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2008/11/13

サイード著『晩年のスタイル』…読書拾遺追記

 拙稿「移ろいゆく季節を追って…読書・音楽拾遺(前篇)」にて、エドワード・W.サイード著の『晩年のスタイル』 (大橋洋一 訳 岩波書店)を読んだと書いている。

2008_1111071003tonai0040

→ 過日、小生の部屋から夕景を撮ってみた。なかなか表に出て撮影というわけにはいかない。篭りきり…に近いような。夕景は物思いを誘う。忘れていたことさえ思い出させるような気がする。


 でも、内容に付いてあまり紹介できなかった。
 といって、小生には荷が重いので、ちょっと変則的だけど、一部を抜粋する形でせめて大よその見当だけでもつけてもらうよう、メモしておく。


                           (08/11/13 追記)


 === === (ここから本文) === ===

サイード著『晩年のスタイル』…読書拾遺追記

 エドワード・W.サイード著の『晩年のスタイル』 (大橋洋一 訳 岩波書店)について、前稿であれこれ半端なことを書いている
 多分、意味不明かいずれにしても、せいぜい隔靴掻痒だろう。

 なので、ここに若干の追記として、サイードが本書で言わんとすることをある程度は象徴しているような一文(但し、サイードによる引用がメイン)を本書から転記してみる。
 前後の脈絡を欠くので、分かりづらいかもしれないが、それでも小生の下手な感想よりはずっとましのはずだ(イタリック体は、本文では傍点である。<遅れた>は、原文では<late>である):

(前略)しかし、終わりつつもまた生き延びることもある。わたしがここで主に論じようとするのもこのことである。あまたの人物のうち、シチリアの貴族で、回顧的な小説を一作だけ書き、生前どの出版社からも出版を断られた作家ランペドゥーサのような作家、またアレクサンドリア出身のギリシア詩人で、同様に、生前ひとつも作品を出版しなかったコンスタンディノス・カヴァフィスらは、みずからの時代とのつながりを拒絶しつつも、にもかかわらず、ゆるがせにできぬ力強さをもつなかば反抗的な芸術作品を産出することで、希少で貴重でさえあり、しかも手ごわく難解な美的精神のありかを示唆するのである。哲学においてはニーチェが同様に「時宜に適わぬ」姿勢を保ちつづけた偉大な原型的人物である。こうした人物たちにとって、<晩年>あるいは<遅れた>という語は実に的を射たもののように思われる。
 ラシェル・ベスパロフの『イーリアスについて』に寄せた序文のなかで、ヘルマン・ブロッホは、彼が老齢のスタイルと呼ぶものについてこう語っている――

  それは必ずしも老齢の産物とはかぎらない。それは
  他の芸術的才能とならんで授けられた才能であり、
  時とともに、おそらく、成熟をとげ、死の影のもとでし
  ばしば時季はずれの早咲きとなるか、老齢あるいは
  死の到来直前に開花する。それは新しい表現レヴェ
  ルの到来である。たとえば老いたティツィアーノが発
  見した、人間の身体と魂を溶解して高次の統一体へ
  と変容させるところのすべてに浸透する光、あるいは
  レンブラントやゴヤが、その活動の絶頂期に発見した、
  人間や物のなかにあって眼にみえる部分の背後に
  存在し、しかもなお描くことのできる形而上的表層あ
  るいは老齢のバッハが、表現したいものは音楽の聴
  取可能な表層の下、もしくはそれを超えたところにあ
  ると考え、具体的な楽器を念頭に置かずに作曲した
  『フーガの技法』など。


0244410

← エドワード・W.サイード著『晩年のスタイル』 (大橋洋一 訳 岩波書店)

 また、読書・音楽拾遺の後篇の末尾で、小生は、サイード著の『晩年のスタイル』 を読んで、映画『山猫』の原作(トマージ・ディ・ランペドゥーサ作『山猫』 (小林 惺 訳 岩波文庫))を読みたい云々と書いているが、その動機となった理由の一端をでも、本書から転記する形で示しておきたい。
 またまた脈絡を無視するかのような転記だが、まあ、文意の幾分かは察することができるだろう:

(前略)並外れたふたつの作品の政治意識を分析してみると、政治がほんとうの問題ではないことが明らかになると思う。映画のなかでも小説のなかでも、わたしたちは回復不可能な世界――空想の世界でもあり、また歴史の世界でもある――が、スケールの大きな英雄的人物によって支配されているところを目の当たりにする。いいかえると、どちらの作品でも、わたしたちが山猫(公爵のこと)と一体化することを許していない。おそらくそれは、ほとのどの読者や観客が、まさに公爵がシュヴァレイに語るところのジャッカルでありハイエナであり羊そのものにすぎないからだが、また部分的には、この巨大な映画の観る者をたじろがせる効果と、小説の繊細で内省的な性格とが、それぞれ独自のやり方で、読者や観客を一定の距離まで遠ざけているからであろう。小説のなかでランペドゥーサは、ドン・ファブリツィオの、地所と家族の管理者としての、また扶養者たちの繁栄とその過去に対して責任をもつ家長としての、まさに家父長制的権威を強調している。公爵が、。実在の人物の影を引きずり、彼らの世界を卓越したセンスと洞察力でもって描いた作者の先祖でもあるという事実は、彼の卓越した権力者としての眼差しを裏付けるものであろう。映画のなかでも、その統合された人格と責任感の一端は垣間見えるものの、それは公爵の性格から派生していない。公爵の権威やオーラの淵源には、これまで作られた他のすべての歴史絵巻映画がある(ハリウッドの叙事詩的映画、『暴君ネロ』『クオ・ヴァディス』『ベン・ハー』『エル・シド』『十戒』などが、偉大なる君主や王や英雄たちを具現化してきた。たしかにバート・ランカスターはこうした過去を引きずっている。興味深いことに、ヴィスコンティはもともと公爵役にローレンス・オリヴィエを考え、つぎにマーロン・ブランドを考えていたが、最終的に二十世紀フォックスのスターで秘蔵っ子のランカスターに落ち着いた)。そう、公爵の権威は、ヴィスコンティによってスクリーンに投影された世界、彼が監督として作り上げた世界から来ている。ヴィスコンティの世界は、もちろんその性格を云々すれば、ランペドゥーサ一族の世界のヴァリエーションであるが、その嗜好、十九世紀イタリアの綿密な再現、高度な映画的知性のゆえに、その世界は最終的にハリウッド映画の枠におさまりきらず、ワーグナーやプルースト、そしてもちろんランペドゥーサ自身に負うところの多い晩年のスタイルをそなえた芸術家の作品となったのである。
 こうしたことすべては、ヴィスコンティとランペドゥーサが仕事をした、小説とか映画という大衆消費形式と齟齬をきたすといえるかもしれない。アドルノと比べた場合、さらにはシュトラウスと比べた場合、その対比に驚くかもしれない。アドルノとシュトラウスはともに、きわめて専門分化した媒体それもその根底に抵抗性を宿した媒体、すなわち哲学的エッセイとクラシック音楽において活動を展開したからだ。しかしながら、四人すべてのなかに、ある種の放蕩へと向かう感覚、つまりおびただしい浪費へと傾斜する、やむにやまれぬ欲望、容認されたもの、あるいは安易なものを傲然と拒否する姿勢がみられるだけでなく、きわめて危険でなおかつ敵対的でもある同盟を求めて、権威主義的なシステムへと向かう感覚が存在する。いうまでもなく権威主義的なシステムのひとつとして、狷介固陋な作者の権威主義が存在するが、その内奥の特徴とはいかなるシステムによる意味づけをもすり抜けるように思われるのだ。ここでわたしが論じた人物のそれぞれが、晩年性や時代との齟齬を、また傷つきやすい成熟状態を基盤として、主体性のこれまでにない統制されていない様式をこしらえるのだが、同時に、それぞれが――晩年のベートーヴェンのように――技巧上の修錬と周到な準備にあけくれる生涯を送っていた。アドルノ、シュトラウス、ランペドゥーサそしてヴィスコンティは、グレン・グールドやジャン・ジュネと同様に、二十世紀の全体化規範となって立ちはだかる西洋の文化と文化的拡張装置――音楽業界、出版業界、映画、ジャーナリズム――の裏をかいたのだ。彼らの作品に見出しにくいもの、それは彼らの悩んでいる姿である。たとえ彼らがはなはだしく自意識的な至上の技巧家であっても、その姿だけはお目にかかったことがない。老齢に達した彼らは、老齢に固有と思われている晴朗な心境なり円熟、老齢に固有のおおらかさやへつらいを求めて、あせったりしていないかのようだ。しかもだからといって、彼らの誰ひとりとして、死すべき運命について、それを否定したり、やりすごそうとはしないで、死、それも言語の用法と美的なるものを損なうと同時に奇妙にも格上げしてくれる死、その死というテーマとして、絶えず呼び戻しているのである。

参考:
移ろいゆく季節を追って…読書・音楽拾遺(前篇)
                                 (08/11/05作)

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