脇目もふらず腋毛のこと(後篇)
小生、微力ながら、刈り込まれ削られていく体毛の意を汲んで(?)、これまで幾つか体毛(髪の毛)について語ってきた。
その中で、下記は最も真正面から(?)語っている:
「髪は長~~い友達」
『ヒトはいかにして人となったか』(蛇足篇)
→ 久しくお姿を拝見できなかった近所の白猫殿(雌なら君だが)、一昨日、見かけたと思ったら昨日も拝顔の栄を賜ることができた。近所の猫で他にも、白と黒のブチ(まだら)模様の猫もいるのだが、そのブチ猫殿も見かけた(こちらは生憎、撮ることができなかった)。やはり、暖かくなって、外を徘徊する機会も増えたのかな。
是非、一読願いたい。
(言うまでもないが、両者とも…特に後者は駄文である! ちなみに、本稿の題名、当初は「腋毛も剃らずに腋毛のこと」にしようと思ったが、最後に良識が働いて表題のようになったものである(←意味のない注釈)。)
せっかくなので、過去の拙稿から腋毛(髪の毛)を扱ったその他の小文を羅列し、ついでに当該箇所を転記しておく(リンク先へ飛んで欲しいのだが、まず、そんな労を払う人はいないだろうからという、小生なりの老婆心である)。
「頭髪の抜け毛」は誰しも気になる。これが脛毛(すねげ)や腋毛だったりしたら、あるいは腕や髭や○▲の毛だったりしたら、抜け落ちたって、擦り切れたって、それほど気にはならないだろう。
ブーグローは女性にしても理想美を追求したのだが、恥毛はもとより、腋毛も描いていない。欧米には女性にも髭が生えることがあるというが、髭など論外のようだった。ということは、当時の理想の女性像は、ある意味、今日の日本の女性の追求する理想像でもあった?

← 小生は以前、『相棒~シーズン6「複眼の法廷」』のを見て、小野田官房室長の部屋(官房室長室?)の壁に掛けてあった掛け軸の言葉「釣月耕雲」という掛け軸の出典・意味が知りたくなり、調べたことがあった:「「種月耕雲」か「釣月耕雲」か(前編)」
徹底した資本主義の現代においては、人間の肉体のどんな細部(局部)も経済取引の対象となる。日本など、エステの極を行っていて、垢か脂分かのように邪魔者扱いされ、腕の産毛も腋毛も忌み嫌われる(もっと正確には、関係業界がそのように宣伝し煽るわけである。モードが二年前に企画されたものがその年、<流行>するように、モードとは風俗上の箍なのだろう)。肉体が殺がれて行くように、局所のヘアーも、ドンドン刈り込まれて、その存在も風前の灯状態なのか。
心も含めた全宇宙こそが闇であり黒い森となっている。路側帯の空き缶、路上に投げ捨てられた吸殻、美麗な壁紙、ピカピカに光り輝く床、タイヤの破片、教室の隅の殴り書き、ショーウインドーの磨き残された手垢、美術館の天井に仄かに映る誰か、善と悪との境目の綻び、更に捩れたメビウスの輪のようなネクタイ、敵が見えない前進と撤退、剃られ剥かれた腋毛、マンホールの下に棲息する奴らの笑み。
その一切が等値という世界。

→ ところが、当初は一瞬の場面で掛け軸の「○月耕雲」しか読み取れなかった。その後、コメントの形でそれが「種月耕雲」ではなく「釣月耕雲」だということを教えてもらっていた:「「種月耕雲」か「釣月耕雲」か(後編)」 このたび、幸運にも『相棒~シーズン6「複眼の法廷」』の再放送(あるいは再々放送?)を見る機会を得て、鮮明ではないものの当該の掛け軸の出る場面の撮影にも成功した。ようやく宿願を果たせ肩の荷が下りた気がする(← 大袈裟)。
人が裸になったこと、体毛を一部を除いてほぼ失ったことの意味は大きい。だからこそ、火の意味、家を作る意味、着物を作る意味が大きかったし、クロマニヨン人がネアンデルタール人(島泰三氏は、ネアンデルタール人は未だ毛もの=獣だったと考えているようだ)を長年の戦いの末、打ち破り、生きる世界を広げ、現代につながって行ったのだ…、という説が本書では展開されるのだが、それはまた別の機会に。
「人が裸になったこと、体毛を一部を除いてほぼ失った」挙句、どのようになっていったのか。
その一端をデッサンしてみたことがある。
それが下記の一文である。
「鏡と皮膚…思弁」
選ばれたものは、美女(美男)と一夜を共にする特権を得たものは、鑑賞に止まるはずがない。美を手中にした(かのような幻想に囚われた)者は、美を眺める。眺める、観るとは、触ること。絡むこと。一体にならんとすること。我が意志のもとに睥睨しさること。美に奉仕すること。美の、せめてその肌に、いやもっと生々しく皮膚に触れること。撫でること、嘗めること、弄ること、弄ぶこと、弄ばれること、その一切なのだ。
やがて、眺める特権を享受したものは、見ることは死を意味することを知る。観るとは眼差しで触れること、観るとは、肉体で、皮膚で触れ合うこと、観るとは、一体になることの不可能性の自覚。絶望という名の無力感という悦楽の園に迷い込むことと思い知る。
観るを見る、触る、いじる、思う、想像する、思惟する(本書は思弁の書なのだから、思弁も含めたっていい)、疑念の渦に飲み込まれること、その一切なのだとして、見ることは、アリ地獄のような、砂地獄のような境を彷徨うことを示す。
砂地獄では、絶えず砂の微粒子と接している。接することを望まなくても、微粒子は、それとも美粒子我が身に、そう、耳の穴に、鼻の穴に、口の中に、目の中に、臍の穴に、局部の穴に、やがては、皮膚という皮膚の毛根や汗腺にまで浸入してくる。浸透する。
美の海に窒息してしまうのだ。
窒息による絶命をほんの束の間でも先延ばしするには、どうするか。そう、中には性懲りもなく皮膚の底に潜り込もうとする奴がいる。ドアの向こうに何かが隠れているに違いない。皮膚を引き剥がしたなら、腹を引き裂いたなら、裂いた腹の中に手を突っ込んだなら、腸(はらわた)の捩れた肺腑に塗れたなら、そこに得も言えぬ至悦の園があるかのように、ドアをどこまでも開きつづける。決して終わることのない不毛な営為。
ちなみに小生はというと、体毛は薄い。
加山雄三の胸毛への憧れも空しく胸毛は生えなかったし、腋毛は薄いし、脛毛も薄い。二の腕の毛も薄い。
人生に疲れ、窶れ、体毛も磨り減ったのだろうか…。
けれど、(陰毛も含め)髪の毛だけは人並みにあることを鑑みると、人生の労苦のゆえに体毛が薄いという理屈は成り立たないようである。
(09/01/20 作)
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