沸騰都市東京のシンボル(前篇)」の続篇です。]

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← もう時効だろうからいいだろうけど、浜崎あゆみさんや池上季実子さんなどなど数々のタレントさんにも乗っていただいた。画像は、テレビCMの一シーン。

 その三田通りも、最後の一軒(当時、札の辻交差点に三田警察署があった、その対面にその家があった)の立ち退き交渉も終わり、更地になり、三田警察署も引越し、道路も片側二車線となって、随分と風景が変わった。
 道路が片側二車線になって、道路がまさに国道一号線の名に値する幅広さと整備された歩道などになって、札の辻交差点から東京タワーのある芝公園への見通しがよくなった。

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2009/02/24

東京タワー…沸騰都市東京のシンボル(前篇)

NHKスペシャル|沸騰都市(全8回)」を観た。

「グローバリズムによって国境の意味が薄れ、新たに世界の主役を担うのは、国ではなく「都市」の時代が到来。世界を主導してきた超大国のアメリカの力が揺らぎ、急成長する新興国が主役交代の鍵を握る中、世界の地殻変動の舞台となっているのが、様々なエネルギーせめぎ合いぐつぐつと煮えたぎる「沸騰都市」である」といったコンセプトの番組。

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→ 「東京タワー」 撮影は小生の手になる。小生が卑しいせいか、ゴールドのタワーに見える ? ! 東京は、「沸騰都市」であり、「モンスター都市」であり、この写真のように、ゴールドに煌く都市でもある。地方の地盤沈下を他所に…、というより、地方や世界の多くの土地の生き血を吸って、真っ赤に煮え滾るかのようだ。まだまだ、限界に達していない。まだまだ、変わる。まだまだ、血と地と知と夢とに餓えている!

 といっても、小生が観たのはそのうちの何回かだけ。
 昨日は(録画で)このシリーズの最終回に当たる「NHKスペシャル|沸騰都市 最終回 TOKYOモンスター」に見入ったのである。
 まあ、テレビ番組を観てそれなりの感想や感懐を抱いても、それでスルーするのだが、今回は、特に番組のエンディングで、小生が東京在住時代に働いたり、通勤したりなどで長く強く馴染みの地域の航空映像が流されたので、ちょっとメモしたくなったのである。

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2009/02/23

オースターそしてブレイクロックの月(前篇)

 過日、ポール・オースター著の『幻影の書』(柴田元幸/訳 新潮社)を読んで圧倒的な筆力やストーリーテリングの上手さに感服し、すぐに二冊目を借りてきた。
 それが、『ムーン・パレス』(柴田元幸/訳 新潮社)。

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→ ポール・オースター著『ムーン・パレス』(柴田元幸/訳 新潮社)

 どんな内容の本なのか分からない。図書館で彼の本を検索したらこの本が書庫にあるというので、とにかく彼の小説を読みたくて借り出した。

 これがまた語りが上手くて読ませる。
 なんだか遅ればせながらポール・オースター (Paul Auster、1947年2月3日-)のファンになりそう。
 柴田元幸が翻訳されているのだが、訳者が彼だと、小生は安心して手を出せる。いつもながら(生意気な言い方と思いつつも)上手いなーと感心する。
 これまで何冊、彼の訳書にお世話になってきたことか。

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2009/02/22

水仙を植えたわけは

 多分…、やや希望的観測気味だが、昨日までの寒さが今冬最後の寒波の襲来だったのだと思う。
 一昨日や昨日と黄砂が降ったのも、春の到来を告げている…と(願望を籠めて!)思いたい。
 寒さにめっきり弱くなった小生、春の訪れを待ちわびているが、さりとて、手放しで春を待ちわびているとも言い切れない。

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← 樹齢百五十年ほどの梅の木は、今年も花を咲かせてくれてた。

 別に花粉症だとか、冬も去り行くとなると寂しいとか、そんな理由ではなく、春の生暖かさが嬉しくもあるのだけど、何処か気鬱っぽいというか、憂鬱というか、何故か億劫なのである

 多分、命の芽吹きが眩(まばゆ)いからだろう。

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2009/02/21

車の汚れは黄砂のせい?

 昨日もだが、今朝も、新聞を取りに玄関に出てビックリ。
 車がやらたと汚れている。
 昨日の朝は、主に後部ドア付近が泥んこ汚れ状態。
 玄関脇にある雑巾で拭って、ひとまず大丈夫ということで、外出。

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→ 金曜日の朝。朝露に濡れる梅の木、そして梅の花。

 今日の汚れは車全体が汚れている。
 頭から泥水でも被ったような、悲惨な状態。
 夜半にトイレに立った時に、小窓を開けたら、昨日の雨が雪に変わっていた。
 幸い、予報ほどには平野部は降らず、積雪は数センチもあったかどうか。
 その雪も朝方には上がり、小雪がちらほら降りつつも、空には青空も垣間見える。
 早朝には車もうっすら雪化粧だったが、その雪もあっさりと溶けてしまう。

 溶けたはいいが、その下からは、車のボディ全体が薄汚れていたというわけである。

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2009/02/20

鈴なりのスズメたち

 本日は、「岩佐又兵衛…浮世絵の源流? 劇画の開祖?」をアップしました。

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← 昨日(19日)、精米に行ったら、小屋の外でスズメたちが作業する小生の様子を窺っていた。お零れ、頂戴って言ってそうな表情。こうして見ると、スズメも可愛い!

 さて、以下の一文は、小生の旧著からの抜粋です:

 私はきっと自分だけの楽しみを求めているに違いない。だがそれが何なのか自分でも分からないでいるのだろう。今、目の前に獲物がある。それをひたすらに追う自分の姿を突き放したような冷ややかさで見ているのだ。その気持ちの正体が何かは言葉では表現できるようなものではないと思われた。私は肉の海で溺れてみたかった。溺れ込み、沈み込んで、圧倒する濃密な汗とよだれの滴る歓喜の修羅場の只中で、自分の身のうちにしつこく潜み根付いてしまった、決して何者とも和することのない眠らぬ虫を殺してしまいたくてならないのだった。女の肉が私の肉と区別し難いほどに交わって、私は白いふくらはぎ、それとも柔らかな和毛(にこげ)に覆われた深くて細い小川の魚をつっつく水鳥、あるいは金剛像に纏わり付く蛇だった。薄明かりの部屋の中で石ころが転がって、ありとあらゆるところにぶつかり、積年のうちに堆積した垢や苔を嘗め回し削り取ろうとしていた。燃え上がる欲情の洪水が浜辺の砂山を押し流すのだった。できれば同時に私を食い尽くす虫をも窒息させてほしいと思った。
 気怠い淀んだ空気が漂っていた。私から女に注がれた精力も彼女の肉体の精気と一緒に浮遊し、中空で性懲りのない戯れを演じていた。女は隣で軽い鼾(いびき)を立てている。裸のまま体を折り曲げて、無邪気な顔を枕に埋めるようにして寝ているのだ。私はその幼さの残る寝顔を見ながら、いつもの性癖を果たしたいという欲動がむくむくと湧いてくるのを憂鬱さと、そして少しばかり待ち遠しいという念で待っていた。こうなったら私にはもう制する力は残っていないのだ。私の中の遥か奥の院の何者かが勝手にやっている、そうとしか私には言えない。
             「ラヴェンダー・ミスト」p.31-2(『化石の夢』所収)

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↑ スズメたち、虎視眈々と、お零れを狙っている。小生、意地悪なので、多分、一粒も落とさなかった。ゴメンね!

 89年に作ったもの。ジャクソン・ポロックの「ラヴェンダー・ミスト」を横目に真夜中過ぎに創作していた。丁度、20年前の作品である。文章が若い!

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2009/02/19

村上春樹氏のエルサレム賞受賞スピーチ

村上春樹氏のエルサレム賞受賞スピーチの日本語訳が読めます:
はんどー隊ブログ 村上春樹氏のエルサレム賞受賞スピーチ

小説家としての、さすがのメッセージでした。

個人的なメッセージとして、「私はこれを心の壁に刻んでいるだけ」として、以下の意味深な言葉を伝えてくれた:
高くて硬い壁と一つの卵との間で衝突が起こったら、私はいつでも卵の味方をするだろう

このメッセージに籠めた意味合いは、上記のブログにてどうぞ。

以下は、「YouTube」での動画(ニュース画像)。堂々たる演説ぶり:
村上春樹 「エルサレム賞」受賞スピーチ
(何処かの首相や辞めた大臣に見せたい、なんて野暮なことは言いっこなし!)


村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチ:カイエ」が非常に充実している。


無関連拙稿:
村上春樹著『神の子どもたちはみな踊る』
寒波の中の帰郷

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物質的恍惚の世界を描く!

 今日2月19日は、埴谷雄高の命日である。
 小生は彼の本を片っ端から読み、読み浸ってきたわりには彼(の本)に付いての感想文はあまり書いたことがない。

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 せっかくなので、今日こそは何かをと思ったのだが、どういった思考回路なのか、埴谷からカントへ、そしてちょっと飛躍して<物質>へ関心の焦点が移っていってしまった。

 そうだ、埴谷(やドストエフスキーやチェーホフやガルシンやカフカなどなど)を読み浸っていた頃、決して耽溺というわけではないのだが、一方では全く違う世界として、ル・クレジオの『物質的恍惚』に惹かれてならない自分がいたのも確かだった。
 …というより、小説の世界とはほとんど切り離されて、あくまで<物質的恍惚>という言葉に自分の迷妄の世界を歩んでいく上での糸口のようなもの、手掛りのようなものを嗅ぎ取っていた、というべきか。
 まあ、端的に言って、<物質的恍惚>という言葉に感電したわけである。

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2009/02/18

犬とコロッケ




コネタマ参加中: ペットの困った体験談、教えて!

  あれはいつもと同じように一人で学校から帰る途中での出来事だった。僕は、みんながそれぞれ友達と帰るのが羨ましかった。いつかは僕だってと思っても、結局は一人ぼっちで帰る羽目になってしまう。
 みんな連れ立って一体、何処へ行くんだろうか。単に帰る方向が一緒だから、すぐそこまで一緒になるだけなのだろうか。
 それとも、何処かに秘密の面白い場所があって、ワクワクする思いでそこへ向かうのだろうか。だから顔があんなにもにこやかなのだろうか。

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← 対岸の向こうの小高い連山に夕日が落ち始めると、川面が赤く照り映えて泣きたいくらいに美しいのだった。

 僕には何も分からなかった。
 落ち零れの僕は、成績のいい、先生に目を掛けられている連中の仲間には到底入るわけには行かなかった。そうした奴らは、何だかもう人生の行方が明確になっているようで、とてもじゃないけれど足が追いつかない。
 といって赤点付近でうろうろしている連中にも、どうにも馴染めない。そうした奴らには奴らなりの目に見えないけれど濃密な空間があるようで、どうしても僕ははじき出されてしまうのだ。

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2009/02/17

猫と扇風機の思い出




コネタマ参加中: ペットの困った体験談、教えて!

 もう二十年近く以前のこと、東京は高輪にあるマンションに住んでいたことがある。

 部屋は、八階建ての八階で、頭の上は炎天下のコンクリートということで、夏場はひたすら暑い。熱気が私の部屋までまともに伝わってくるのだろうか、エアコンなど効いているのか分からないほどだ。

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→ 真夜中の散歩…? ( by なずな

 ただ、部屋が八階と高いところにあることで助かることがある。
 八階という高い場所にあるため、ベランダ側の窓を開け、廊下側(玄関側)のドアを少し開けておくと、風が小気味いいように吹き抜けていく。
 だから、夏場でも夕方を過ぎると、クーラーを使ったためしがない。
 最上階でもあるし、玄関のドアにはチェーンはしてあるし、ベランダのドアを開放しておいても、不審者が忍び込む怖れもないだろう…。

 そんなある日、ベランダに何か生き物の気配を感じた。まさか、こんな八階のベランダに動物が? 我が部屋のベランダは洗濯機も置けないほどに狭いのだ。しかも両隣りのベランダからも、それぞれに分離している。

 気のせい? しかし、間違いなく、居る!

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2009/02/16

雪の夜に「真冬の満月と霄壤の差と」を想う

 今日16日、先月27日以来の雪が降った。ほぼ三週間ぶりの雪であり雪景色となった。
 今冬最後の寒波の襲来となるのかどうか。
 昨冬だって積雪が五十センチを超えたかどうかで、大雪とは到底、言えない。
 まして今年は最大でも二十センチを越えたかどうか。
 暖冬も行き着くところまで来た。
 もっとも、まだ今冬の寒さが峠を過ぎたと、油断するわけには行かない。

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← 今日(16日)の夕方。庭先の松も梅の木もすっかり雪化粧。

 今も外は、チラホラ雪が降っている。
 星屑も月影も望めるはずもない。
 となると、逆にそんな星月夜が恋しくなる。

 タクシー稼業をしていたころは、夜通しの仕事だったし、空車の折など、月影を追って走ったり、星影や月影を愛でるため仕事の合間に、どこぞの公園の脇に車を止めたものである。
 車のエアコンで暖めたペットボトルのお茶を喫しつつ、用意した茶菓子など食みながら、公園の樹木の枝越しに天頂の月を眺めやったものである。

 そういえば、そんな真冬の月影を眺めての感懐を綴った随筆があったなと探したら、以下の一文が見出された。
 この小文を書いてから早、六年。
 家に篭りきりなので息が詰まっているのかもしれないが、特に一昨年の末から神経衰弱気味で、今ではとても天頂に対峙するような文言など綴れない。
 
 それだけに、なんだか懐かしくもある。
 ほんの数年前の自分が若々しいと感じてしまうとは、いやはや。

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2009/02/15

我が家の庭の仲間たち

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→ 季節はずれの暖かさも今日までだと知っているのか、白猫殿は我が家の庭で日向ぼっこ。眼がウットリ! 我輩も、最近、貴殿のお姿を拝見できて、嬉しいよ! 東京は大田区に在住していたある時期、家の近所で見かけた老いた白猫殿のことを思い出す。「小生が仕事で朝帰りすると、近所で出迎えてくれる(?)猫。体毛は白。もう、老いていて、ほとんど身じろぎ一つ、しない。先日、道路をのそりのそり渡る姿を見て、感激したものだった」…。

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2009/02/14

「雨上がりの夢想」へ

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← 梅を撮ったあと、天気は急変し、春一番が吹き荒れ、昨日は激しい風にボロ家は揺れた。青空に晴れやかに咲く梅。嵐の前の静けさ。

(略)天空をじっと眺めていると、夜の底にじんわりと朧な光が滲み出てくるような、底知れず深く巨大な湖の底に夜の間は眠り続けていた無数のダイヤモンドダストたちが目を覚まし踊り始めるような、得も知れない感覚が襲ってくる。

 朝の光が、この世界を照らし出す。
 言葉にすれば、それだけのことなのだろうけれど、そして日々繰り返される当たり前の光景に過ぎないのだろうけれど、でも、今日、この時、自分が眺めているその時にも、朝の光に恵まれるというのは、ああ、自分のことを天の光だけは忘れていなかったのだと、妙に感謝の念に溢れてみたり、当たり前のことが実は決して当たり前の現象なのではなく、有り難きことなのだと、つくづく実感させられる。
                (「沈黙の宇宙に響く音」より)


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2009/02/13

そして誰もいなくなった

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→ 昨日は暖かくって、白猫殿も庭やら畑などを徘徊。密かに横向きかこちら向きになるのを待ってたけど…。

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← 撮影するカメラの小さなシャッター音に気付いたのか、一瞬、ピクッと反応したけど、背を向けたまま姿を消してしまった。

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2009/02/12

『フェイド・アウト』から十年

 気がつけば『フェイド・アウト』(文芸社)を自費出版して今年で十年目となる。
 そんなことを今更ながらに気付いたのは、今日(水曜日)、ちょっとした出会いがあって、やるなら本気で改めて頑張ればと励まされたからだ。

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← 我が家の明かり。

 タクシードライバーを生業としつつ、時間を掻き削るようにして書いたものだった。
 時間を掻き削るだなんて、大袈裟な表現のようだが、実際、そうだった。

 通勤時間も含めると、週に三日の営業で70時間はタクシー関連の仕事。
 営業の終わったあとは、20時間以上、都内でハンドルを握ったせいで、神経が昂ぶっていて眠れないものだから、よせばいいのに、帰宅の途上、コンビニで買ったおでんやヤキソバを食べてお腹を満たして、神経を誤魔化す。
 前日の午前から始めて、帰宅するのは翌日の早朝(時にはロングの仕事がさいごあったりして、お昼頃になることもしばしば)。
 お腹が満ちたところで、ベッドに倒れこみ、眠ったようなまどろんだだけのような数時間を通り抜け、意識が半ば朦朧としながらも、起き上がって、買い置きの惣菜を電子レンジで温め食事。
 もともと睡眠障害の持病があるので、何時間寝ても、健康な人の二三時間ほどの睡眠時間ほどの睡眠効果もない。
 というより、眠る前より起きた時のほうが疲労困憊なのが現実。

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2009/02/11

人の脂肪をリサイクルだって ? !

人の脂肪をリサイクル ココログニュース:@nifty」というニュースが小生の耳目を引いた。
 引っぱられるほどじゃなかったけど。

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→ 9日、夕刻、庭の梅。梅は桜と違って、一斉にパッと咲いてパッと散るわけじゃない。まだほとんどが芽のまま。まだ当分、楽しめそう。なんとか、梅の木の根元を土壌改良して、もっと長生きしてもらわないと。

 一部、転記する:

(略)アメリカで人の脂肪をリサイクルした医師が摘発された。ビバリーヒルズに診療所を構える形成外科医師が、脂肪吸引を受けた患者の脂肪を車の燃料として使用していたというのだ。

問題の医師は、脂肪吸引手術で廃棄される脂肪を精製し、ディーゼル自動車用燃料として自身とガールフレンドの車に入れ使用していた。医師が運営していたサイト lipodiesel.com(現在は閉鎖)では「多くの患者が、吸引した脂肪を是非使ってほしいと言っている」「環境に優しいこと、この上ない」と綴られていたのだが、「必要以上に脂肪を吸引された」と州公衆衛生局に訴えた患者がおり、問題が発覚。カリフォルニア州では医療廃棄物を車の燃料として使用することを法律違反だと定めており、州公衆衛生局の捜査を受ける事態になったのだ。
(後略)


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2009/02/10

読書以前のつまらない話

 図書館で予約した本でちょっとしたトラブル(…まではいかないけど)があった。

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← サイモン・シン著『宇宙創成 上』 (青木 薫訳 新潮文庫) この本を借りようとした…のだが。

 予約したのは、サイモン・シン著の『宇宙創成 上』 (青木 薫訳 新潮文庫)である。

 予約した本が届いてます、という電話があったのは昨日(日曜日)。
 早速、今日(月曜日)、時間を作って図書館へ、いそいそと。
(予約した本は他に1冊、合計3冊なのだが、その本(第60回読売文学賞受賞の岡田温司氏の『フロイトのイタリア』平凡社)のことは、話の流れに関係ないので紹介は略す。)

 カウンターで、「予約した本が届いたと連絡を貰ったのですが…」と告げ、貸し出しカードを渡す。
 早速、テーブルに出してくれて、小生、その3冊を現認し、透明なビニール袋へ詰めた。
 そう、小生、目で予約した本だと確認している。

 …のだが、あれ? 変だな、とも感じていた。
 何処か見たことがある本だぞ…。

 もしや読んだことのある本…?

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2009/02/09

端唄から龍馬、そしてレゲエへ  梅は咲いたか ♪

 昨日の日記「梅は咲いたし飛行機雲は見たし」で、梅の話題を書いたこともあり、せっかくなので、もう少し、梅絡みの話題を。
 表題に「梅は咲いたし…」とあるが、言うまでもなく「梅は咲いたか♪」を意識している。
 民謡も長唄も端唄も普段、まず耳にすることのない、無風流というか無粋な小生だが、それだけに(?)、少し、その雰囲気・風情の一端くらいは味わっておきたい。

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→ 市丸(唄)『端唄名曲集』(千本歌扇、静子、栄芝、豊藤、豊静(三味線) 他 日本伝統文化振興財団)

 まず、 時に「しょんがえ節」とも言うらしい(未確認)、端唄「梅は咲いたか」の曲や歌詞を確かめておきたい。
 ここはやはり専門家の登場を願って、下記のサイトから歌詞を転記する:
粋有芙の端唄教室

梅は咲いたか

梅は咲いたか 桜はまだかいな

柳やなよなよ 風しだい

山吹や浮気で色ばっかりしょんがいな


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2009/02/08

梅は咲いたし飛行機雲は見たし

 昨日、土曜日は二つの小さな事件があった。
 一つは飛行機雲を見たこと。
 二つ目は、梅の開花。

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→ 交差する飛行機雲。

 一つ目の飛行機雲がなぜ、事件なのか。
 実は飛行機雲が交差するのを(多分)初めて見たのである。
 飛行機雲くらいは、目(視力)だけは自慢(だった…)の小生、帰郷してからに限っても、何度となく見ている。
 それが交差するとなると、小生には珍しかった。

 まあ、考えてみたら珍しくもなんともない現象なのかもしれないのだが。

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2009/02/07

感じたことを感じたままに

 昨夜、ネットサーフィンしてたら、素敵な画家を見つけた。
 全く未知の、無名の存在かなと思っていたら、とんでもなかった。

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← 6日の午後四時頃。そろそろ夕焼けの…。

 見た瞬間、初めてじゃなく、何度か見たことがある…という印象だったんだけど。
 じっくり眺めてみたら、そして調べてみたら、少なくとも一部の方には人気作家だった。

 やはり、世界は広くて狭い、狭くて広い!

 ということで、本題へ:
Shuji, Takashi 感じたことを感じたままに

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2009/02/06

夜中は映画三昧 ? !

 最近、夜中にテレビを見るのが唯一の楽しみになっている。
 録画しておいて、父母が寝静まってからゆっくり。

 ただ、表題に偽りがあるわけではないが、夜中は映画三昧、但し、映画館ではなくテレビで、という但し書きが付くのがちょっと寂しい。

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→ 5日の朝、近所の畑に止まっているのをこっそり撮影。前日に引き続いてのお出ましだ。

 その中では、『疑惑』が秀逸だった(「テレビ朝日|疑惑」参照)。
 これは映画ではなく、テレビ用のドラマなのかもしれないが、まあ、固いことは抜き。

 昔…、何年前になるか覚えていないが、桃井かおりが鬼熊(おにくま)こと「白河(鬼塚)球磨子」を演じる、小生の好きな野村芳太郎監督の手になる映画を観たことがある。
(野村芳太郎監督の『砂の器』は、わざわざ映画館で観た…というより、腰の重い小生を映画館に運ばせるような力のある映画だった! あと、『八つ墓村』や『鬼畜』などなど、どれもいい。)
 もう、四半世紀以上も昔かもしれない。

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2009/02/05

ユイスマンスをさかしらに語る ? !

 今日2月5日はユイスマンスの誕生日。
 だからって何というつもりもない。
 下手に口にすると、「フランスの19世紀末の作家。イギリスのオスカー・ワイルドとともに、代表的なデカダン派作家とされる」、ジョリス=カルル・ユイスマンス(Joris-Karl Huysmans, 1848年2月5日 - 1907年5月12日)の世紀末的傾向の強い特異な作品『さかしま』(À rebours)を学生時代だったかに、若さに任せてやたらと濫読したその一冊として読んだ…が、実は何も読んじゃいなかったと思い知らされるだけだし(「ジョリス=カルル・ユイスマンス - Wikipedia」など参照)。

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→ 4日の朝、やはり台所の勝手口…上がり框から、内庭の先の畑を撮影。朝食はまだなのかな?

 ただし、「ジョリス=カルル・ユイスマンス - Wikipedia」だと、「世紀末的傾向の強い特異な作品『さかしま』(À rebours)が代表作となり、象徴主義、デカダンスの作品としてヴァレリーやワイルドに影響を与えた。『彼方』では黒ミサなど悪魔主義を取り上げた」が、「晩年は舌癌を患い病苦の中、カトリックに傾倒した作品をいくつか残している」と、まるで生涯のある時期、病魔のせいもあって、回心したかのような印象を受ける。

 ここはやはり、「松岡正剛の千夜千冊『さかしま』 ジョリ・カルル・ユイスマンス」が秀逸である。

 実はそうではないと、松岡正剛は言う。
 事実はまるで違う、とも。

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2009/02/04

「コンゴ・ジャーニー」へ

 レドモンド・オハンロン著の『コンゴ・ジャーニー 上』(土屋政雄/訳 新潮社)を読み始めた。
 新聞の書評でベタ褒めだったし、内容に惹かれて早速、図書館に予約。
 ようやく昨日から読み始めることができた。

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← レドモンド・オハンロン著『コンゴ・ジャーニー 上』(土屋政雄/訳 新潮社)

コンゴの密林に幻の恐竜を探して――。カズオ・イシグロ絶賛の桁外れの探検記!」なんてキャッチコピーが付いている。
コンゴ川上流の湖に恐竜が棲息しているというピグミーの言い伝えに誘われて、英国人旅行記作家が全財産をなげうつ旅に出た。アメリカ人動物行動学者とコンゴ人生物学者を道連れに、賄賂を毟られても、下痢や呪術で死ぬ目にあっても、奥地へ、奥地へ――。」といった本。
 二人の学者(ら)を伴ってとあるが、率いるレドモンド・オハンロンは、「1947年英国生まれ。オックスフォード大学文学部卒業。「タイムズ文芸付録」の編集記者を経て英国を代表する旅行記作家に。1984年『ボルネオの奥地へ』(めるくまーる)でデビュー」ということで、旅行記作家。
 とにかく旺盛な探検欲である。
 旺盛というより獰猛なほどの探究心。本書だって旅の冒頭で早速、マラリアの洗礼を受けて死に損なう。
 でも、そんなものは彼にはただの挨拶程度なのだろう。

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2009/02/03

日記と創作の間に宙吊り

 今年に入ってからだろうか、時折、日記の延長としての、創作未満の雑文を綴るようになってきた

 日記というには、やや難がある。
 事実に基づいた記録ではないし、また、事実云々に関わらないその日の思いを心に浮かぶ徒然に気まぐれに書いたというものではない。
 が、日記に綴る事実ということを心のある種の琴線にまで、心の髄をまで抉って描き示すことであるというのなら、その日の心の叫びとしての日記であると言えそうな気がする。
 
 一方、外から見て傍証や裏書きの取れる、そんな客観的な事実からは離れていることも否みようがない。

 では、創作?
 否。虚構しようという何らかの自覚的な意識があるわけでもない。

 やはり、広い意味での日記と思うしかない。

 帰郷して心が一層、渇いてしまったような気がする。

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2009/02/02

山本健吉の「柿本人麻呂」未満

 小生にはよくあることなのだが、図書館でCDを借りる際に、近くの文庫・新書コーナーでつい何かを借りてしまう。
 AVコーナーでCDを物色する。
 借りられるのは三種類である。
 一個のCDケースに2枚、3枚の組になっている場合があるから、三種類でも3枚とは限らない。

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→ 最近、立て続けに夜や夜中、近所に救急車がやってきた。事故か病気か分からないけど、ドキッとしてしまう。

 借りようと思ったCD(ケース)をカウンターに持っていく。
 すると、係りの方がケースの中身(CD)を用意してくれるわけである。
 カウンターで待っていればいいわけだが、その数分が勿体無い。
 つい、近くにある文庫・新書を集めた書架を物色してしまう。
 借りるつもりでないので、気軽に数々の本の背表紙の題名や筆者名を眺めるだけ…のはずなのだが、そんな時に限って、ああ、こんな本がある、あれ、この本、まだ読んでないぞ、などなど本が小生の気を惹くわけである。

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2009/02/01

碧梧桐忌…寒明忌

 ある記事で2月1日、つまり今日が「寒明忌」だとあった
かんあけき」と読むらしい。

 寒明……寒が明けた日……忌日。
 まるでピンと来ない。

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← 東京在住の時、最後の8年に渡って使っていたマグカップ(と同型のもの)。父母らが上京した際(かの曙関が当時の新高輪プリンスで結婚した年に買った。そのホテルで食事しようとしたら、披露宴に多くの人たちが次々にやってくるのだった)、高輪・泉岳寺の門前にある小さな土産物店にて小生が買ったら、母(父?)も真似して買った。小生のものは、数年前、落として取っ手が剥がれてしまった。それでも、愛着があって、取っ手をアロンアルファでくっ付け、使い続けたのだ(「無精庵投句の細道駄句拾遺」参照)が、昨年の帰郷(引越し)の際に、他の家庭用品などと共に廃棄してきた。…でも、郷里には母(それとも父)が買っていた同じものが全く手付かずのまま安泰。普段は、父母らと同じような形の湯呑み(ぐい飲み)を使っているが、一人でのんびりする時は…一人暮らしの時の習性だろうか、このカップを使ってしまう。夜半、父母の咳(しわぶ)く声など寝所の襖越しに聞きながら、一人、このカップを手に静かな時を過ごす。

 襖戸や父母のしわぶく冬の夜

 だが、そのサイトの文面には「碧梧桐忌,寒明忌」とある。
 1行下には、「俳人・河東碧梧桐の1937(昭和12)年の忌日」とも。
 ということは、「寒明忌」とは、「碧梧桐忌」のことであり、つまりは、河東碧梧桐(かわひがし へきごどう)の忌日のようである。

 冬のせいか、それとも、これが小生の通常の調子なのか、これだけのことに気付くのに、結構、手間取ってしまう。

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