同人誌(?)を出した頃
まず冒頭で断っておくが、小生が関わる同人誌といった話ではない。
過日、ひょんなことからあるネット上の知り合いの方(田川未明)がさる同人誌(の主催者(発行人))に寄稿を求められ、小説を書いたというので、掲載されている作品を読みたくて、一部、譲ってもらったのである(例によって、敬愛の念を籠め、勝手ながら敬称は略させてもらう)。
← 同人誌「花眼」 (詳しくは、「トルニタリナイコト@田川ミメイ魚住陽子個人誌「花眼」に短編を書く。」を参照。) この個人誌の表紙(裏表紙も)の絵は、加藤閑の手になる。09年3月、銀座の画廊で個展を開くとか。詩集を出したことがあり、冊子に随筆を寄せておられる。この写真は、小生が手元にある冊子を撮ったもので、綺麗な画像でないのが申し訳ない。
冊子の名前は、「花眼(ホァイエン)」。魚住陽子主宰。詳しくは、「トルニタリナイコト@田川ミメイ魚住陽子個人誌「花眼」に短編を書く。」を参照。……「花眼」とは、中国語で、「老眼」を意味する言葉だが、同時に、「花がよく見える眼」という意味もあるとか。これからは老眼じゃなく、「花眼」って呼称したいものだ!
作品の数々を読んでの感想は別の機会に譲るとして、同人誌(同人雑誌)という存在にちょっと懐かしさを覚えた。
(同人誌・個人誌という存在自体にも興味があるが、これも後日、採り上げてみたい。)
小生は、記憶する限り、ただ一度だけ、同人誌(モドキ)に関わったことがある。
同人誌という呼称(性格)に相当するものかどうか、正確なところは分からないが、とにかく、遠い昔、ガリ版刷りの冊子を出したことがあるのだ。
それは、大学に入学した年のこと。
入学すると、いろんな部からの新入生の勧誘があった。
中には、体育会系からはまるで遠い小生が、空手部から誘いを受けたこともある。
母校(高校)の先輩が空手部に居て(主将だったかもしれない)、その方に誘われ、とうとう断りきれず、二日だけの約束で空手部に体験入部したのだった。
小生は、中学でも高校でも、体育会系のクラブには、サッカー部に半年だけ入部したことがあるだけ。
その一度きりである。
文科系だと、サッカー部を退部したあと、物理クラブにほんのしばらく、といっても、やはり半年ほど在籍したことがある(多分、物理部でのエピソードは書いたことがあると思う)。
サッカー部を半年で、さらに物理部も半年持たず、小生はその後、一切、部やクラブに加入しなかったし、加入しないと決めていた(それはサッカー部を辞めた時の経緯があれこれあるからである)。
なので、先輩の勧誘であり断りきれなかったが、それでも二日だけというお願いはしておいた。
空手部での体験入部は厳しいものがあった。
断っておくが、小生は運動は好きである。
好きで(サッカーブームということもあったが)サッカー部に入ったくらいだし、密度の濃い充実したサッカー部員生活は今でも懐かしく思い出される。
高校二年、三年と二年続けて体育大会では、自ら志願して5キロのマラソン大会に出場したし(ぶっつけで上位入賞した)、やはり高校時代、冬休みの寒稽古で剣道の早朝練習に希望して出たし、大学でも、入学した年の暮れ、20キロのマラソン大会に出場し、二百人の出場者の中で十数位になり、賞品(記念品としてお酒)をもらったこともある。
サラリーマン時代も、ゴルフ、スキー、テニス、卓球などをやったし、オートバイとは三十年の付き合いであった。
青梅マラソン(30キロ)にも出たことがある。スポーツ用品の会社である「ミズノ」の主宰するマラソン大会にも二度、出たことがあった。
ただ、団体生活・行動が苦手なのである。
どうしても、団体行動を取る必要があれば、金魚のウンコではないが、一番、後ろのほうで、ただ引きずられるようにして、集団に付いていくのみだった。
まして、運動部は真っ平ゴメンだった。
二日だけの体験入部。
スポーツは好きといっても、日頃、運動をしているわけじゃない(但し、大学に入って何ヶ月かして、新聞配達のアルバイトを通算で二年、やったことがある。が、入学直後は未だ運動らしい運動はしていなかった)。
鈍った体には、空手部の練習はきつく、その頃はまだ、うさぎ跳びも平気で練習のメニューにあったりして、二日の練習を意地で遣り通したはいいが、体は疲労困憊で筋肉痛で参ったものだった。
二日をやりきった或る日、書店で本を物色していたら、声を掛ける人が。
振り向くと、空手部の例の先輩だった。
「空手部、来ないのか?」
「行きません。二日だけの約束だったし」
「そうか」
先輩は、一言、そういって未練たらたらではあったが、静かに立ち去った。
そういえば、練習の二日めが終わって、道場を去ろうとしたら、背後で先輩と先輩の同じ学年の男とが会話しているのが聞こえた。
「彼、来るかな?」と男。
「来るさ」と、期待を籠め、自分に言い聞かすような先輩の返事。
その実、彼らの囁くような声での会話が小生に聞こえていることを彼らが十分、意識した語調だったように記憶する。
期待されているのに、断る。
小生のような気の小さい、人の期待には応えたい(人に良く思われたい)人間には、断るのは勇気が要ることだった。
二日の練習に辟易した、根性なしな奴、そんな風に思われてしまうだろうな…。
でも、サッカー部を退部する際の煮え切らない態度がもたらした気まずさという苦い体験があって、結論は最初から見えていた。
→ 25日の夜から降っては溶けてを繰返していた霙(みぞれ)や雪。26日の朝方にはほとんど雪は消え去っていた。それが次第に霰(あられ)になり、雪になっていった。
小生はクラブには何処にも加わらないつもりでいた。少なくとも体育会系はありえなかった。
でも、文科系は自分の中では姿勢が決まっていたかどうか。
大学入学一年目は、あれこれあって、これはこれで思い出すこともいろいろあるし、忘れたこともさらに多いのだろう。
交際下手な小生だが、それでも、いつしか、友人が何人か出来た。
長くなるので細かなことは今は省く。
学生運動は前年度までと比べると下火だったが、それでも未だ、活動は活発だったが、浅間山荘事件での(意図的な凄惨さの印象付けの結果としての)学生の左翼運動離れの空気が漂い始めていた。
自ら学生運動に飛び込む機運は相当に減退していたような気がする。
小生にしても、左派には多少のシンパシーはあっても、自ら運動に加担する気はなかった。
否、むしろ、そういった連中には警戒心をさえ抱いていたような。
友人らの心持は分からないが、少なくとも学生運動とは無縁の一年生らが集まっていた(中には一人、学年が上の人も居た。
お互いのアパートや下宿を、代わる代わる泊まり歩く日々だった。
秋が深まる頃には、同人誌を出すという話が煮詰まっていった。
当時は、やや熱気は薄れたとはいえ、未だ、実存主義の潮流が健在だった。
一方、マルクス主義も、力を持っていた。
小生は、高校の二年の頃から、哲学付いてしまって、高校から大学の教養部の頃は、キルケゴールやショーペンハウエル、パスカル、ハイデガー、ニーチェ、フロイト(ユング)、ベルクソン、サルトル、デカルト、ドストエフスキーなどの諸著を読み漁っていた。
日本の文学や思想家の本もボチボチ読み始めていた。
友人たちはもっと読書量も教養もあった。音楽や絵画など、お互いに影響しあったし、刺激し合っていたものである。
リルケやヘッセ、ゲーテは別として、曲がりなりにもボードレールやブランショ、ランボー、マラルメ、「ユリイカ」のポーなどに親しみだしたのは明らかに友人からの影響である。
絵画だと、ムンク、ダリ、ゴッホ程度しか関心がなかったのが(しかも未だ実物との対面は果たしていなかった)、ローランサン、ロートレックなど、様々な画家の作品にも親しむようになった。
同人誌の性格も、必然的に実存思想にシンパシーを抱く連中の集まりを反映するものとなった。
その名も「実存空間」!
名前から分かるように、文芸誌ではなく、思想好みの傾向が強かった。文学でも創作よりは評論だったり。
その同人誌にそれぞれが何かを載せるのがノルマだったので、小生は切羽詰って、「ある日」と題した創作を書き下ろした。原稿用紙で数枚の短編である。
創作ではあるが、日記の延長のような、性格の曖昧な小品である。
そもそも創作するつもりなどまるでなかったので、日記文に毛の生えたような代物しか作れなかったのである。
…ただ、高校の二年の頃からボンヤリと、そして三年の夏休みまでにははっきりと、将来、文筆で身を立てたいと思うようになっていた。
高校三年の夏、8月1日、それまでは大学は理系(物理)志望だったのを、文系(哲学)志望に変えたのである。
なので、いつかは創作という思いがなかったわけではないが、生来ののんびりやというか、人に知りを叩かれないと動かない、ドン臭さのゆえに、同人誌の機運が仲間内で高まってからも、何を書くか、何のアイデアも浮かんでこなかった。
ガリ版をするという日にちが迫ってから、無理やりひねり出したのが「ある日」だったというわけである。
大学一年の冬休みは、仲間達数人で、ガリ版印刷機を買って、キャンパスの隅っこにある部室でガリ版作りに精を出したのだった。
ロウ紙に鉄筆でコツコツ、一文字ずつ削るように、しかしすぐに破れるロウ紙を破らないように神経を払いつつ、書き込んでいった。
確か、自分の文章は自分でロウ紙に書くことになっていた。
ガリ版を刷るのは、後にも先にもあの時が唯一の機会ではなかったか(小学生の頃、学級通信のようなものをクラスで順番に出していて、小生も一度、ガリ版を刷ったような曖昧な記憶がある)。
← 26日の午前。うっすらと雪化粧。未だ土や木肌や葉っぱや屋根の地の色も透けて見えている。でも、夕方には、銀世界に。窓や壁や柱などが黒いが、あとは…心以外は…真っ白。
ロウ紙やガリ版(謄写版)を使ってのプリントは、一つの時代を画したとも言えそう。
ある年代以上の方なら、ガリ版刷りのプリントは随分と目にしたし、あるいは自ら刷ったろうし、懐かしい思い出が一杯あるはずである。
せっかくなので、「謄写版 - Wikipedia」から一部だけ転記しておく:
非常に簡易な印刷装置で、小型のものは手で持ち運ぶこともでき、原紙とインクさえあれば、電気などがなくても印刷が可能であるのが特徴である。このため、日本では小学校で副教材や問題用紙の印刷などに多く使われ、戦地でも活用された。また、政府非公認組織がビラなどを作成するためにも多く使われた。複数のインクと版を利用してカラー印刷を行うことも可能であった。高い技術を持つ書き手の手にかかると、非常に美しい多色印刷物を作ることもできた。 その手軽さから小部数の出版にも多く活用され、1950~1980年代には演劇や映画・テレビ番組の台本、楽譜、文芸同人誌など「ガリ版文化」と呼ぶべき一時代が築かれた。
創刊号は、確か、百部、刷ったように記憶している(二百部だったかもしれない)。
各自、分担した分を売るということで、小生も何十部かノルマとして宛がわれたものである。
キャンパスで、ダラーンとした気分で冊子を並べていたら、同じ教室の誰かが目に留めたようで、一冊、売れたのを覚えている。
尤も、少なくとも小生のノルマ分は売れるはずもなく(売る才覚もなく)、今も、何部か残っている。
そう、創刊号であり終刊号だったわけである!
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コメント
「花眼」、この魚住陽子さんの個人誌のことは私もある知人のブログで知りました。そのとき、田川さんのブログもそのとき拝見しました。タイトルもデザインもすてきですね。
ガリ板刷り、なつかしいですね。3つの光景を思い出しました――小学校、近所の公民館、そして大学の某サークル。鉄筆での書き込み?もなつかしいですが、あのローラーを使ってインクを塗りこむ?「作業」も知の生産の一環としてたいせつなものだったように思います。
投稿: かぐら川 | 2008/12/27 20:09
やいっちさん。「花眼」のこと、ご紹介くださって有難うございます。感謝、感激。
>どうしても、団体行動を取る必要があれば、金魚のウンコではないが、一番、後ろのほうで、ただ引きずられるようにして、集団に付いていくのみだった。
あはは。おんなじだー。あたしもそうです。集団行動苦手で、仕方なく、というときはいつも後ろでグタグタしてました。
>「実存空間」
おお、かっこいーー。
>ガリ版
懐かしいです~。あたしは小学生のとき、まさに「学級新聞」係(?)だったので毎月のようにガリ版刷ってました。あのインクの匂いが好きだったなぁ。手が真っ黒になったけれども。もう一度やってみたいです。
>何部か残っている
残っているんですね?!ではではここに「ある日」をアップしてくださいませ~。ぜひぜひ。
投稿: ミメイ | 2008/12/27 23:45
かぐら川さん
小生も存在だけはミメイさんのブログなどを通じて知っていました。
なんたって芥川賞候補作家の方が発行されているわけだし。
発行されている方のセンスが如実に現れている冊子です。
ガリ版刷り。ある年代以上の方にはたまらなく懐かしい世界ですね。
鉄筆でカリカリと、一文字ずつ書き込む作業も、文字を間違えて訂正する作業も、ローラーで刷る作業も、インクの匂いも、わら半紙への細い文字での印刷(謄写された)文字も、全て手作業。
情熱なのか、希望なのか、価値観の共有でもあるようだし、時代性をさえ感じます。
今も(日本でもやっている人はいるだろうけど)、アフリカなど海外でガリ版刷りは活躍しているとか。
日本の高度成長の頃のひたむきさが、今、世界の何処かで営まれているのでしょうね。
投稿: やいっち | 2008/12/28 03:41
ミメイさん
「実存空間」じゃなくても、仲間ともう少し、書く営みで切磋琢磨しておけばよかったなって、つくづく思います。
まあ、自分で黙々とやっていればそれでいいのだろうけど、やはり、仲間との交流が刺激になるからね。
自分が自覚的に書くという営みに力を入れだしたのが35歳から。
ちょっと始めたのが遅かったかな。
ガリ版刷りという営み。
ひたむき、という言葉を連想します。
貧しくとも情熱と希望と夢と仲間に恵まれていた、そんな時代だったのかもしれない。
もう叶わない世界だからこそ、懐かしいのだろうか。
だったら、ちょっと寂しいような。
できそうで、できない単純素朴な営み。
やはり、叶わない?
「ある日」は、下記です:
http://homepage2.nifty.com/kunimi-yaichi/essay/one%20day.htm
投稿: やいっち | 2008/12/28 03:49