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2008/10/12

ル・クレジオ…物質的恍惚!

 日本では物理学賞や化学賞の受賞の陰に掻き消されてなのか、どれほどの話題になったのか分からないが、下記のニュースに個人的にある種のショックを覚えていた。

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→ ル・クレジオ著『アフリカのひと 父の肖像』(訳:菅野 昭正 集英社

ノーベル賞:文学はル・クレジオ氏 仏の作家、人間性の裏側探究」(「毎日jp - 毎日新聞のニュース・情報サイト」より。←トップ頁を覗いたら、「米国務省は11日午前、北朝鮮のテロ支援国家指定解除を発表した」というニュースが! やっぱりね。日本や拉致問題(家族)は置き去りか。):

【ロンドン町田幸彦】スウェーデン・アカデミーは9日、08年のノーベル文学賞をフランスの作家、ル・クレジオ氏(68)=本名・ジャン・マリ・ギュスターブ・ル・クレジオ=に授与すると発表した。同アカデミーは授賞理由として「新しい出発と詩的冒険、官能的悦楽の書き手であり、支配文明を超えた人間性とその裏側を探究した」と述べた。(以下、略)

菅野昭正・東大名誉教授(フランス文学)の話」だと、「ノーベル賞では10年以上前から名前があがっていた。人間の魂を損なう現代文明への批判から出発し、原始文明の豊かさを描くようになった。最近は先祖が生きた旧植民地の歴史に関心を広げている。文明批判的な姿勢は文化人類学や、最近のポストコロニアル理論の研究者などからも共感を呼んでいる」とか。

 ル・クレジオについては、読み親しんでいる人には今更だろうが、「ジャン=マリ・ギュスターヴ・ル・クレジオ - Wikipedia」によると、「ジャン=マリ・ギュスターヴ・ル・クレジオ(Jean-Marie Gustave Le Clézio、1940年4月13日 - )はフランス出身の小説家。1963年『調書』でデビュー」で、「フランスのニースにイギリス籍の父とフランス籍の母との間に生まれる。18世紀にブルターニュからインド洋モーリシャス島に移った移民の家系であり、父母はいとこ同士。父は医師であり、ジャン=マリが8歳の時、イギリス軍に外科医として従軍した父に従い家族でナイジェリアに移住。ナイジェリアでは英語、フランス語の環境で育ち、この間に集中的に読書をし文学に目覚めた。作家デビュー前は英語で書くかフランス語で書くか迷ったすえ後者を選んだと言う」という方。

 この言葉の上でのルーツの複雑さは大概の日本人には想像も付かないものがあろう。

 小生がル・クレジオの本を初めて読んだのは、高校三年の終り…、多分、大学受験も終わった頃だったはず。
 読んだのは『物質的恍惚』で、当時、著者は30歳を超えたばかりで、本に付してある写真の顔(来日した際の雑誌か何かで見た写真だった?)も若い。

 どんな感想を持ったか、そもそも彼の世界に馴染めたか、やや覚束なくて、むしろ、本の題名の「物質的恍惚」に恍惚となった記憶がある。
 この「物質的恍惚」という文言は小生の(滾り始めていた文学・哲学熱の)中にずっと残り続けた。

 この言葉を使った…少なくともこの言葉のイメージに頼った創作やエッセイは幾つもあるのではないか。

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← ル・クレジオ著『海を見たことがなかった少年  モンドほか子供たちの物語』(訳:豊崎 光一/佐藤 領時 集英社

 言葉の放つイメージ。
 そう、ル・クレジオの本を読んだのは二冊か三冊か。『物質的恍惚』は二度ほど。
 あくまでこの「物質的恍惚」に勝手な思い入れをしていただけなのだった。
 著者の本の、優れた読み手なら汲み取るだろう中味など、何処吹く風で、ただただ我が侭な空想を膨らませるだけだったのである。

 拙稿にバタイユ著『宗教の理論』」がある。
 題名通り、バタイユ著の『宗教の理論』を読んでの感想文に過ぎないのだが(「蕩尽こそ至高の快楽」!)、その末尾に下記のように書いている:

 高校時代の終わりだったか、J・M・G・ル・クレジオの『物質的恍惚』を読んだことがあった。小生には何が書いてあるか、さっぱり分からなかった。
 もしかしたら、このタイトルに魅了されていただけなのかもしれない。どんな詩よりも小生を詩的に啓発し瞑想を誘発してくれた。
 その本の中に、「すべてはリズムである。美を理解すること、それは自分固有のリズムを自然のリズムと一致させるのに成功することである」という一節がある。小生は、断固、誤読したものだ。美とは死であり、自分固有のリズムを自然のリズムに一致させるには、そも、死しかありえないではないか、と。
 不毛と無意味との塊。それが我が人生なのだとしたら、消尽と蕩尽以外にこの世に何があるだろうか。
 そんなささやかな空想に一時期でも耽らせてくれたバタイユに感謝なのである。

 バタイユもル・クレジオも、思いっ切り誤読している!


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→ ル・クレジオ著『愛する大地 ~ テラ・アマータ(Terra Amata) 』(豊崎 光一訳 新潮社

 著書の題名のイメージに安直に引きずられる小生の習性(?)は、例えば、ル・クレジオの著『愛する大地 ~ テラ・アマータ(Terra Amata) 』(豊崎 光一訳 新潮社)を、『物質的恍惚』を読んで何年も経たないうちに読んだのだが、やはり、この「テラ・アマータ」(訳すと「愛する大地」)という題名というより言葉そのもののイメージが脳裏に刻まれたままに、ずっと後年になって(三十年近くも経て)、昨年、「テラ・アマータ」と題したエッセイを書いたことでも現れている。
 これは、ほぼ30年過ごした東京を離れ郷里の富山に帰るに際し、胸に過ぎる思いを綴った雑文である。
 どんな題名でも良かったのだが、ついこの言葉を使ってしまったのである。
 いざとなると使って…依存してしまう言葉。

物質的恍惚」という(あくまで)言葉へのこだわりぶりは、「物質的恍惚」をキーワードにググッてみたら、恥ずかしながら小生のサイトが二番目に浮上することでも分かる:
物質的恍惚/物質の復権は叶わないとしても

 前後の脈絡を抜きに、一部だけ転記しておく:

(前略)心とは物質だと思っている。物質とは究極の心なのだと思っている。物質がエネルギーの塊であるように、物質は心の凝縮された結晶なのだと思っているのである。
 結局のところ、あるのは、この世界なのであり、それ以外の世界はないのだという、確信なのだ。あるのは、この腕、この顔、この髪、この足、この頭、この今、腹這う場所、この煮え切らない、燻って出口を見出せない情熱、理解されない、あるいは理解されすぎている自分の立場、そうした一切こそがこの世界なのであり、自分の世界なのだという自覚なのだ。

 せっかくなので、『物質的恍惚』から、ル・クレジオの言葉を転記しておく:

 大地、実在する大地の上では、人間たちの発明の数々はもはや発明されたということを必要としない。それらは宇宙の描く模様に帰属しているのだ。諸都市や諸機械のリズムはたぶんいまだに発見を待っているものだ。それはすでに人間たちの精神から、そして機能の観念から分離している。外にあるのだ、外に。

 さて、冒頭にて、ル・クレジオのノーベル文学賞の受賞に「個人的にある種のショックを覚えていた」と書いている。
 ル・クレジオのノーベル文学賞の受賞は、巷間では、十年も前から囁かれていたらしいのだが、文学にも疎い小生はそんなことを知る由もない。

 それどころか、全く意外だった。

 恥を忍んで書くと、彼が受賞するの? という大きな疑問符だった。
 同時に(さらに恥知らずにも書いておくと)、彼の文学が評価されるのなら、小生も我が侭勝手な創作をやったっていいんじゃないのって、心のそこで密かに思ったことである。沸々たる熱も伴って!

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← ル・クレジオ著『歌の祭り』 (管 啓次郎 訳  岩波書店) 「moreinfo 歌の祭り」参照。

 最後に、僭越ながら拙稿からやはり、「物質的恍惚」なる言葉を使った(その言葉に依存した)エッセイ「真冬の月と物質的恍惚と」から一部を転記しておく(ここまで使ってくるってのは、病膏肓って奴かな?):

 月の光が、胸の奥底をも照らし出す。体一杯に光のシャワーを浴びる。青く透明な光の洪水が地上世界を満たす。決して溺れることはない。光は溢れ返ることなどないのだ、瞳の奥の湖以外では。月の光は、世界の万物の姿形を露わにしたなら、あとは深く静かに時が流れるだけである。光と時との不思議な饗宴。
 こんな時、物質的恍惚という言葉を思い出す。この世にあるのは、物質だけであり、そしてそれだけで十分過ぎるほど、豊かなのだという感覚。この世に人がいる。動物もいる。植物も、人間の目には見えない微生物も。その全てが生まれ育ち戦い繁茂し形を変えていく。地上世界には生命が溢れている。それこそ溢れかえっているのだ。
 …… ……
 自分が消え去った後には、きっと自分などには想像も付かない豊かな世界が生まれるのだろう。いや、もしかしたら既にこの世界があるということそのことの中に可能性の限りが胚胎している、ただ、自分の想像力では追いつけないだけのことなのだ。
 そんな瞬間、虚構でもいいから世界の可能性のほんの一端でもいいから我が手で実現させてみたいと思ってしまう。虚構とは物質的恍惚世界に至る一つの道なのだろうと感じるから。音のない音楽、色のない絵画、紙面のない詩文、肉体のないダンス、形のない彫刻、酒のない酒宴、ドラッグに依らない夢、その全てが虚構の世界では可能のはずなのだ。

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→ ル・クレジオ著『はじまりの時 上   時空を超えていきづく魂と感性の物語』(村野美優訳 原書房

参考:
blog.genxx.com » ル・クレジオ『物質的恍惚』
ル・クレジオにノーベル文学賞 - Zopeジャンキー日記
零画報 『物質的恍惚』 ル・クレジオ、豊崎光一訳 (新潮社1971)
仔犬の散歩跡 ル・クレジオ ノーベル文学賞受賞
Rue89Japon» ブログアーカイブ » フランス人J.M.G.ル・クレジオ、ノーベル文学賞受賞
PENGUIN TARO - J.M.G.ル・クレジオ研究
石清水ゲイリーの日常。ル・クレジオ。


拙稿:
バタイユ著『宗教の理論』
テラ・アマータ
物質的恍惚/物質の復権は叶わないとしても
バシュラール…物質的想像力の魔
真冬の月と物質的恍惚と

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コメント

今回のル・クレジオの受賞、
ぼくは非常に喜んでるんですけどね。

わがブログに短い記事を書きましたので、
また読んでみてください。

投稿: ゲイリー | 2008/10/12 16:23

ゲイリーさん

ようやくアルバイトから帰ってきました。

ブログ、お邪魔しました。
さすがゲイリーさんは読みが違いますね。

小生が読んだのはまさに初期のものばかり。

ブログでの本の画像は、「テラ・アマータ」を除くと、これから読みたいと思っているものばかり。

小生はきっとル・クレジオの文学の何たるかを理解していないのでしょうね。
でも、多分、捻じ曲がった形で影響を受けているようでもある。
とにかく分からないなりに(多分、誤解しつつ)「物質的恍惚」に恍惚としてしまったんだろうなー。

投稿: やいっち | 2008/10/13 01:12

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