ユンガー「砂時計の書」をめぐって
エルンスト・ユンガー著の『砂時計の書』(講談社学術文庫)を読んでいる最中である。
↑ 10月6日のこと、富山城近くの某公園内に花時計を発見。何度もこの公園の中を自転車で通っていたのに、初めて気がついた。早速、携帯電話を取り出し、パチリ!
同書の詳細によると:
暖かな書斎の一隅で、白い砂粒が音もなく滑り落ちていく。
この静謐を、知的観想の時を、わたくしたちはいつくしむ。
砂時計は地球的時間の象徴である。
夜明けとともに起き、一頭の獲物を得るまで狩りをした“アド・ホックな”行動様式の忘れ形見である。
自ら作り出した歯車時計に支配される近代文明の逆説を、ドイツの文豪ユンガーは勁く静かに批判する。
古今の文献を駆使して語る、ユニークな宇宙論。
結構、力の入った内容紹介ではなかろうか。
東京在住から郷里に舞い戻って(…出戻りして)、土と戯れるような日々を送っている。
都落ちした人が山間(やまあい)の地に身を埋めつつ、俗塵にまみれ、自らは高雅なる品格を保って、中央の政治や文化を鋭く批判する高潔の士…といったようなものでは到底なく、まあ、身の丈にあった生活を送っているわけである。
土を喰らう日々…。
水上勉の、小生にはちょっと大袈裟な文言を使わせてもらったが、実際、畑からナスやキュウリ、ネギなどが採れるので(少なくとも今までは)、ナスやキュウリの漬物を作るのが楽しみだったりする。
春に父が苗を植えたときは、正直、どれほど育つものか半信半疑なところがあったが、梅雨の時期から夏場に掛けて、驚くほどに収穫できて、嬉しい悲鳴を上げそうになったものである。
我が家では食べきれず、近所や知り合いに大半を分け食べてもらった。
…というと、大した量の苗を植えたようだが、実際は、小生の両手の指でも余るほどの苗を植えたに過ぎないのである(ちなみに、小生の場合、両手の指は合わせて十本である!)。
東京在住の時も、高輪から大田区の工場町地域に引っ越した際、自分が窓際族だったこともあり、仲間もなく、ベランダや部屋の中にプランターの観葉植物を置いて愛でて居たことがある。
でも、日々、畑から収穫を採るようになってみると、観葉植物どころではない植物の凄みを感じる。
その凄みは雑草で嫌というほど味あわされたのだが、その代わり、野菜の実という収穫でささやかなりともしんどさを癒されたわけである。
土というと、砂と連想するわけではないが、土とほんの少し戯れてみると…いや、土や自然に玩ばれてみると、自然の中に流れる時間を感じる。
…この表現が適切ではないかもしれない。
← 田口善弘/著『砂時計の七不思議 粉粒体の動力学』(中公新書 1268) [要旨]によると、「物質主義から現象主義へと物理が大きく変容する今、日常生活のなかから広がる物理の新しい可能性にチャレンジ」だって。小生は未読。読みたいな!
とにかく歳月の移ろいの中に自分があることをそれとなく、しかし時に厳然と思い知らされるのだ。
ちょっとでも畑の見回りや収穫を怠ると、ついこの前、毟ったばかりのはずの雑草は勢いよく生えていたり、ナスやキュウリがお化けかと思うほどでっかく成っていたり、あるいは水が足りなくて萎れていたり、カラスや虫に食われたり突っつかれたりしてガッカリしたり、そんな日々に終われていたら、気がつくと夏が終わって、キュウリは一切、実りを与えてくれなくなり、ナスも勢いを失い、秋の収穫のための野菜を植えなければならないのだと気づかされる。
が、畑(や庭)仕事初年度の小生は、とうとう秋の野菜の苗や種を蒔いたり植えたりするのが手遅れとなってしまった。
辛うじて、白菜だけ植えたが、さて元気に育ってくれるものやら。
図書館でエルンスト・ユンガー著の『砂時計の書』を見たとき、なぜか懐かしいと感じた。
それは十年ほど前(もしかして学生時代にも?)だったかに読んだことがあるから、ということより、「砂時計の書」という文言そのものに自分が馴染むような感覚を覚えている…といったほうがいいのかもしれない。
砂、時計、書。
「砂時計 - Wikipedia」によると、「砂時計(すなどけい)は、時計の一種で、ガラスなどの管に入れた砂の落下で時間を計るもの」で、「砂時計の天地を逆にすると砂が落ち始めて作動を開始する。すべての砂が落ちきった時点で作動が停止する。砂が落ちきったあと、すぐに再び上下をひっくり返すことで連続して計時できる」とか。
まあ、詳細は同上のサイトに任せる。
(もっと知りたいなら、「砂時計の疑問-質問」がいい。)
時計には水時計や日時計、火時計、そして機械式時計などいろいろある(腹時計も?)。
直感的にも日時計が一番古くからあったものと推測できる(ストーンサークルなど)。
別に時計代わりにしているわけではないが、畑や庭仕事していると、日の位置、あるいは日に当たる時間や影となる時間帯に敏感になったりする。
それは自分の体のためであり、植物のためでもある。
夏の真っ盛りに容赦ない日光の照射に負けず生え育つ植物にはひたすら感動する。
ああ、日こそが恵みだったのだと気づかされる。
だからといって、日から恵みを直接に我々が摂取できるはずもない。せいぜい日光浴くらいのものか。
何処まで行っても間接的な享受を感謝しえるのみである。
が、太古にあっては、あるいは太古にあってさえも、日の恵みをほぼそのままに受け取ることができることを知っていった。
それが日時計で、その名残りを我々は、時計まわりというと、右まわりだということで記憶に止めているわけである。
そんな自然と時間との相関を砂時計も違う形で示しているのか。
かもしれない。
太陽の作り為す影の移ろいという日時計と、砂が落ちていくその落ちきった時点で時間を計る砂時計とは根底からして違う。
砂時計はタイマー的な働きしかできないということもあるが、「砂」を選別し磨きたてることから始めないといけない。
採取された砂を何度も洗い、不純物を取り除き、乾燥させ、網などに通過させて粒の大きさの一定のものを集め…と、気の遠くなる作業が要る。
器も透明なガラス素材で造形しないといけないし、中を必要十分な程度に乾燥させないといけない。
砂時計は案外に既に人知と人工の一定のレベルでの極地でもある!
→ グラシェラ・スサーナ『アドロ・サバの女王』(EMIミュージック・ジャパン) (画像は、「Amazon.co.jp: 通販サイト」より。) 小生、「砂時計」という言葉を見聞きすると、即座に連想するのはグラシェラ・スサーナの「サバの女王」である。今時の人には、「サバの女王」(作曲:M.Laurent)といっても、鯖(さば)の女王 ? ! という程度かもしれないが:
あなたゆえ 狂おしく 乱れた私の心よ惑わされ 背かれて 戸惑う愛の幻
私は貴方の愛の奴隷 生命も真心もあげたいの
貴方がいないと生きる力も 失われて行く砂時計
余談だが、砂時計の一番の特徴は、今の時間が分からないことである。
これは欠点だろうか。
ただ、砂時計の砂を誰かと共に眺めているならば、二人は同じ空間と時間とを生きているとは言える。
今の刻限が分かった時点で<現実>に引き戻されてしまうわけである。
一方、砂が落ちきってしまうと、やはり、<現実>に引き戻される。
暇の徒然、あるいは所有する砂時計の造形や外貌に魅せられて流砂を眺めているのでない限り、砂が落ちきった時点で次の動作に移らなければならない。
そもそもタイマーとして使ったということは、その人が時間に追われているという何よりの証左なのである。
つまり、砂時計は生活と瞑想の両極が独特な形で融合している物象ということなのかもしれない。
さらに、流れ落ちる砂粒を眺めているだけで瞑想の世界へ誘(いざな)われる。
この辺りは、今は、「砂時計の話し」(← 面白い!)などに委ねる。
今の小生は、エルンスト・ユンガー著の『砂時計の書』を読み続けるだけである。
なぜなら、小生のような凡人は、自分でモノを考えるより、読書を通じ、人の頭で暫時、考える雰囲気を楽しむのが相応しいのだ。
そう、エルンスト・ユンガーも言うように、「私を見つめすぎる人は、己の時を失う」のだから。
← 「閉じ込められる」 (画像は、「越境希望! ~Atelier Borederline・フルスクリーン壁紙 Page 1~」より。)
エルンスト・ユンガーについての話題:
「Wein, Weib und Gesang自殺」
参考:
「一年計の砂時計」
(「砂時計の話し」や「砂時計の疑問-質問」など。)
「砂時計」(「時間・時刻の教材についての研究」中にある。)
「日時計の銘について」
「砂時計の書 - 珈琲1杯分の読書」
「Ernst Jünger/エルンスト・ユンガー」
「砂時計の七不思議 ~CD-ROMバージョン~」
「林成守のページ グラシェラ・スサーナ」(この頁で、「サバの女王」を聴くことができる! 小生が二十歳頃に口ずさむ歌の定番だったなー。)
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コメント
ユンガー文学が出てくるのかと思って、最後まで騙されてしまいました。フランスではこの作家が最高の文学殿堂に入ってしまったので、ドイツでは話題となっています。
投稿: pfaelzerwein | 2008/10/05 18:57
pfaelzerweinさん
最新の情報に疎い小生です。
日本ではユンガーはあまり大きく扱われていないですね:
http://pfalz.exblog.jp/tags/%E8%87%AA%E6%AE%BA/
ユンガーについては、リンクを貼っておきましたが、下記で知ってもらうに止めておきました:
「プロフィール エルンスト・ユンガー 序 20世紀の終焉としてのエルンスト・ユンガーの死」
http://www.geocities.co.jp/Berkeley/9565/gairyaku.html
投稿: やいっち | 2008/10/05 20:07