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2008/12/01

槍ヶ岳の開祖・播隆上人

08_112810

→ 母が退院した翌日の夕方。小生の居住する部屋の窓からの、やんわりとした夕景の眺め。ホッとするひと時…。

 === 以下、本文です。===

槍ヶ岳の開祖・播隆上人

 今日(21日)の読売新聞朝刊の小さなコラムに、「播隆上人」の話題が載っていた。
 富山生まれ(越中国新川郡河内村(現富山市大山地区)の出身)だが、主な活躍場所は岐阜や長野ということもあり、生地・富山でもあまり知られていないという。

 小生自身、「浄土宗の僧侶で槍ヶ岳の開祖」だという播隆上人(ばんりゅう)の存在や名前など全く知らなかった。

 せっかくなので、ネット検索などで大よその情報だけでもピックアップしてみたい。

飛騨の山里暮らし NO15 笠が岳の開山と再興」(2005.10.4更新)をまず参照する。

 その中の、「笠が岳の開山と再興」の項に、「岐阜県と長野県境には槍ヶ岳、穂高岳、乗鞍岳など3000m以上の山々が7座連なっているが、笠が岳(2898m)は他県と境界をまたがない岐阜県内の最高峰である」とあった上で、以下の興味深い記述がある:

笠が岳を開山したのは、円空上人であるといわれている。
円空が笠が岳を開山したという確たる記録も痕跡も残っていないが、飛騨を訪れ一際高く聳える笠が岳を仰いだ時に、山岳修験者でもある円空が登らなかったことは考え難いし、仮に木の仏像を山頂に安置したとしても長年の風雪に曝されれば消滅してしまうだろう。
今もその謎を解明しようと、飛騨の円空研究者や愛好者達はその足跡を求めて笠が岳に登っている。

 さらに円空についての記述が続き、興味は尽きないが、リンク先を読んでもらうとして、ここでは以下の箇所を示しておく:
 円空の死後150年を経て、槍ヶ岳開山で有名な播隆上人が天明6年(1786年)に、越中河内村で生まれた。
(中略)
その後、彼を信じる村人などの協力を得て、文政6年(1823年)ついに登頂に成功した。
(中略)
播隆は諸国行脚の折は円空仏を笈の中に納め、いつも持ち歩いていたといわれている。
笠が岳「開山」といわず「再興」というあたりにも播隆の奥床しい人柄と円空を敬う気持ちが表れている。

 かなりの部分を略したが、是非、一読願いたい。
 また、「円空・播隆上人の足跡を訪ねて」として、「笠が岳登山」(2005.9/30~10/2)なる頁がある。
 絶景の数々の写真が載っている。必見!

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← 「播隆」 (画像は、「播隆 - Wikipedia」より。)

 上掲のサイトには、「新田次郎の「槍ヶ岳開山」には、播隆上人の生涯が詳しく語られている」という記述があった。

槍ヶ岳の開祖 播隆上人 OUTDOOR+-ウェブリブログ」なるブログの記述も興味深い。
 この記事の末尾に、以下のサイトが播隆上人について詳しいと書いてある:
「飛騨総合ポータルサイト 温故知新の旅-上宝村-播隆上人」

 小生らしくもなく、順番が逆になったが、「播隆 - Wikipedia」なる項目がちゃんとある!
「播隆(ばんりゅう、1786年(天明6年) - 1840年11月14日(天保11年10月21日))は、江戸時代後半の浄土宗の僧。槍ヶ岳の開山、笠ヶ岳の再興者。越中国新川郡河内村(現富山市大山地区)の出身」とあり、さらに、以下のように書かれている:

播隆は、自身の登頂のみでは満足せず、多くの人が山頂まで登れるようにするため、その後、何度も槍ヶ岳に登り、その槍の穂の難所に大綱を掛け、また、より頑丈な鉄鎖を掛けるよう尽力し、その生涯を閉じた。

 あれこれサイトを物色したところ、以下のサイトに行き当たった。
播隆上人略年譜」を含め目、充実している:
播隆上人を偲んで
 
 生地ではなく、松本駅前に上人の孤高のブロンズ像があるのは、致し方ないのか。
 
 さらに渉猟していたら、「弟子が語る播隆上人」という頁を発見。
 身近で接した者ならではの話を読める。

山と歴史  【播隆上人略傳】  愛知厚顔」は、文献をダイジェストする形で、播隆上人像を描いてくれていて、読み物として楽しい。
 
 播隆上人についての文献は各種あるようだが(末尾に列挙する)、有名なものとして新田次郎著『槍ヶ岳開山』(文藝春秋)があるが、これはあくまで小説だという、「新田次郎「槍ヶ岳開山」の「うそ」と真実」は読んでおいていいのではなかろうか。
 小説を読む前に読むか、読了後に読むか、悩ましいが。

笠ヶ岳~槍ヶ岳 (播隆上人の足跡を追って) [山行記録] - ヤマレコ」は画像が満載で、まさに播隆上人の足跡を追ったように感じられる?!

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→ 新田次郎著『槍ヶ岳開山』(文春文庫 文藝春秋) 小生は未読。書評「槍ヶ岳開山 新田次郎」参照。

 調べてみると、「槍ヶ岳開山播隆上人追慕登山」という試みが幾度なくされているようだ。
 なるほど、わが国第4位の高さを誇る霊峰槍ヶ岳(3,180m)というと、播隆上人なのだと改めて思い知らされる。

 紹介し切れなかったが、「後藤新弥コラム「スポーツ&アドベンチャー」 nikkansports.com」も、題名(副題)が「播隆上人の一里塚見つけた!!  飛騨・笠ケ岳を再興、ウエストンより早く槍ケ岳に初登頂」とあって、読むに楽しい頁である。
 

参考:
穂刈貞雄著『槍ヶ岳開祖播隆』(大修館書店 ← 穂刈三寿雄著?)
(「天空の寺院「槍ヶ岳開山」」参照。)
新田次郎著『槍ヶ岳開山』(文藝春秋)
大久保 甚一著『念仏行者播隆上人』(岐阜県揖斐郡播隆上人讃徳会)
播隆上人 著『播隆上人 迦多賀獄再興記 信州鎗獄略縁起』(企画・編集 日本山岳会)
富山……佐伯有頼そして立山

                     (08/11/21 作)(08/12/02 加筆)

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コメント

ここでの捉え方で興味深かったのは、新田次郎の大衆小説化のこころみとはことなる、修験者のあり方です。

その宗教的な哲学だけでは説明出来ない登山意欲を認めると、聖フランシスコなどの登山意欲とも通じるものが見えて来ます。

その意欲がモラルであったりするのは、なぜだろうかと?

投稿: pfaelzerwein | 2008/12/04 06:19

pfaelzerwein さん

播隆上人以前の修験者の登山の歴史(歴史…記録には残っていないのだろうけど)は、相当に有史とは別格な話になりそう。

播隆上人ら18世紀後半の登山などの意欲は、ある意味、(欧米の影響という意味での)世界的な潮流があるように思えます。
「池大雅と富山」
http://atky.cocolog-nifty.com/manyo/2008/03/post_de3b.html
上掲の記事でも書きましたが、「18世紀というのは、ヨーロッパにおいて様々な人々が国境を越えて旅して回った時代」であり、そうした踏破熱が高まった時代だったようです。
日本にも(鎖国とはいえ)オランダ(長崎の出島など)を通じて、世界を医学する、世界を解剖する熱が日本でも高まったように思えます。

上掲の記事でも引用しましたが、「文化・文政期(1804年~1829年)、1819年の明覚法師と永昌行者による乗鞍岳、1828年の播隆上人による槍ヶ岳など、開山が相次ぐ。また、立山講や御岳講などの講中登山がさかんになる。寛政期(1789年~1800年)に寺社詣でが解禁され、東海道中膝栗毛(1802年~1822年)が人気を博すなど、民衆の間に旅行人気が広まったことが背景として考えられ、参加する者の多くにとっては、宗教的な意味合いよりも、物見遊山としてのものだったと考えられる」わけです。

つまり、山が宗教的禁忌の場所である以上に征服の対象になる。踏破すべき対象に過ぎなくなる。
大衆化の方向へ向かっていくわけです。
明治維新と言いつつ、従前の禁忌や禁制が大衆レベルで、液状化するように、世界観自体が変貌していた、そのことが維新を成り立たせる背景や土壌にも繋がっていったように思えます。

登山の意欲は、モラル…よりも大衆の欲望の高まりのエネルギーが実態に近いのでは。

投稿: やいっち | 2008/12/05 02:39

旅行への関心は、世界の果てまで見てやろうという好奇心であったりして、それは現在における宇宙旅行人気であったりする訳です。

個人的には態々出かけてもなにも経験するだけだと、私などは海外旅行に行ったりする人の気が知れんのです。そこに日常性と非日常性をどうしても考えてしまう。

例えば、お伊勢参りと雄山登山を考えると同じだろうかと思うのですね。つまり、前者は道中の危険はあるにしろ物見遊山としていけるけども、後者は色々な意味でやはり厳しい登山となります。これは、今でも欧州のロープウェーや登山電車で上がるものと富士登山に代表されるものは大分違うのですね。

修験道者の道は吉野でもどこでもやはり厳しい物見遊山ではいけない道なのです。しかし、それを為そうとする人々の意志は必ずしも信仰心ではないとすると、一体何なのか?滝に打たれたり、護摩の儀式的なものとだけは思わないのです。

投稿: pfaelzerwein | 2008/12/05 05:08

pfaelzerwein さん

18世紀の特に後半から終わりの頃、寺社詣でが解禁されたり、宗教的禁制の対象(領域)だった霊峰へも、人々が分け入るようになる。
幕府に(も)重大な転機が来ていたのでしょう。
大きな解放(開放)への潮流があった。
多分、(典拠を示せませんが)時代的な雰囲気として、人々も感じ取っていた…ような気もします。

霊峰への登山と峻険な山への登山とを安易に混同するのは、山登りに詳しい人として気になるところなのでしょうね。
ただ、いずれにしても、禁制が溶けつつあった(解けつつあった)ことが注目すべき点ではないかと思うのです。

修験道の聖域さえ、侵犯されていく。
そう、18世紀の終わりには、「滝に打たれたり、護摩の儀式的なもの」よりも、もっと俗的な何でも見てやろうという精神の勃興を感じるのです(ある者は物見遊山だろうし、また別の者は山岳への挑戦なのでしょうが)。

背景には繰り返しになるけど、大きくは欧米の圧力があるのでしょうし、その潮流から(海外の動向に敏感な)日本(人)は逃れられなかったし、逆に一部の識者のみならず庶民も乗っかろうとしたのではないでしょうか。

まあ、この辺り(も)、勉強不足で今の所、感じがするとしか言えないのですが。

投稿: やいっち | 2008/12/05 19:46

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