「夜の詩想」から
「夜の詩想」
生きるということは実に不思議なことだ。これほど簡単なことはないように思えるけれど、そう、昨日と同じように今日も生きればそれでいいように思えるのだけれど、そうはいかない。
逆に同じように生きようと、暮らしていこうと思っても、意に反して生き方を何かによって問い掛けられ、時には無理にでも姿勢を変えざるを得なくなってしまう。
淡々と生きていて、何も新しいことなど起きず、あまりに単調で退屈な日々が続いているとしか思えないでいると、ある日、思いがけない転換点に差し掛かってしまい、ガラッと周囲を見る目が変わってしまうことがある。
何かが不意に変わったのか、それとも何気ない日々の積み重ねが、量の増大が質の転換を生むように何か新しい位相へと己を運んでいってしまったのか。何処かにターニングポイントがあったのに違いないのに、ずっと後になってやっと、そうかあの日が変わり目だったのかと分かるだけなのだ。
この世に生きていることに気づいてから、誰でも多かれ少なかれ背負うものがある。それは外貌かもしれないし家柄かもしれないし、環境かもしれないし、肉体的あるいは精神的資質かもしれない。物心付いた時には、もう、あまりに多くのものを戴いてしまっていることに気づいて愕然とするかもしれないけれど、大概の人は、無邪気に自由が自分には広がっているような恵まれているような錯覚それとも幻想を抱いたままに、いつか頭をどやされるまで可能性という名の幻想に吊られて生きていく。
でも、そんな幻想がない人生などというのは、想像を絶して味気ないに違いない。自分の力で現状を変えられるかもしれないという自由への幻想がない人生など、死んで生きるにも等しいのかもしれない。
本当は自分は変わるかもしれないと期待しつつ、何も努力などしていないと分かっていても、それでも、何かを今後に期待してしまう。なんて虫のいい期待なのだろう。それでも、夢を追ってしまうのである。
さてしかし、物心付いた時に幻想を打ち砕かれる人もいる。重いというより、重すぎる枷に呻いてしまう人もいる。
何だか知れない闇の圧力に圧し掛かられて、顔が心が歪んでしまっている人がいる。闇の中の手は、その人の親の姿をしているのかもしれないし、もっと形の抽象的な、表現に窮するような何かの形をしているかもしれない。
あまりに早く生きる上での重石を感じ、打ちひしがれてしまった人は、気力と胆力があれば、人生そのものに反抗するかもしれない。あるいは自尊心の高すぎる人なら、人生を拒否するかもしれない。生きることを忌避するのだ。人生の裏側の世界へ没入していくのである。数学の世界に虚数というものが存在するように、人生にも虚の広大な世界が実在する。虚の実在。
それとも、優しすぎたり生きることへの意志の薄弱な人なら、ひたすら重石のなすがままに己の体や心を変貌させていくのかもしれない。その心や肉体は重石の形の陰画であり、心と体の肌の表面には重石のデコボコがそっくり印刻されてしまって、呼吸をするのさえ、重石の表面のデコボコの透き間を縫って、やっとの思いで為している始末である。
今、ここでほんの少し焦点を合わせたいのは、そうした物心付いた時には既に陰画としての虚の世界を生きるしかなかった人の世界だ。
コンクリートかアスファルトで舗装された大地。その大地には息する余地さえ与えられない。それが現代における都会だ。少なくとも歪んだ心と共に生きる人には、新鮮な大気というのは、夢のまた夢なのである。それでも生きている限りは息をする。懸命に酸素を吸おうとする。
海やプールで初めて泳ぐ時、息継ぎに苦労する。大概は、息を思いっきり吸おうとする。まだ肺の中の汚れた気体を十分に吐いていないのに、そこに無理矢理、息を飲み込もうとする。だから、段々肺の中に綺麗な空気と汚い空気が充満して、肺が苦しくなるのだ。
肝腎なのは吸って既に吐くべき気体を吐き出すことなのだ。そうすると気体の抜けた肺は自然に息を吸うのである。動物の肺は、そうなっているのだ。
が、大地の下の押しひしがれた生き物は、いつ大気を吸えるか分からないものだから、必死な面持ちでグッと吸い込もうとする。コンクリートに僅かな罅割れを見出して、そこから茎や葉っぱを押し出して、日の光を浴びようとする。そうしないと生きられないのだ。
軟弱だったり惰弱だったり、優しすぎる人だって、生きる以上は、生きている限りは息をする。アスファルト舗装の分厚い壁をぶち割る気力など到底ないのだけれど、それでも、何処かに透き間を探し出し、あるいは我が身を捩じらせくねらせて、重石の彼方の天を仰ごうと願う。
きっと、そういう人は想像力が逞しくなるに違いない。
失われたものの代わりは、必ず得ようとするのが生き物の常なのだから。
何かが圧殺の危機に陥ったなら、その代償として他の何かを増殖させる。それが実は肥大させてはならないものであろうとなかろうと、そんなことにはお構いなしだ。
そんな悠長なことは言っていられないのだ。顔を歪ませてでも、とにかく舌を伸ばして乾いた心と体のために水を得ようとする。目を皿にして何か救いの徴候がないかと必死の形相になる。髪を逆立て、神経を尖らす。
捜しているもの、求めているものは、ユートピアなのかもしれない。恩寵の到来なのかもしれない。この世の誰にも打ち明けることのありえない、自分でも笑ってしまいそうなほどに滑稽な、でも、切実な光の煌きへの渇望なのかもしれない。
そんなことがありえないと、自分が一番よく分かっている。そんなことがありえるくらいなら、そもそも、自分が苦しんだり悩んだり虐められたり追い詰められたりするはずがなかったのだから。
神も仏も信じない。それは生煮えの世界なのだ。現に燃えている、我が家が、我が身が燃え盛っているというのに、いつの日かの恩寵などお笑い種ではないか。
闇の世界に放り出されて生きてきた以上、闇の中で目を凝らして生きる余地を捜し、真昼のさなかに夢を見る。その人の目は、この世の誰彼を見詰めている。けれど、その人の目は、誰彼を刺し貫いて、彼方の闇を凝視している。何故なら自分がこの世に生きていないことを知っているからだ。
そして心底からの願いはただ一つ、自分を救って欲しかったというありえなかった夢だということを知っているからだ。そうした夢が叶うのは虚の世界でしかありえないのだ。だから、この世を見詰めつつ、その実、白昼夢を見るのである。
願うのは生きられなかった己のエゴの解放。そうであるなら、つまり叶うことがありえなかったのなら、せめて、心の脳髄の奥の炸裂。沸騰する脳味噌。
何か、まあるい形への憧れ。透明な、優しい、一つの宝石。傷つくことのない夢。
そうした宝石をきっと、誰でもが、遅かれ早かれ探し始めるのに違いない。そう、ちょっと、ほんの少し、探し始めるのが早かったのだ。もっと、たっぷり生きて殻でよかったのに。でも、一旦、初めてしまったなら、やり通すしかない。真昼であっても闇、闇夜であっても同様の白い闇の世界の小道を、何処か深い山の奥から渓流の勢いに押し出されたヒスイの原石を求めて、終わりのない旅を続けるのだ。
(「夜 の 詩 想」(02/05/08)より)
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