寅彦そして病院の物音のこと
昨日の拙稿「お見舞い…雪より白けた心」の中で、病棟内での「音」について少し書いている。
コメントでも指摘された。
→ 20日、お見舞い、そして買物を終えて帰宅した直後、茶の間の窓をふと見ると、虹! 久しぶりだ! 急いでデジカメを引っ張り出し、台所の勝手口から外に出て撮影。ちょっとタイミングがズレタけど、かすかに虹が写っている。いい兆しであってほしい。
小生には、「音」に関わる掌編やエッセイが少なからずある。
本稿では、「寅彦よセンスの欠けら分けてくれ」から関連する部分を抜粋しておきたい。
長文過ぎて、リンク先を示すだけでは辟易されるだろうし(抜粋しても、結構な長文だが)。
=== === (ここから本文) === ===
「病院の物音のこと」
さて、今日は、寺田寅彦著の本『ちくま日本文学全集35 寺田寅彦』(藤森照信解説、筑摩書房)から、もっとつつましやかな随筆に触れておきたい。
それは、「病院の夜明けの物音」という随筆である。
「朝早く目がさめるともうなかなか二度とは寝つかれない。この病院の夜はあまりに静かである。」から始まるこの小文は、読み終えるのに二分は要しないだろう。
が、物心付いてからだけでも、四回は一ヶ月ほどの入院生活を余儀なくされた小生には、たまらなく切ない文章なのである。
それこそ、小生には入院体験に淵源する「黴と錆」といった掌編がある。雨が降ると、その雨音や雨の雫に病室の窓からただぼんやりと眺め入っていた頃のことをつい連想してしまう自分がいる。
「夜の訪問者」なども、直接には病室での日常を描いているわけではないが、誰も訪れることのない、ドアはいつだって外からも中からも開けられるのに、看護婦(今は看護師であろうが)さん以外には開けることのない、精神の密室の中にいて、友といえるのはクモだったりヤモリだったりしかない、病室での底抜けの孤独を何処かで脳裏に浮かべつつ描いている。
「青い雫」などは、アパートでのエピソードを書いているようであり、一人暮らしの<オレ>のもとへ女が来る、かのように書いている。
つまり、「その日、やっと二度目の成功を果たした時、階段がギシギシと軋み始め、ついで廊下をスリッパでペタペタ歩く音が聞こえてきた。はす向かいの女だ。歩き方で分かる。やや、がに股の女。でも、太ももの肉付きが俺好み。それにお尻もおいしそう。あまりハッキリ、女の顔を見たことはないが、歩く後ろ姿だけは、機会のある毎に目に焼き付けておいたのだ。オカズにするために? もう、しちゃったよ。」などと。
が、言うまでもなく、病室にあって来訪者というと看護婦しかなかった<ボク>の耐え難い孤独の織り成す妄想に過ぎないとも言えなくもない。
← 病院を出て帰途に着く。信号待ちしていて、北の空が鉛色であることに今更のように気づかされる。北陸特有の冬の空だ。これからますます暗色が濃くなっていく…。
病室にあって、一応の施術は終わって回復を待つしかない若い身には、夜九時の消灯以降の朝までの時間は、気が遠くなるほど長い。
それでも寅彦には小生には全く真似のできない工夫が出来ていたし、恵まれてもいた。
それは、本書には載っていないが、「病室の花」なる佳品を読むといい。
看護婦さんが毎日、花を変えてくれる。無論、奥さんが気遣ってくれる。弟子が花を届けてくれる。子供が見舞いに来てくれる。小生の入院の間には一度としてなかったことだ。
人間性が違うと言えばそれまでだが、それだからこそせめて、病室での夜の深さ、一日の長さは小生のほうが寅彦より痛切に感じていた、と思いたいのだが、それさえも、実際にはあやしいものである。
なぜなら、小生には寅彦のようには書けないからである:
このような朝をいくつとなく繰り返した。しかし朝の五時ごろにいつでも遠い廊下のかなたで聞こえる不思議な音ははたして人の足音や扉の音であるか、それとも蒸気が遠いボイラーからだんだんに寄せて来る時の雑音であるか、とうとう確かめる事ができないで退院してしまった。今でもあの音を思い出すとなんとなく一種の――神秘的というのはあまり大げさかもしれぬが、しかしやはり一種の神秘的な感じがする。なぜそんな気がするのかわからない。遠い所から来る音波が廊下の壁や床や天井からなんべんとなく反射される間に波の形を変えて、元来は平凡な音があらゆる現実の手近な音とはちがった音色に変化し、そのためにあのような不可思議な感じを起こさせるのか、あるいは熱い蒸気が外気の寒冷と戦いながら、徐々にしかし確実に鉄管を伝わって近寄って来るのが、なんだか「運命」の迫って来る恐ろしさと同じように、何かしら避くべからざるものの前兆として自分の心に不思議な気味のわるい影を投げるのか、考えてもやっぱりわからない。
(「病室の花」より)
まあ、小生などは、せいぜい、こんなことを呟けるだけである:
命は、この世の至るところでその発露を求めている。岩の下で圧迫されていたって、岩を噛み砕いてでも、日の下に出ようとする。ちょうど、そのように、重い布団に呻吟するあの人は、窓の外の色付いた葉っぱを恋しているに違いない。他に道はない。たとえ、日に向かって手を差し伸べることが、刃の林立する地獄に素の腕を差し出すことに他ならないとしても、でも、他に道はないのだ。
命を削ってでも、幾重にも折り畳まれてしまって、もう、原形など留めていない心の根を伸ばそうとする。心の枝を張ろうとする。心の葉っぱを日に晒す。
岩の中に亀裂を生み、体を削りつつ、上へ上へと伸びようとする。腕の表皮が剥がれ落ちていく。そんなことなど、構ってはおれないのだ。きっと、剥がれた肉片だって、命の塊には違いないのだし。岩に垂れ、染み付いた血の雫だって、命の流れの果ての姿には違いないのだ。
心は、あらゆる方便を選ぶ。見かけがどうだろうと、構うことなどない。顔を歪めてでも、日の光を浴びたいのだ。世間という岩塊を炸裂させてでも、命の交合を夢みるのだ。
(「叡智 それとも 命の疼き」より)
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