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2008/10/02

於保多神社…富山に天満宮 ? !

 昨日の夜はアルバイト。
 富山は地域によってはだが、夕方、驟雨に見舞われ、土砂降りの雨の中の出勤となった。
 バイト先でこの突然の豪雨のことが話題になったが、同じ富山市内であっても、東部と西部、北部と南部で降り方がまるで違うことが、分かって、雨そして天候の異変が今年は際立っていることを痛感させられた。

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→ (9月)18日の夕刻、家の畑や庭の片隅から夕景を撮ってみた。

 南部と北部といっても、車で二十分も要しない程度の距離しか離れていないのだ。
 片や、雨どころかずっと晴れていましたよ、という人、朝から雨だったという人。
 小生の地域はその真ん中よりやや南部寄りで、夕方近くになって雨、そして一気の豪雨だったのである。

 その雨もあっという間に上がってくれた。車で市内を回る仕事であっても、雨はやはり面倒だし憂鬱。

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← 図書館からの帰途、於保多神社へ。途上、改装なった富山城の脇を通る。撮影はできなかったが、お堀には白鳥(しらとり)の姿も。

 さて、仕事仲間との話題で、於保多神社(おおたじんじゃ)のことが出てきた。
 富山生まれで育ちの人間なら知っているはずの神社だが、小生はこの仕事に携わるまでまるで知らなかった。
 於保多神社(おおたじんじゃ)は、どうやら学問の神様・菅原道真公に関係する神社、それも天満宮らしい。

 富山に天満宮 ? !

 子供が生まれた時(授かった時)、健康で聡明な子に育って欲しいとお参りするとか、あるいは受験の際、合格祈願でお参りするらしい。
於保多神社 - Wikipedia」によると、「菅原道真公・富山藩初代藩主前田利次・二代藩主正甫・十代藩主利保を祀る。「富山の天神様」として崇敬を受ける」とか。
 また同上サイトによると、「元は浄禅寺(現 富山市梅沢町)の境内社であった。弘長3年(1263年)、菅原道真公の尊像を奉り錦重山浄禅寺としたのに始まる。寛文5年(1665年)、浄禅寺境内に新たに天満宮を作り、北野天神を勧請した。富山藩主前田家は菅原道真の末裔を称しており、浄禅寺天満宮は前田家の祈願所とされた」とも。

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→ 以下、一つを除き、全て於保多神社の光景。

於保多神社(おおたじんじゃ) 富山県富山市於保多町」によると、「社宝の北野天神縁起絵巻(於保多本)は国指定重要文化財」だとか。
 
 車中での於保多神社(おおたじんじゃ)を巡っての話題で、小生は初めてその神社が菅原道真公と関係するらしいと知ったのだが、そんな無知な小生でも、富山が古来より天神様信仰の盛んな地域であることは知っている。
 といっても、数年前、大伴家持や梅の花の話題から菅原道真公へ、そして調べてみたら、富山が天神様信仰の盛んな地域と、その時になってやっと次第なのである。
 当然のように、関連の記事も書いている
 やはり、18歳で富山を出てしまったから、富山のことに疎いままに今日に到ってしまったということか。

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 せっかくなので数年前に書いた「天神様信仰と梅の花」なる記事を公表当時のままの形でブログにアップさせる。

 旧稿をアップさせるには実はちょっと訳がある。
 富山が天神様信仰の盛んな地域ってのは、数年前の勉強で辛うじて知っていたが、では、何ゆえこの富山で天神様信仰が盛んなのか、一体、富山の誰がどんな理由で信仰を広めたのか、という肝心の点を小生が忘れてしまっていて、親鸞? 大伴家持? 前田の殿様? といろいろ候補が上がるばかりで埒が明かなかったのである。

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→ 絵馬堂。

 物覚えの悪さには我ながら辟易している…今更だが!
(ついでにもっと恥を晒しておくと、この原稿を書いていて、過去の関連の記事を物色していたら、再掲した記事は既にブログにアップしていたことが判明。ってことは、再掲じゃなく、再々掲ってことになる! 小生、まるで覚えていなかった:「天神とウルフつなぐは弥一のみ」)

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← 本堂。

天神様信仰と梅の花

 小生の郷里、富山は、天神様信仰が古来より盛んでした。
 信仰と書くと大袈裟ですが、でも、旧家などでは座敷に天神様の掛け軸が、正月などには掛けられることが結構、今でも見られます。
 実際、小生の家でもそうです。尤も、子供の頃は何故、こんな掛け軸が仰々しく鎮座しているのか、分からないままにボンヤリ眺めているだけでした。
 恐らくは、幾度となく父からその天神様の掛け軸の由来などを説明されたと思うのですが、生来のボンクラ者で、左の耳から右の耳へ通り抜けるばかりだったようです。
 その天神様のことについて、改めて関心を持ったのは、今年、大河ドラマで放映されることが決まった「利家とまつ」の御蔭です。

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→ 酒井美意子著『加賀百万石物語』(角川文庫)

 小生の家は、富山といっても富山市なのですが、県の西部である高岡市は加賀の領地でした。まさに加賀百万石の文化や歴史の香りを高岡市近辺までは、たっぷりと享受してきたのです。
 その加賀つまり、前田家は、菅原道真の末裔と自称しています。江戸時代の初期に、徳川家から、徳川家同様源氏の末裔を称するか、あるいは平家の末裔を称するかを迫られた時、前田家は、深謀遠慮だったのでしょうが、菅家の裔を選択したのです。その前は源氏を名乗ったことも平氏を名乗ったこともあったのですが。
 これは、源氏にしても平氏にしても武家の棟梁なのですが、菅原の裔を自称するということは、我が前田家は武よりも文を重視するという宣言のようなものだったのでしょう。つまり、決して徳川家には背かないという意思表示だったわけですね。

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 そうはいっても、前田家はその文化重視の政策を採りながらも、いざ鎌倉の精神は決して忘れなかったようです。
 例えば、高岡の銅器にしても、戦のための武器を作る技術の研磨を何処か意図していたようですし、城などの材料に鉛を使用し、いざ、戦争となったら、鉛を鋳直して玉にすることができるようにという心構えがあったといいます。
 ところで、前田家が菅原道真の後裔を系図上、選んだのは、別の理由がありました。
 それは、前田家の祖先が、菅原道真の子孫が移り住んだという伝説の残る荒子に居住したという、これまた伝説があったことです。
 だから、菅家の後裔を自称したとしても、一応は、もっともらしくはあるわけです。
 そういうわけで、富山、特に県の西部を中心に、天神信仰が、前田家の支配と重なるようにして、広まったわけですね。
 さて、小生の生まれた富山市は、加賀藩の支藩であり、実際には、徹底して年貢などを絞られ、貧窮を極めたと聞きます。当然、文化的土壌など育つ余裕などないわけです。当然の如くして、富山市(富山の東部)は、実利一辺倒になりがちなのでした。

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 この点からすると、富山の東部の人間は、加賀の地の経済や文化の繁栄を遠いものとしてみてきたわけですし、小生も、素直には前田家を(県の西部の人間ほどには)眩しくは見ることが出来ないのです。
 これは、万葉集の編者である大伴家持が、都から遠ざけられた時、数多くの歌を詠ったのが、これまた県の西部である高岡の地であることとも、重なって、一層、富山の東部の人間は西部を妬ましいような羨望の念で見ざるを得ないことに繋がってるのです。
 それでも、富山の東部のわれわれも天神様信仰に染まっているというのは、それだけ、文化に飢えていて、藁をも掴む思いで、富山市だって大きく見たら加賀の領地だったのだ(これは間違いではないのだが)、文化の遠い影響くらいはあるのだと思いたい気持ちの現れのように、小生は感じます。
 富山市など東部の人間は、文化に関しては鬱屈しているのですね。

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 小生の生まれた時、学問の神様である天神様にあやかるべく、大枚をはたいて天神様の掛け軸を、専門の業者に依頼して作ってもらっていたわけです。その霊験あらたかだったかどうかは聞かないで戴くとして、このところチラホラと咲き綻びかけてきた白や桃色の梅の花を見かけると、東京に在する小生は、郷里を、そして郷土の者の屈折した心情を思い出したりするのです。
 今も郷里からはお袋の手作りである梅の漬物を送ってくれます。その梅は我が家の庭で取れたものと聞いています。だからでしょうか、酸っぱい梅を御飯と共に食べる時、一層、心に酸っぱさが沁みるのです。

 [前田氏と菅原道真については以下のサイトを参照:
武家家伝_前田(利家)氏
 前田家については、酒井美意子著『加賀百万石物語』(角川文庫)を参照。
 拙稿に、「酒井美恵子著『加賀百万石物語』を富山の人間が読む」がある。]

                                  (02/01/26 記)

参考:
都良香の涙川
東風吹かば
天神とウルフつなぐは弥一のみ

                       (再掲文以外は、「08/09/21」作成)

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コメント

東部では年貢の搾取がきつくて、当時は文化への憧憬など遠いことだったのですね。生活の少しでも余裕が無ければ文化は育ちにくいですものね。天神様信仰が発達したのも、このためだったんですね。神様に祈るということはお金などなくても気持ちさえあればよい訳ですからね。生活が厳しかった地ほど、信仰が発達したんじゃないでしょうか。
やいっちさんは明らかに霊験あらたかな存在だと思います。創作が証明しているとみました。

投稿: ピッピ | 2008/10/03 01:15

ピッピさん

(富山市より東部の)富山は、前田家(本家)に年貢などを絞られたので、経済的に貧しく、その上、河川の氾濫もしばしばだったこともあり、文化の方面は高岡など西部には劣っていたようです。
その代わり、貧しさと厳しい風土を生き抜くため、女性もですが(女性は全県的に働き者)、男性も出稼ぎを含め、とにかく真面目に働く気質が養われたようです。
保守的で貯蓄率が高く(我輩はマイナスだけど)、一戸建てが当たり前だったりする。
逆に経済的な自立が出来なくなると、世間の風当たりがきつく、自殺率も相当に高い!

こうした風土や背景があって、富山からは産業界・実業界に逸材が輩出したようです:
正力松太郎、松村謙三、瀬島龍三、角川春樹、安田善次郎(安田財閥)、青井忠治(丸井(OIOI)創業者)、大谷米太郎(ホテルニューオータニ創業者)、小林與三次(日本テレビ元社長、読売新聞元会長)などなど。

信仰については、保守的な精神性とも関係しているようです(富山は小さな県で、それなりに豊かでもあるので、お山の大将的になりやすい)。
一旦、これだと思うものがあったら、ずっと守る気質で、経済面はともかく文化や政治・宗教・慣習などでは頑なだったりするようです。

>やいっちさんは明らかに霊験あらたかな存在だと思います。創作が証明しているとみました。

もしかして、創作の館である「方丈庵」を覗いてくれたのでしょうか?
創作熱…富山に帰ってからは、涸れ切っています。針のムシロに座っているようで、神経が磨り減っている。
なんとかしないと!

投稿: やいっち | 2008/10/03 02:32

実はやいっちさんの創作の文体が、なんとなく心にしっくりとくるなぁって。私には、やいっちさんのような読書家、学者のような方の文章を読ませて頂いて、いいとかなんとか言う資格はないですが、年とってから自分に合った文体しか読めなくなってしまいました。

投稿: ピッピ | 2008/10/03 14:19

県外の方に誤解のないように申し添えておくと富山県東部(富山市以東)すべてが加賀前田家の支藩・富山前田藩の藩図(領土)ったわけではなく、江戸期の郡名で婦負郡全域と新川郡の西北部(明治期の郡名でいうと婦負郡全域と新川3郡のうちの上新川郡の北部)だけでした。鉱山や森林資源をもつ下新川郡は加賀藩が押さえていました。蝶の形をした富山県の真ん中の胴体の部分だけが富山藩で、両脇の羽根にあたる部分は、加賀藩だったわけです。(ちなみに弥一さんところは、旧・上新川郡豊田村、私の生地は旧・上新川郡大広田村)
*こんなおもしろいページをご存知ですか。
http://mujina.sakura.ne.jp/history/16/index2.html

ところで、他県に比べて富山県に天満系の神社が多いかどうか正確な資料が手元にないのですが、特別多くもなく少なくもないのではないでしょうか。
富山藩内ではご紹介の荘園太田保の名を残す於保多神社や八尾の天満宮(独特の節回しで知られる天満町おわらはここの氏子の唄技地)が、県西部ではその名もそのままの北野八幡宮(南砺市城端)、新湊の八幡宮も崇拝を集めた宮でしたし、なぜか水橋地区には天満宮がたくさんありますね。

投稿: かぐら川 | 2008/10/04 01:27

ピッピさん

読んでもらえることは嬉しい限りです。
「創作の文体が、なんとなく心にしっくりとくるなぁって」なんて言われると恐縮しちゃいます。

長く書いてくると、自分の流儀でしか書けないってことが分かってますので、淡々とあれこれ書いていきます。
気が向いたときに好きなように読んでもらえたら…。

それこそ、掲げた画像へのコメントだけでも嬉しいものです。

投稿: やいっち | 2008/10/04 01:57

かぐら川さん

ありがたいコメントです。
小生、以前、『富山県の歴史 (県史) 』(深井 甚三 (著), 久保 尚文 (著), 本郷 真紹 (著), 市川 文彦 (著) 山川出版社)を読んだのですが、我が県のことながら、その歴史の錯綜ぶりに驚いたものです。

指摘されているように、「富山県東部(富山市以東)すべてが加賀前田家の支藩・富山前田藩の藩図(領土)ったわけではなく」以下は、誤解のないように触れておくべき点なのですが、書ききれませんでした。

天満宮系の神社については、文中にリンクを張っておきましたが、下記が参考になりました:
「キルシェ・ブリューテ - 学問の神様マップ」
http://www.blute.jp/design/aura/gakumon.htm

天神様信仰の濃淡は各県(各地域)によってどうなのか、調べ切れていません。

いずれにしても、本稿は、富山に天満宮があること自体が初耳だったので(この無知ぶり!)、メモしたくて書き下ろしたものです。

皆さん、詳しくは、「かぐら川」さんのコメントやサイトを参考願います:
http://kaguragawa2.cocolog-nifty.com/blog/

投稿: やいっち | 2008/10/04 02:15

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