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2009/01/20

福岡の菅笠、国の重要無形民族文化財へ答申

 15日付の拙稿「母さんのあの菅の笠、どうしたでせうね!」にて、「富山は菅笠作り生産量が全国で一番」だとか、「高岡市福岡地域の菅笠を後世に 技術保存会が発足」といった話題を綴ってみた。

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← 17日の午前、電線に止まっていた鳥。やがて飛び去って畑へ。冬の最中も雪の積もった畑で餌探し。カラスじゃなくて、多分、インコだと思うのだが、さて。

 すると、その翌16日、テレビで後を追うように、続報が。
菅笠作り、国無形民俗文化財」へ、というのだ!
 といっても、決まったわけではなく、「福岡の菅笠」が、「国の重要無形民族文化財へ答申」されたのである。

 決まったも同然か!

文化審答申:高岡市福岡町の「菅笠製作技術」、重要無形民俗文化財に /富山 - 毎日jp(毎日新聞)」によると、以下のよう:

 国の文化審議会は16日、富山県高岡市福岡町の「菅笠(すげがさ)製作技術」を重要無形民俗文化財に指定するよう、塩谷立文部科学相に答申した。同文化財指定は県内では6件目となる。民俗技術の指定では全国で8番目で、県内初。【青山郁子】

 福岡の菅笠は、小矢部川流域に自生していた良質なスゲを利用して始まった。江戸時代に加賀藩の奨励を受けて生産が本格化。「加賀笠」の名前で全国に知れ渡った。男性が担当する笠骨作りと、女性が担う笠縫いとの分業制が特徴で、スゲの生産から仕上げまで、すべてが手作業だ。

 昭和30年代までは年間100万枚を出荷していた。現在は、農業用や民芸・芸能用として約6万枚が生産されており、全国シェアの9割を占める。

 昨年10月には「越中福岡の菅笠製作技術保存会」(木村昭二会長、約30人)が設立された。答申で、伝統的な製作技術を正確に伝承している点が評価された。今年開町400年を迎えた同市は「近世高岡の歴史的、文化的価値を内外にアピールできる」と歓迎している。
               (毎日新聞 2009年1月17日 地方版)


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→ 朝日新聞朝刊「「福岡の菅笠」保存弾み」(1月17日)

 読売新聞朝刊(17日)によって若干、追記しておくと、「幕末期の元和元年(1864年)には、農作業用や旅行用などとして210万枚の菅笠が生産された」とか。
 上掲の転記文で、「答申で、伝統的な製作技術を正確に伝承している点が評価された」とあり、「男性が担当する笠骨作りと、女性が担う笠縫いとの分業制が特徴で、スゲの生産から仕上げまで、すべてが手作業だ」という点が評価されたようである。

 ただ、既に書いたように、「高齢化で優れた生産技術を持つ人が減少し、笠骨作り技術者が2人だけとなっている(平均年齢80歳近く(「ピーク時には福岡地域で菅笠作りに携わる家が70―80軒あったが現在は5、6軒で、笠製作者の平均年齢が80歳を超えるなど後継者の育成が急務になっている」といった話がテレビでも伝えられていた)。

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← 同上の記事に掲げられた民芸品の菅笠各種(高岡市教委提供の画像だとか)

 また、朝日新聞朝刊(17日)によると、「良質の菅草と技術で、日よけ用の「富士笠」や雨具の「角笠」のほか、観光・祭礼用の「一文字笠」、みやげ用の「三度笠」など多彩な製品があるのも強みだ」という。

 さらに朝日新聞朝刊(17日)によると、「発祥は室町時代にさかのぼるとの伝承もあるが、江戸期には独自の「笠問屋」を展開させて、全国に「加賀笠」としての販路を確立」という。

「越中福岡の菅笠製作技術保存会」は、「専業ではただ1人となった笠骨作りの職人である木村昭二さん(81)を会長に設立されている。

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→  「ひゅーまん08 笠骨、55年間で110万枚」(読売新聞朝刊(08/12/08付)より。)

 読売新聞朝刊(08/12/08付)の「ひゅーまん08 笠骨、55年間で110万枚」から、若干、情報を抜粋(転記)する。
 この記事は、「越中福岡の菅笠製作技術保存会会長 木村昭二さん81(高岡市)への取材記事(文と写真 小沢克也)といった性格のものである:

(前略)
 幼少時から終戦まで京都で過ごし、両親のふるさと福岡町で菅笠に出会ったのは20歳を過ぎてからだった。当時、町では笠骨を組み立てる速さを競う競技会が開かれていた。見物に行くと、1位になった人が10枚の菅笠を作るのにかかった時間が1時間10分弱。「よし、来年は自分が一等を取ってやろう」と練習を始め、翌年の競技会で1時間を切る記録で1位の県知事表象を受けた。
 これまでの55年間で作った笠骨は110万枚にのぼる。途中、プラスチック製の笠骨に押されて仕事が減り、工場勤めをした時でも朝夕は作業を続け、年間6万枚作った。工場の仲間に「笠骨作りは内職じゃない。俺は会社に内職をしにきているんだ」と胸を張り、「そんなこと言うもんじゃない」とたしなめられたこともある。
 竹を輪にした「ガワ竹」に中心から放射状に付ける「中竹」を差し込む際、ガワ竹に穴を開ける「目刺し」という道具を使い続けてきた右手の人さし指は、左側へ10度ほど曲がったままで、まっすぐにはならない。
「笠骨作りで暮らして来て、家も建てた」と自らの仕事への誇りは強い。先日、NHKの大河ドラマ「篤姫」を見ていたら、自分が作った菅笠を侍役の俳優がかぶっていた。
(後略)


参考:
母さんのあの菅の笠、どうしたでせうね!
チューリップテレビ>NEWS 福岡の「菅笠」技術、国の重要無形民俗文化財に

                                  (09/01/17記)

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コメント

菅傘作りとはすごいですね。そうでしょうね。後継者もいなくて後、どうなるのでしょう。段々日本の伝統文化が消えていくんですね。昔話の<菅傘とお地蔵さん>も消えてほしくないです。温かな心を伝えるお話ですから。。

投稿: ピッピ | 2009/01/20 18:14

ピッピさん

表題にあるように、福岡の菅笠作りは国の重要無形民族文化財となるようですから、民芸品(文化財)としては残っていくのだろうと思われます。
でも、生活に根ざした日常的なものとしては、廃れていくのかもしれない。

昔話の<菅傘とお地蔵さん>って、笠地蔵(かさこ地蔵)の話かな。
教えていただいて、ずっと昔、本で読んだかそれとも漫画の形にしたもので見たような、かすかな記憶が蘇りました。
いい話ですね。
せっかくなので、「笠地蔵 - Wikipedia」から「あらすじ」を転記しておきます:
ある雪深い地方に貧しい老夫婦が住んでいた。年の瀬もせまり、新年を迎えるにあたってのモチ代すら事欠く状況だった。 そこでおじいさんは、自家製の笠を売りに町へ出かけるが、笠はひとつも売れなかった。吹雪いてくる気配がしてきたため、おじいさんは笠を売ることを諦め帰路につく。吹雪の中、おじいさんは7体の地蔵を見かけると、売れ残りの笠を地蔵に差し上げることにした。しかし、手持ちの笠は自らが使用しているものを含めても1つ足りない。そこでおじいさんは、最後の地蔵には手持ちの手ぬぐいを被せ、帰宅した。

その夜、家の外でなにかが落ちた様な音がする、そこで外の様子を伺うと、モチをはじめとした様々な食料、財宝がつまれていた。老夫婦は手ぬぐいをかぶった地蔵を先頭に7体の地蔵が去っていく様を目撃する。この贈り物のおかげで、老夫婦は無事に年を越したという。
                   (以上、転記終わり)

投稿: やいっち | 2009/01/20 23:58

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