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2008/01/26

三途の川と賽の河原と

 前回に引き続き、「さいたま川の博物館」での、「平成11年度第2回特別展「三途の川」」を道案内に、三途の川のこと、そしてできれば、賽の河原について幾分かでも学んでおきたい。

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← 陸信忠(りくしんちゅう)筆本『十王図』(絹本着色 各縦83.2 横47.0(cm) 中国・南宋時代) (画像は、「奈良国立博物館」より) 「人が死後に赴く冥土(めいど)には、亡者の罪業の審判者として閻羅王(えんらおう)(閻魔王)など十人の王が」いる。「十図はいずれも王が冥官たちを伴い、椅子に掛けて机に向かい罪状を調べており、前には裁きを受ける亡者や、あるいはすでに有罪とされた亡者が様々の刑罰を受ける様子などが獄卒の鬼たちと共に描かれる」。個人的には、「壺中水明庵」を舞台に風景画をテーマにブログ記事を綴っている小生、「なお王の背後の衝立(ついたて)にはどれも水墨山水図が描かれ、日本への水墨画導入にこれら画中画が一つの役割を果たしたと考えられる」という点が関心の的。「奈良国立博物館」に所蔵されるという「騎象奏楽図」を見てみたい。

 こんなことを学んでどうなるというのか、どんな意味があるのか、少なくとも小生にはさっぱり分からないのだが、何故か惹かれるものがあるので(そろそろ呼ばれている?)、ひたすらに好奇心に駆られるままに、かといって、あまりに深入りして、それでは、自分で訪ねてみようとばかりに、往って(逝って)還らぬ人にならぬよう、浅瀬を選び、できれば、三途の川の中に足を浸さないだけではなく、飛沫さえ浴びないように、用心を重ね、不摂生なる日頃の生活をほんの少しは慎みながら、まあ、表面的なこと、触りのところだけを、無論、差し障りに至らぬ程度に、触れてみよう。

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三途の川のこと

 あるサイトの掲示板で、千葉県には、三途の川という名の川があるという書き込みを見つけた。まさか、という気持ちと、でも、あっても可笑しくはないという気持ちとが相半ばしていたが、とりあえず、ネット検索。キーワードは、勿論、「千葉県 三途の川」である。
 すると、検索結果リストの筆頭に、「特別展点描  発見!「三途の川」」という表題のサイトが登場するではないか。

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→ 錦絵『三途川老婆』 (画像は、「特別展点描  発見!「三途の川」」より)

 その冒頭には、「さいたま川の博物館では、今年度第2回の特別展「日本人の他界観を探る-三途の川-」を開催しましす。」とある。
 続いて、「「三途の川」は、皆さんも知ってると思いますが、人が死んでからあの世に行くときに、必ず渡らなければならないとされた想像上の川です。しかし、特別展の開催を準備していた私は、ふと、「三途の川」という川は、実際にこの日本にあるのだろうかという素朴な疑問がわきました」とあるではないか。小生と同じような疑問を持たれる方がいらっしゃるわけだ。

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銀嶺メモ

 真冬の月というのは、何か凄まじいものを感じさせる。
 空気が澄んでいるせいか、地上の全てが輪郭も鮮やかに浮き彫りにされてしまう。未明の頃に、人気もない公園の脇に車を止めて、月の影を求める。月の大きさなど、いつもそれほど変わらないはずなのに、目に痛いほどに輝いていて、大きさの感覚を微妙に狂わせてしまう。

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 真冬の、それも深更の月の影を愛でるようになったのは、東京に暮らし始めてからだと思う。
 郷里(富山)に居る時も陸奥(みちのく)に学生時代を過ごしていた時も、今ほどには冬の夜に月を眺め上げることはなかった。

 別に自分が若い頃より風流な人間になったというわけではない。
 まずは、東京(太平洋側)に暮らしているので、ほぼ毎日のように快晴の夜空に恵まれるという条件がある。
 同時に、ほんの数年前は真冬だろうがいつだろうが、いつも忙しかったので、真夜中であってもゆっくり休憩時間を取ることなど考えられなかったのである。

 東京に住んで働いているということ、そして不況が月への思い、あるいは月に刺激されてのあれこれの想いが募るというわけである。
 皮肉な現実。でも、せっかくだから、たっぷりじっくりゆっくり堪能させてもらうとしよう。

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2008/01/24

「フルスイング」にフルウルウル!(後篇)

大きな耳、小さな口、優しい目

 主人公(高林:高橋克実)が通信教育で教師の資格を取り、二週間という規定の教育実習のため、とある高校に行く。
 主人公(以後、高林と表記する)は、妻子(息子。中一。少年野球チームに所属。でも、将来の夢は鉄道マン!)がいる。単身赴任。できれば長年務めた野球のコーチという仕事を続けたいと思っている。だから、周囲からもどうせ腰掛だろうという冷ややかな目で見られるわけだ。
 指導教諭の天童からは、「あなた、本当に教師をやるつもりですか」と問い質されたり。

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→ 新垣一馬(あらがきかずま)…小林克也(こばやしかつや)

 高林は初めて教壇に立って、何を喋ればいいか戸惑う。
 いつもニコニコ笑顔を絶やさない彼も、顔がややひきつっている…ような。

 壇上のロートルの新米教師、それも実習生を目にして、生徒たちも、お手並み拝見と冷ややかだったり好奇心たっぷりだったり、隙あらばからかってやろうと虎視眈々だったり、あるいは、全く無関心を装っていたり(問題児の和人が、初回のドラマの黒子役)。
 
 高林はしばらく、生徒たちを見渡す。口を開くタイミングを見つけかねている。

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2008/01/23

「フルスイング」にフルウルウル!(前篇)

 前の会社の都合で正月には帰省できなかったが、それでも中旬には遅ればせながらの帰郷を果たした。
 父母のことその他の人間関係などは追々書いていくとして、帰郷して嬉しいのは炬燵があること、それとテレビがあること。
 炬燵に付いてはわざわざ「炬燵」や「コタツムリ」それぞれについて短からぬエッセイを書くほどこだわりがある。
 入れるのは田舎でしか機会がないから、まあ、年に数度しか会えない恋人(?)に自宅で足下の密会(?)をするようなもの。
 ガキの頃の炬燵での思い出は少なからずある(これも別の機会に書く)。

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↑ 『フルスイング』 (本画像も含め、以下全ての画像は、「フルスイング NHK 土曜ドラマ」より)

 で、テレビ。
 小生はガキの頃(東京オリンピック開催前だったか、美智子皇后のご成婚の頃だったか覚えていない)に我が家にテレビがやってきて以来のテレビっ子である。
 小学生の小生には、例えば冬は炬燵に入りながら漫画を読むか画くかしつつ、近くにはテレビが映っている(その気になれば見れる)ってのが至福の時だった。

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2008/01/22

闇夜の一灯

☆以下は、SNC(ミクシィ)内のある尊敬する方の日記を読んで寄せたモノローグ風のコメント。
 小生には闇夜の一灯となっている某人の日記はSNCの中では公開されているけれど、その外への公開の意思は不明なので、小生が寄せたコメントのみ転記する(若干の追記あり)。

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→ 月曜日の午前、一週間ぶりにポートラム富山ライトレールの車両の愛称)に乗った。状況のためこのポートラムで富山駅に向ったのだ。

  === === === === ===

闇夜の一灯

 小生もブログで親しかった人に理由も告げられずにブロックされて悲しい思いをこれまで何度かしてきました。

 理由がまるで分からない。
 そもそも、無難なことしか書かない、書けない自分なのに、どんな発言(書き込み、あるいはレス)が原因で拒絶されたのか見当がつかないのです。
 そんなことがあると、ホントにネット(に限らず)を続ける意欲も気力も萎えてしまいます。

 実はこの三年はずっとそういう落ち込んだ状態。

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2008/01/21

銀嶺創作メモ

ある種のアゴニー(agony:苦悶)?

 引き裂かれた感じとしか言いようのない感覚。気がついたら、物心付いたら既にもう開くべきでない、開くはずのない場所にポッカリと口が開いてしまっている感覚。

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 掌編ではいろんな世界を描いているが、半分以上は<ボク>モノだろうと思う。
 自分で書いてきたのに無責任ということになるのだろうが、丁寧に数えて見たことがないので、自分でも断言できない。
 初期の頃はそうでもなかったのに、段々、ガキもの、ボクものが増えてきているようで、近年は大半がボク(ガキ)ものの短編となっているようだ。
 何故なのだろう?

 創作に限らず書きたいという気持ちが止まないのは、時に寝る時間を削っても、あるいは疲れた体を引きずってでも、書くネタがあろうとなかろうと机に向うのは、向わせるのは、自分ではどうしようもない、引き裂かれているとう感覚、空白の崖下へと呑み込まれ落ち込んでいってしまっているという実感めいたものが、根源的に自分の中にあるからだ。

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2008/01/20

銀嶺創作日記

 昨夜、久しぶりに掌編(短い小説)を書いた。
 PCに向った時には既に夜半を回っていた。

 何を書くあてがあってPCに向うわけじゃない。
 というより、エッセイやレポートなどは一応はテーマがあって画面に向う…こともある。

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→ 霙(みぞれ)のような小雪の降る中、いつものように自転車でスーパーへ。買物を済ませて自転車のほうへ向ったら、小鳥が一羽、スーパーの敷地でエサ探ししていた。自分のエサなのだろうか、それとも、この鳥は親鳥で、ヒナのためのエサを探してる?

(実際には、タクシードライバーの現役をやっていた時も、ほとんど徒手で画面に向っていた。書くテーマは机に向かい、PCを立ち上げ、あちこちのブログやらミクシィやらを見て回って、さんざんジタバタした挙句、ようやく覚悟を決めて書く…いや、書こうとしていた。何か書くことがあろうがなかろうが、書くってのがノルマだった。しかも、翌日は仕事を控えているので、テーマの決定から資料・情報集めの、そして執筆の時間を含めてタイムリミットは2時間。夜半を回った二時にはPCを閉じるのだ。絶対に寝不足でタクシーの営業はしない。これは鉄則である。)

 が、創作となると、全く徒手空拳である。何もテーマは決めない。今日は書くと決めたら、書く。創作する。話を構想する。
 いや、実際には構想などしない。

 最初の一行を決める。それだけだ。
 あるいは、何か、その日、その時、気になった、あるいはふと浮んだ一言、何かのイメージ。それだけが頼りだ。

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