「砂時計の情感」(『砂時計の書』より)
以前、「ユンガー「砂時計の書」をめぐって」という記事を書いたことがある。
エルンスト・ユンガー著の『砂時計の書』(講談社学術文庫)をネタ元にしての雑文である。
→ 『書斎のヒエロニムス』(1514 Engraving, 259 x 201 mm Staatliche Kunsthalle, Karlsruhe)(画像は、「デューラー (北方ルネサンス)」より。)
砂時計を巡っての瞑想は尽きないのだが、そもそも「砂時計の書」の周辺をモノローグ風に書こうと思ったのは、本書の特に冒頭の一文に魅せられたからだった。
図書館の書棚から抜き出した本書の、何処かしら「バシュラール…物質的想像力の魔」を連想させなくもない冒頭の一文を読んで、改めて読んでみようと思ったのでもある。
[ちなみに、本稿の筆写をしたのは、10月5日なのだが、6日、図書館に寄ってみたら、9月(先月!)に刊行されたばかりのガストン・バシュラール著『水と夢 物質的想像力試論』(及川馥訳 叢書 ウニベルシタス 法政大学出版局)が新刊コーナーに鎮座していて、小生、慌てて手にしたのだった。確か、学生時代の終わりかフリーター時代に一読したことがあるはずだが、「約40年ぶりの新訳でよみがえ」ったのである。 (10/07 記)]
本稿では、本書冒頭のその一部だけだが筆写(メモ)してみるので、(夜鍋して転記を試みたことだし)関心のある方には読んでもらいたいと思う。
「砂時計の情感」
砂時計――。読者もご存知のように、ある対象が、わたしたちが毎日それを使っているとかゆっくり眺めたことさえないとかいうこととはおよそ無関係に、あるときある情感を湛えてわたしたちの心に沁みとおってくることがある。あらゆる愛着、あらゆる蒐集熱の端緒である。わたしたちはその対象に深入りしはじめ、しだいにのめりこんでゆく。するとその対象は秘密のいくつかをあかしはじめる。そしてわたしたちは、辛抱強くさえしていれば、次々に秘密がたち現れてくるのを知るだろう。どんなに小さな草花も、まさに無限のなかに多くの根をおろしているのであって、わたしたちの愛着こそがその根を発見してゆくのである。見かけの貧相は擬装にすぎない。
わたしにとって砂時計がそうだった。最初にそれをくれたのはクラウス・ヴァレンティナーだったが、残念なことに、かれはほかの多くの友人たちと同様にロシア戦線で消息をたった。わたしはその砂時計を、人々が書棚や書物のあいだに置いて眺めるのを好む類の一種の骨董品とみなしていた。そしてずっとのちになって、深夜に仕事をしている最中に、この虫籠のような鉄枠に閉じこめられた砂時計から、ある独特の沈静作用が、ある静謐な生が放射しているのにはじめて気づいたのだった。それは、古さが帯びさせたオパール色の艶、発掘されたガラス器などに見かけるあの細微なヴェールのせいだったろうか。白い砂が音もなく漏れ落ちていた。上部の砂が漏斗状にくぼんでゆき、下部に円錐状に堆積してゆく。失われてゆく一瞬一瞬が積もらせるこの砂の山を見ていると、時間はなるほど過ぎ去るけれどもけっして消え去るのではない、ということの証のように思われ、わたしは慰めをおぼえた。時間は、どこか深部にゆたかにたくわえられてゆくのだ。
砂時計がこのように学問的研究の静謐や家居の安らぎなどと親密な関係にあることは、これまでからしばしば注目されてきた。そうした関係のまぎれもない証拠として、ここに二枚の有名な銅版画がある。デューラーの『メランコリア』と『書斎の聖ヒエロニムス』とである。前者には、結晶や秤(はかり)や数字盤などのファウスト的器具にとりかこまれ、手にコンパスをもって沈思する天使が描かれている。宇宙を背景に錬金術の火が燃えている。後者には、書斎で書きものをする聖者が描かれ、書物、燭台、容器、書きこまれた紙片、髑髏、キリストの十字架像など配されている。長椅子のしたに一足の庭履きがあり、鉛でこまかく縁どられたガラス窓から陽光がさしこんでいる。
どちらの画にも大きな正真正銘の砂時計が描かれていて、わたしたちの目を惹いている。どちらの砂時計も、砂はなかば落ちている。それはおそらくデューラーが、仕事や沈思のまっただなかにある聖者や天使を描こうとしたことを意味しているのだろう。これに対応して『メランコリア』の秤は平衡をたもち、鐘は揺れ、火も燃えている。わたしたちは時間のなか深くにいるのである。
← Albrecht Dürer 『Knight, Death and the Devil.』(1513. Engraving.) (画像は、「Albrecht Dürer - Olga's Gallery」より) 拙稿「デューラーの憂鬱なる祝祭空間」参照のこと。
この二枚の銅版画には、一五一四という年数が書きこまれている。ふたつの砂時計はそれぞれ異なるモデルによって描かれていて、十六世紀の初頭には数多くの砂時計が用いられていたことを推測させる。天使は、知性の道具にかこまれながら、たわいもない思案にふけっているかのようである。ひょっとすると自分の知識と所業とのむなしさについて沈思しているのかもしれない。一方、ヒエロニムスは仕事に没頭している。机に本が広げられていないから筆写しているのではなく、創造し書きおろしているのだろう。暖かな羽目板にかこまれた部屋、一隅では砂時計のなかを砂が漏れ落ち、机のまえには今日ならさしずめ猫というところだろうが一頭の獅子が夢を見ている。この静寂にあずかりたいと思わない人があるだろうか。事実、現在でもヨーロッパでは知的生活を営む多くの人々がこのように住み、このように仕事しているのであって、デューラーのこの画をまえにして、学問か芸術にたずさわる友人のことをただちに思い出し、そしてその友人の多かれ少なかれ慎ましやかな住居を思い浮かべないような人は一人としていないだろう。思い出させること、それはまさに芸術作品の本質に属することである。芸術作品は、隠れてはいるがくりかえしたち帰ってくるある態様を開示するものなのだから。
このようにして、どんな書斎にもどんな図書室にも多少とも砂時計の情感が、多少とも『メランコリア』や『聖ヒエロニムス』の雰囲気がある。そこにはつねに悲哀がある。しかしまたそこにはつねに沈思があるから、つねに安らぎがある。だれしも、そういう場所で沈黙しつつあるいは人と話しながら、数時間をすごした経験があるだろう。そのとき時間が、停止したとは思われないまでも、いつもよりゆっくりと流れるように思われたにちがいない。ひょっとすると外には雨が降っていたかもしれない。あるいは暖炉には火が燃えていたかもしれない。
わたしはたくさんのそういう場所をおぼえている。それらの名をいちいちあげたい気持を抑えているのは、ただきりがなくなりそうだからにすぎない。青春時代には、ちょうど多少とも風変わりな友人が住むいくつかの拠点を渡り歩くのと同様に、こうした小房、僧房、精神的望楼を渡り歩く歳月というものがある。今日の大都会や小都会も、あるいは村落さえも、そのような場所にこと欠いてはいない。庭から蝉の声が聞こえてくる南国の部屋であれ、雪に蔽われた破風の見える北国の部屋であれ、下宿の部屋であれ、両親の家の部屋であれ、いたるところに『聖ヒエロニムス』の雰囲気はある。若者たちは、そのとき豪奢によりもはるかにしばしば貧困に出会うだろう。きびしい窮乏にすら出会うことだろう。しかしほとんどすべての俗世の金持たちや権力者たちも、勉学と余暇とが薄明のうちに溶けあっているこうした思案の部屋部屋で、数年を、たいていはかれらの生涯のもっとも素晴らしい数年をすごした経験をもっているのである。
この気分を青春時代ののちまでもちこすことはむつかしい。とりわけ出世が見こまれるときには困難である。しかし不可能ではない。老若の相違が問題であるわけでも、貧富の相違がこの風土をつくるわけでもないからである。デューラーが描いているヒエロニムスは高齢であるばかりではなく、足もとの獅子が暗示しているように、実力者でもあり、さらには高位聖職者でもある。すなわちこの独自な静穏は、社会階級や年齢階層などの境遇の相違にもとづくのではないのだ。むしろそこに働いているのは時間の相違であって、わたしが本書で述べようとしているのもこの時間の相違にほかならない。
→ アルブレヒト・デューラー『Melencolia I』(メランコリア) (画像は、「Albrecht Dürer – Wikipedia」より) 拙稿「デューラー『メランコリア I』の周辺」を参照のこと(『メランコリア I』という題名の「 I 」の意味、知ってますよね?)。
わたしたちの思考は、自明のことをたいてい一番あとになって狩り出すものらしい。それは、わたしたちの足もとにうまく身をひそめていた兎に似ており、それだけいっそうわたしたちを驚かす。わたしは、砂時計がこのうえなく静穏な気分を喚び起こすことにようやく気づいたのだった。そしてこれまでは仕事をしているあいだ、むしろ砂時計を漠然と邪魔な存在だと感じていたことにも思いいたった。そしてそれをきっかけとして、寝室にも書斎にも時計をおくことを嫌ってきたことにもはじめて気がついた。この嫌悪は、少なくとも、私室といえるような部屋部屋、かならすじもいつももてるとはかぎらないような、戦時に軍人だったときにはまずもてなかったような部屋部屋のすべてについていえることだった。電話やラジオについても同じ嫌悪をいうことができた。そしてそれはいまもいえる。電話やラジオも時計的性格をもつのだが、それについてはあとで触れる。だがわたしの嫌悪は、。わたしの弟(フリードリッヒ・ゲオルク・ユンガー。作家、批評家。一八九八-一九七七)ほどではない。弟は一度も時計をもったことがない、とわたしは信じている。それはわたしには真似のできない贅沢である。
(以下略)
参考:
「デューラー (北方ルネサンス)」
「デューラー『メランコリア I』の周辺」
「デューラーの憂鬱なる祝祭空間」
(08/10/05 作)
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コメント
これは1954年の作品のようですが、ユンガーの場合上のような文章を読むと、戦後の閉じこもりのようなものを想起させます。
研究が大変遅れている事情は色々とあるようですが、第一次世界大戦後の最も重要な作品群が後に作者によって改ざんされているのを一つ一つ批判的に扱っていかないと本格的な評価にならないとするのがドイツでの事情のようです。
つまり、翻訳作業での注約はオリジナルでの批判的版が完成しないかぎり片手落ちとなるとするのが一般的見解のようです。
投稿: pfaelzerwein | 2008/10/19 15:50
pfaelzerwein さん
エルンスト・ユンガーは一筋縄ではいかない書き手(作家? 思想家?)ですね。
戦争讃美の装いの戦争嫌悪なのか、その辺り、テキスト批判をしつつ読まないといけないのでしょうが、小生には手に余ります。
まあ、実体験(?)部分の叙述を読んでみないと分からない。
小生は、あくまでこの訳書を読む限りでの印象ですが、閉じ篭りというより、ナチズムやニヒリズム、反ナチなどの波を乗り越えたあとの静謐のようなものを感じます。
閉じているようでいて、案外と破れ目も透けて見えるようにも思えるのですが。
時計という異物への嫌悪。苛立ち。喧騒から離れたはずの書斎にあってさえ、完璧な静穏など望みえるはずもない。
そんな中で砂時計の砂の落ちるのを見入るのには、意志が、相当にきつい意志が必要に思えます。
投稿: やいっち | 2008/10/20 02:02