『〈出雲〉という思想』のこと(前篇:『夜明け前』へ)
29日の雨はまさに氷雨だった。
朝、庭に出てみたら、庭先に植えた7株のパンジー、夜半過ぎまで降り続いたややきつめの雨の勢いに負けたのか、それとも小生の植え方が甘かったのか、一株の花が茎で折れていた。
無念!
願わくば、残りの花たちが元気に育ってくれますように!
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→ 原武史著『〈出雲〉という思想』(講談社学術文庫)
原武史著の『〈出雲〉という思想』(講談社学術文庫)を過日、読了した。
副題が「近代日本の抹殺された神々」とあって、なかなか面白い本だったので、感想とまではいかないが、大よそのことをメモっておきたい。
古代史や考古学関係の本は基本的に新刊しか手にしない方針でいるのだが、図書館でCDを借りる手続きをしている合間、ちょっと手持ち無沙汰になり、出口付近にある文庫本の書架をチラッと眺めやったら、本書が目に飛び込んできた。
<出雲>という言葉が題名にあるだけで、気になってならなくなる。
まして、<出雲>という思想って、どういうことなのと、手に取るしかなくなったのだ。
著者の原武史氏は、本書が刊行された05年のデータによると、「1962年生まれ。東京大学大学院博士課程中退。東京大学社会科学研究所助手、山梨学院大学助教授を経て、現在、明治学院大学助教授。専攻は日本政治思想史」という方。
本書の内容紹介によると:
明治国家における「国体」「近代天皇制」の確立は、“伊勢”=国家神道の勝利であった。その陰で闇に葬られたもう一つの神道・“出雲”。スサノヲやオホクニヌシを主宰神とするこの神学は、復古神道の流れに属しながら、なぜ抹殺されたのか。気鋭の学者が“出雲”という場所をとおし、近代日本のもう一つの思想史を大胆に描く意欲作。
「2004-05-17 - 芒ヶ原蓬の備忘録」での説明を借りると:
神道の神様たちの序列というと、アマテラスがいちばん偉いという認識が何となく定着しているような気がします。しかしどうやらそれは明治政府が採用したひとつの解釈に過ぎないようで、そこに至るまでの神道にはもっと多様な解釈が存在していたことをこの本は伝えています。明治に入るまで、神道は仏教と神仏習合した状態にありました。そんな中、江戸末期に登場した国学は神道の位置付けを明確にし、それはやがて明治政府による国家神道の導入へとつながっていくのですが、政治に取り込まれたことにより、神道は宗教なのか祭祀なのかよく分からないものへの変質を余儀なくされました。神道には今なおそういったイメージを引きずっているところがありますが、神道がどのような経緯で今に至るのかを知るうえで、この著者の仕事は有益であると言えましょう。
国学の発展の推移を追跡するという仕事は由緒あるものを見定めるという姿勢でもありまして、埼玉県三市(浦和・大宮・与野)合併の際に新市名として「氷川市」を提案したというくだりには、研究者としての著者の面目躍如たるところが現れています。
一層、読み込んだ感想を「感想『〈出雲〉という思想』」(ホームページ:「文学の遠吠え」)にて読むことが出来る。
さて、たとえば『日本書紀』読解で問題となるのは(あるいは立場によっては等閑視されてしまうのは)、「一書」(や『風土記』)の扱いだろう。
この、場合によっては読み過ごされてしまう「一書」の記述には、読み方や解釈によってはとんでもない神道(あるいはそれ以上)の上での爆弾が潜んでいる。
不発弾…というより、一度は爆発しかけたが、明治政府により無理やりにも炸裂の勢いが一時的に封じ込められている。
不発弾はそれほど深くもない地下で燻り続けている…のかもしれない。
当然の如くに、だろうか、本書では島崎藤村の『夜明け前』への言及が見られる。なんといっても、『夜明け前』では本書でも重要な位置付けを与えられている平田篤胤が幕末から明治維新の変革において思想的なエネルギーの意味でも不可欠の存在として登場してくるのだ。
平田篤胤の思想をどう評価するか貶めるかは人それぞれだろうが、明治の世になって封殺されていった思想や、あるいはむしろ叶わなかった理想とする復古の怨念が鎮められることはありえないのかもしれない。
← 島崎藤村作『夜明け前』(岩波文庫版) (画像は、「『夜明け前』島崎藤村著(岩波文庫版)① - 武蔵野日和下駄」より。)
島崎藤村の『夜明け前』は、国学者であった藤村の父正樹(小説では青山半蔵)がモデルとなっていると言われるが、明治維新に、あるいは王政復古に架ける思いがやがて落胆に終り狂気へ、という悲劇が描かれている。
半蔵は、青年期より国学者「平田篤胤」の思想に傾倒する。が、現実と思想との軋轢と相克に耐え切れず、座敷牢で憤死する。
政府により強圧的に押し付けられた神道に否を唱える輩(やから)は歴史の表舞台から消えてなくなるしかなかったのだ。
本書、原武史著の『〈出雲〉という思想』(講談社学術文庫)を読んだなら、明治維新がいかに日本の思想や文化、社会にとって未曾有の激動の世だったかを改めて再認識させられるだろう。
また、危うい時期であったことも気づかされるはずである。
その危機を藤村の『夜明け前』を読めば、ほとんど同時代感覚で生きられるはずである。
面倒な方は、「松岡正剛の千夜千冊『夜明け前』島崎藤村」を読んでレクチャーしてもらうのもいいかも。
言うまでもなく、平田篤胤が主人公にとっても重要な人物として登場している。
今、天璋院篤姫を主人公に幕末から維新の歴史(というより物語)がNHKの大河ドラマで繰り広げられているが、彼女らが<陽>の世界なら、藤村の『夜明け前』の主人公は<陰>の世界を象徴しているのかもしれない。
評論家の篠田一士が彼の著『二十世紀の十大小説』の中で、日本から唯一、藤村の『夜明け前』をリストに加えているのも、やはりさすがの慧眼というべきだろう。
小生は7年前、二ヶ月を費やして『夜明け前』を読んだことがある。木曽路を二ヶ月掛けて歩くようなつもりで読んだものだった(本稿末尾の参考記事へ!)。
日本の古代史は、その解釈も含め、現に生きているのである。
本書の大よそを理解するのに、本書の「まえがき」を読むのがいいだろうと思えるので、 次回(後篇で)は、その本書の「まえがき」を全文、転記して示すことにする。
参考:
「松岡正剛の千夜千冊『夜明け前』島崎藤村」
「島崎藤村『夜明け前』を、今、読む(1-4)」
「島崎藤村『夜明け前』を、今、読む(5-7)」
「島崎藤村『夜明け前』を、今、読む(8-11)」
「島崎藤村『夜明け前』を、今、読む(12-14)」
「島崎藤村『夜明け前』を、今、読む(15-17)」
「界隈の神社(6) - rftS」
「『日本書紀』の「一書」について 黒須重彦」
「『夜明け前』島崎藤村著(岩波文庫版)① - 武蔵野日和下駄」
(08/10/29作)
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