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2008/12/14

ラジオから「われは海の子」が…

 昨夜だったか今朝だったか覚えていないが、仕事が暇だったもので、車中でラジオを聴いていたら、懐かしい曲の題名が。「われは海の子」だって。
 ガキの頃、文部省唱歌や童謡などの類いは学校で唄わされたものだった。音楽の授業が大嫌いで、ただただ仕方なく唄っていた。口パクをする知恵も度胸もなく、傍から見る分には素直に唄っているように見えたのではないかと思う。

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→ 滑川にて。海にもっと近づきたくて波打ち際へ。海水の透明度の高いこと! 以下、三枚の画像は、「あの世の沙汰もカネ次第?」参照。

 それに、音楽の先生の指導が厳しくて、全体の調子がおかしいと、幾度もやり直しをさせられる。唄っている当人としては、どこが悪いのか分からない。でも、やり直しをするうちにOKが出る。どこがどう直ったのか、さっぱり分からず、狐に抓まれたような心境のままに、いつしか授業が終わる。
 そんな繰り返しだったように記憶する。
 それでも、唄っているうちに、なんとなく気分が良くなったり、みんなと気持ちが一つになったような気になることもあったりする。ああ、こんな世界があるのかな、あったらいいな、もしかしたら今がそうなのかな、なんて思ったり。

 でも、授業が終われば、みんなバラバラだ。

 別にみんなが孤立しているというのではなく、歌の世界に浸るには、あまりにみんな育ち盛りで、授業の終わりのチャイムが鳴ると、箍が外れたように、重しが取れたように教室の中の子ども達が外へ弾け出る。野球だ、お喋りだ、トイレだ、悪戯だ、となるのだ。
 そんな小学校のそれも低学年の頃に唄った歌は、やはり記憶に刻み込まれているようだ。「かごめかごめ」、「とうりゃんせ」、「故郷」や「春が来た」、「春の小川」、「朧月夜」、「紅葉(もみじ)」、「赤い靴」、「かごめかごめ」、「めいめい児山羊(こやぎ)」、「七つの子」、「月の沙漠」…。
 中には学校で覚えた童謡なのか、ラジオで聴いた歌なのか、一体、何処で覚えた歌なのか分からない曲もある。音楽の授業は大嫌いだったが、音楽は、そして歌うことは嫌いではなかった。

 ただし、我が家には音楽的な雰囲気が皆無に近かった。父がハミングであれ唄うのを聞いたことはまるでないし、お袋もハミングをほんの時折、口ずさむ程度で、まして小生が幼い頃に唄ってくれたという記憶がない。
 小生が物心付く前には、背中に負いながら唄ったかもしれないが、それは分からない。そもそも我が家は兼業農家で父は忙しかったし、お袋も当時は狭くない田圃や畑、家事仕事などでのんびりする余裕はあったものか。
 小生には姉が二人いて、二人とも音楽が好きだし、唄うことも嫌いではなかったし、気分のいい時には唄っている光景に遭遇しないこともなかったが、しかし、全体として家庭に音楽的雰囲気に満ちていたとは言い辛い。音源は古くはラジオ、そこにテレビが加わっただけで、我が家にステレオが入ったことは一度もない。
 ましてピアノなどの楽器が置いてあったことなど、あるはずもない。我が家で楽器が鳴るとしたら、ハーモニカか笛で、授業の課題曲を練習する必要に迫られたからに過ぎず、どう贔屓目に見ても、音楽は自らが楽しむものではなく、外から与えられるものだった。

 ま、小生の貧しい音楽的土壌を語っても仕方ない。
 付言しておくが、お袋は我が家では一番、音楽に関心が深かったことは、ずっとあとになって分かったことだった。地域のつながりもあって、民謡を仲間と長く習っていた。
 けれど、お袋が民謡を朗々と唄うのを聴いたのは、姪の結婚式の際であり、七十も越えているお袋があんなに張りのある、しっかりした歌を歌うとは、小生は初めて知ったのである。
 聞きながら、自分はお袋のことを何も知らなかったのだと、忸怩たる思いで聴いていたものだった。花嫁、花婿の並ぶ席の脇で、マイクを前に、足に不具合を抱えるにも関わらず、すっくと立って堂々と唄うお袋の姿は、花嫁の姿より我が目に焼き付いている。
 体と経済的な事情が許せば、民謡を習いつづけて、教えることも考えられないではなかったらしいのだが、そこまで気の回る小生ではなかった。

  さて、やっと本題に入る。「われは海の子」の作者のことについて、恐らくは鹿児島の方だと思われる方がインタビューに答える形で、いろいろ説明されていた。ラジオからの聞きかじりで、断片的にしか覚えていないので、例によってネットの力を借りて、簡単に纏めておく。
 別に何のためという目的などない。心に引っ掛かったから、メモしておくだけのことである。

 この曲の作詞・作曲者名は長らく不明だったという。
 まず、下記のサイトを見てもらいたい:
 http://plaza26.mbn.or.jp/~ikebe/raum/monthsong/200108.html (← 既に消えてしまっている。

 そのサイトにもあるように、「作詞・不祥 作曲・不祥」となっている。
「当時の文部省の方針により、この歌も「詠み人知らず」にということになって」いたものらしい。理由は、このサイトに示されいる歌詞を読めば一目瞭然であろう。
 ようやく作詞・作曲者名が判明したのは、今から三年前のことに過ぎない。この歌は、「宮原は小樽新聞記者当時、明治41年に、文部省の新体詩懸賞に「海の子」という詩を応募し、佳作当選しました。この詩がもととなって生まれた歌」なのだが、「この事実が分かったのが、当時の入選の通知を長女の典子さんが公表したため」なのである。
 改めて宮原氏の経歴を示すと、「宮原 晃一郎(みやはら こういちろう) 1882.9.2(明治15)~1945.6.10(昭和20年) 享年64歳鹿児島県生まれ。 本名 知久。北欧文学者。児童文学者。」となるだろうか。

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← 波打ち際に立って遥か能登半島を望む。

 若干の経歴も上記のサイトに書いてある。語学の天才とあるのが目を引く。ラジオでも語られていたが、「「赤い鳥」に書いた作品も、海辺をテーマにしたものも多く、幼い日、毎日のように通った故郷の海・錦江湾の天保山海岸を思い浮かべながら、こうした作品も作られたのかもしれ」ない。
 三年前には、「鹿児島市祇園之洲公園内、桜島がよく見える海辺を眺める場所に「われは海の子」の歌碑が作られ」たそうな。しかし、「歌碑の方も歌詞は3番までしか載っていない」とか。
 歌詞の全体は下記のサイトでも確かめられる:
われは海の子

一番の歌詞は:

我は海の子白浪(しらなみ)の
さわぐいそべの松原に、
煙(けむり)たなびくとまやこそ
我がなつかしき住家(すみか)なれ

とあるが、やはり唄われているイメージは、ラジオで語られていたように桜島なのだろうか。背景は、故郷の海・錦江湾の天保山海岸であり、桜島なのだろうし、そのことに異論はない。
 ただ、「煙(けむり)たなびくとまや」というのは、苫屋(とまや)の裏か近くで煮炊きしたり、焚火したりする際に出る煙のことではないかと思ったりする。

 関係ないが、「とまや」と聞いて、すぐに藤原定家の「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕ぐれ」を連想するのは、この際には無粋に当たるのだろうか。季節が違うことは別にしても。
 無粋ついでに、「とまや」を広辞苑で調べてみると、「苫で屋根を葺いたそまつな小屋」とある。
 では、「とま」とは何かを同じく広辞苑で調べると、「菅(すげ)や茅(かや)を菰(こも)のように編み、和船の上部や小屋根を覆うのに用いるもの。とば」とある。雨露を凌ぐために使われたのだろう。
 見ると、「われは海の子」には分からない言葉がいろいろある。ついでなので、調べてこうか。
 まず、「ふだんのはな」とある。ほかにも「じょうよの ろかい 」「百尋千尋(ももひろ ちひろ)」と、あるはあるはである。と、ネットで「とまや すげ こも」をキーワードに検索したら、筆頭に下記のサイトが登場した:
 http://member.nifty.ne.jp/odasan/midi/else/ware.html (← 既に削除されたか。

 やっぱり先人はいるものである。そこに一通り説明してあるではないか。しかも、面白いのは、以下のコメントである。ちょっと笑ってしまった。
「詞も曲もなかなか素晴らしいのですが、6番の歌詞が気になります。相手が海賊や人喰い鮫であれば、「恐れんや」とか「驚かじ」というのは、勇気の表現だと納得できるのですが、「氷山」や「竜巻」は自然現象であり、知恵や力や勇気で対抗できるものではありません。そんなものに出会ったら、さっさと逃げるべきです。竹槍を持って B-29 を撃ち落とそうというのに似ていますね」。


 その伝で、意味が分からないとかではなく、どうしてこんな言葉が入っているのか分からないのは、「なみに ただよう ひょうざんも」である。「ひょうざん(氷山)」という言葉は小生も分かるが、でも、何故、氷山なのだろうか。鹿児島に氷山が流れ着いたことがあったのだろうか。それとも、海軍の誰かにそんな凄いものがあるという話を聞いて感動したのだろうか。
 ま、そんな白けるような疑問は脇において、この歌の世界に素直に浸るのもいいのではなかろうか……。

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→ 富山・滑川の岸壁にて富山湾の海を遠望。

 なんて、思った途端、思い出したことがあった。昔、そう、小生がご幼少の砌(みぎり)には、小生はこの歌をあまり素直には歌えなかったのだ。
 というのは、小生は、子供の頃は泳げなかったのである。だから、海水浴に行っても、波打ち際でパチャパチャくらいはしたし、プールでもはしゃいだことははしゃいだのだが、しかし、泳げない事実は隠しようもない。
 それに我が家は田圃と原っぱに囲まれた一角にあり、海から5キロと、さほど遠くはないのだが、しかし、海に馴染んで生きてきたとは言えない現実もある。海と聞いただけで、それどころかプールと聞いただけで、ああ、溺れちゃう! という恐怖の念が先に立って、こんな風景はすばらしいなと思いつつも、心底からは歌の世界に浸れなかったのだった。
 小生が泳げるようになったのは、三十代も半ばになってからだった。何事も我流でやる小生のこと、身の程知らずにも何処かのスポーツクラブの会員になり、ジムよりも主にプールに通った。それで、やっとクロールだが、20メートルほどなら泳げるようになったのだ。

 しかし、大概のプールは25メートルの長さがあり、端から端まではついに泳げなかった。挫折してしまったのである。あれだけ投資したのに。
 次に特訓したのは、40歳の頃だった。折りよくリストラされ、失業保険の給付もあり、相当に傷んだ体を鍛えなおすため、区民プールに通った。そして必死に泳ぎの練習をし、あるいはテレビで水泳教室をする木原光知子氏の水泳教室だったかの教えを見て学んだ。

 小生には息継ぎに難点があった。息継ぎが上手く出来ず、息が苦しくなってしまって、長くは泳げないのだった。つまりは、泳ぐ前に一度吸った空気を吐き出したら、ほぼ泳ぎは終わりとなるのである。
 それが、何かの番組で、泳ぐ際には息を吸うのではなく、吐くんだ、吐けば息は体が勝手に吸ってくれるんだということにヒントを得て、それでやっと息継ぎができるようになり、あとは一気に泳ぐ距離が伸びていったのである。
 しかし、未だにクロールしかできず、平泳ぎだと、泳ぐ距離と沈む距離が同じなのは、息継ぎだけでは解決できない課題のまま、今も残っている。

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← 5年ほど前の正月、帰省の際、郷里の近くの浜から立山連峰を海越しに望む。

 それでも、泳げるようにはなったので、今は、胸を張って、「われは海の子」を唄える自分が誇らしい。
 そんな気分の良さに乗じて、何か「われは海の子」をイメージさせる絵はないかと探したら、その名も「われは海の子」と題された絵が見つかった。作者は浜田良徳氏である。鳥取は、境港工業高校教職員だという:
われは海の子-とりネット-鳥取県公式サイト

 実を言えば、ネットで「とまや すげ こも」をキーワードに検索したのは、「とまや」をイメージしたくて、適当な絵を探したかったのだが、上記したように、代わりに違うサイトに飛んでしまったのである。

 そこで、海辺のとまやではないのだが、最後まで付き合ってくれた方へのお礼というか、お詫びの意味もあり、小生の好きな画家・向井潤吉の絵を幾つか見てもらうことにする:
 http://www.ntkr.co.jp/art/kouza/mukai.html (← やはり既に無効。代わりに、「世田谷美術館分館 向井潤吉アトリエ館」へ。)

                           (03/08/01作)

関連情報:
ラジオから「われは海の子」が…
(03/08/01作  03/12/29メルマガにて公表  03/11/24 ホームページup あるブログで「われは海の子」が話題になっていたので、関連する旧稿をアップしてみた。古い記事だけど、日の目をみせてやりたくて…。基本的に書きおろし当時の文章そのまま。必要最小限の訂正に止めている。 画像は、他の記事から援用。()内のイタリック体活字の注記は、今回、アップに際し付したもの。 (08/12/13 注記))

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