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2008/09/19

夕焼けを追って

 過日、久しぶりに神通川の土手に立ってみた。
 久しぶり…、もしかすると十数年ぶりか。

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→ 神通川の土手に立った瞬間の光景。

 高校三年の夏ごろから徒歩であるいは自転車で神通川へ向い、土手に立つ。
 大抵は、そろそろ日も落ちようかという頃合。
 高校を卒業してからは、郷里を離れたので、お盆や夏休み、春休みなどを利用しての帰省の折に。
 日が傾き始めると、むずむずし始める。
 川の対岸の町に好きな人が居たからってこともある。
 同時に、こちらの川縁や土手からは、夕陽が呉羽山に沈むのが望め、小生には絶好の夕焼けスポットだったのである。
 若い頃は、彼女と歩いた道を辿って徒歩で神通川に向かったものだ。

 いつしか、川の向うの誰かを想うとかでなく、夕陽や夕景の素晴らしさ、夏の夕暮れの雰囲気に惹かれて、それこそ冬でさえも、雨や雪さえ降らなければ、ほとんど習慣のようにして足を向けた。

 冬だと、近場で熱燗…じゃない、ホットの缶コーヒーを自動販売機で購入して、缶を両手で包み、あるいは胸に押し当てたりして寒さを凌ぎつつ、夏だと冷たいドリンクを手に土手に立つ。
 特定の誰彼ではなく、川の淵に立つ…、むしろ人の世の端っこギリギリに立つ自分を茫漠たる思いと共に感じつつ、ここではない何処かを想うようになっていた。

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← エノコログサ(俗称は、猫じゃらし)だろうか?

 が、そんな思いさえ、闇の川に流され呑み込まれていった。
 神通川の土手に立つ習慣が自然と消滅していった。
 そんな気力さえ喪失してしまっている自分がいた。
 高校の終り頃から既に乾いた心、疲れきった体を感じていた。
 疲労困憊の毎日。
 朝、目覚めると、開口一番、口を突いて出るのは「疲れた」の一言。
 その理由については、既に散々書いたのでここでは略す。
 ミイラの体と心。
 友人に、「ミイラみたいだ」と呟かれたのは高校三年の秋だったか。

 若い頃はまだ成長力や生命力のほうが勝っているからだろうか、それでも起きたら外見上は人並みに近いほどには、少なくとも精力の大半が起床時に費やされていることなど分からない程度には、生活することが出来た。
 でも、やがてはメッキも剥がれる。
 会社を首になった40歳の頃には体力も気力も限界だった。
 首の一言を聞いた瞬間(病院を退院し出社した日、誕生日の翌日だった)、目の前が真っ暗になった…と同時に、ホッとしている自分が居た。

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→ 太陽の下側が沈み始め…。少し靄っている? 雲の変幻も楽しい。

 失業した94年4月からの一年余りは、徹底して自分を見つめなおす時期でもあった。
 情けないことに、その一年余りの間の頃、神通川に向ったのかどうか、覚えていない。
 ただ、95年の秋に(東京での)タクシードライバー生活を始めるようになってからは、帰郷しても、神通川に足を運ぼうという気にはならなかった。
 思い浮かびもしなかった。
 全ては白い闇の中であり、乾いた砂の粒が雨のように降り、舞い、目や耳や鼻や口を襲い…、砂に埋れ、砂の海に埋もれていった。
 やがては体も心もミイラ以上に乾燥しきっている自分を感じた。
 
 それでも、余力を振り絞って、創作活動に精力を傾けた。
 命の在り場所が虚構の時空にしかありえないように感じた。
 ピークには一年に百個の小品(創作)を作ったこともある。
 でも、それもメッキに過ぎなかったのかもしれない。
 自分を駆り立てる方便に過ぎなかったのかもしれない。
 創作する意欲が一昨年から萎え切っている。

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← 半分近くが沈み…。

 次はどうする。どうしたらいい。
 何の知恵も浮かばない。もともと知恵などある人間ではないから、湧いてこないことに今更、失望はしない。
 自分では分からないのだが、正念場に来ているように感じる。
 追い詰められている。生活も含め経済的にもだが人間として。
 
 今年の二月末の誕生日に帰郷した。三十年住み暮らした東京を離れたのだ。
 父母も含め誰も誕生日だということに気がつかない、寂しい帰郷。
 郷里の家に、あるいは町や富山に興味を抱こうと努力している。
 畑や庭や、町中の風物や風景や文化。
 その中の工夫の一つとして家の周りの動植物の写真を撮ったりすること、そして夕焼けの写真を撮ることがある。
(朝焼けは…、目が覚めないから先の楽しみとして取って置く。)
 最初は家の庭と、そこに農業用水路を挟んで広がる畑(元は田圃)との境目に立ち、夕景を撮っていた。
 庭からだと隣家や納屋が邪魔になり、撮れないので、用水路際に立つ納屋のさらに前に立たないと、夕焼けは撮れないのだ。
 しかも、肝心の夕陽は、隣家の死角になり全く撮れない。
 なので、夕陽の沈む…光景ではなく、あくまで夕景に留まるのだ。

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→ ほとんど日の入り間近に。

 が、どうやら近所(隣家)で顰蹙を買っているらしい。
 隣近所の様子を撮っている、とでも思われているのか。

 仕方なく、最近は、近くの造成中の公園に夕食前のひと時、自転車を駆って向い、公園の対面の家々の連なりに沈む夕陽や夕景を撮るようにしていた…のだが、それも、なんだか変に警戒されているみたい。

 段々、夕景を撮るのがうんざりしてきた。夕景のスポットが近くには他にないのだ。
 夕景が綺麗なのを夕餉の席で、あるいは仕事で何処かへ向う最中に感じた時は、貴重な時を見す見す逃しているようで、焦りさえ感じたりする。

 そして、その日、夕焼けが見られそうな空模様だった。
 空気が澄み切っているわけではないが、他の日だと、仕事で身動きが取れない。
 今日、今だと感じた。
 自転車を飛ばした。
 日は既に随分と傾いている。
 急がないと日の入りに間に合わない。
(「日の出、日の入りの時刻とは?」なる頁が面白い。)

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← 鉄橋を列車が走り抜けていく。

 自転車のペダルを漕ぐ足に力が入る。
 神通川の土手への最短距離を駆ける。
 変わっていない家や通りもあるが、駅の北口の再開発で十数年前とはまるで違う町並みになっている。
 それでも、十数年前までは徒歩や自転車で散々抜けていった道なのだ。
 
 間に合った。
 夕陽はまだ呉羽山に没していない。
 赤い太陽が真ん丸く浮かんでいる。山の連なりに太陽の下が沈み始めるところから眺めることができる!

 犬を連れた若い女性がいる…が、小生の姿を警戒してか、向きを変えていった。
 そんなに人相が悪いのかなー。寂しいなー。

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→ ついに日の入り。夕焼けを追っ駆けるのも終わり。旅客機が飛んでくるのを待ったけど、時間が合わなかったみたい。
 
 それはともかく、ご馳走の夕景を見る。撮る。
 ビデオに収めたほうが太陽の段々に沈む様子が、それにつれての光景の変化が分かっていいのだろうが、とにかく今はデジカメ撮影する。
 多分、僅か十数分の間に百枚ほども撮った。
 サンバパレードでだって、短時間にそんなに撮ったことはない!

 撮りながら、どんな感懐を抱いたかは、いずれ書く…かもしれない。
 

参考:
夕焼け雲
夕焼けの翌日は晴れ…じゃなかった!
                                (08/09/17 記)

(08/09/19 追記)
硯水亭歳時記 Ⅱ  秘すれば花にあらざりし」にて小生のブログが紹介されていました。
「『櫻灯路』・『硯水亭』・『硯水亭 Ⅱ(旧あづさ弓』の現行ブログまで終始一貫して熱心に読んで下さっているやいっち先生の『壺中山紫庵(こちゅうさんしあん)』のブログはブログのプロのようであり圧巻である」だって。
 ちょっと気恥ずかしい。

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コメント

鉄橋の写真、いいですね。北陸本線ですよね? 川の相もいい感じ。

中学生の頃、家から少し離れた高台にある寂しげな空き地へ、よく自転車で出かけました。そこからは遮るもの無しに夕陽が望めるので。
夕景を見たい気分ってありますね。ちょっと感傷的な。

最近では、京都方面へ自転車で出かけたその帰路、桂川沿いの自転車道を走りながら壮麗な夕焼けに遭遇しましたよ。気分が昂揚しますね。

投稿: 石清水ゲイリー | 2008/09/20 09:54

石清水ゲイリーさん

夕景、特に夕焼けって、何か郷愁の念を掻き立てるものがありますね。
血が騒ぐ…、羊水の中の自分を想起させるってわけじゃないでしょうが。

石清水ゲイリーさんの自転車散歩の記録、なかなかの読み物。
小生の場合、夕方は忙しいことが多く、夕焼けを追って外出が侭ならないのが目下の悩みのタネです。
東京では月影を追っての車での旅(?)が楽しかったなー。

投稿: やいっち | 2008/09/20 16:01

 創作活動の限界。

 なんだか、わかるような気がします。
 私も以前、そういったことに携わっていたことがあります。
 幾度かのスランプもけして「書く」ことに対する意欲を失わせたことはなかったのですが。。。。。いろいろなことが重なり、以前のように「創作」をすると言うことはめっきりなくなってしまいましたね。


 正直、今の自分に「書け」るのか? と言う怖さもありますが。

 さて、偶然か必然か。
 結局、「写真」と言う表現手段にたどりつき、ブログを「書く」と言う現在があります。

 面白いことに、今の「写真」を撮る私は、「創作」をしていた私がいなければありえなかった姿なんですよ。

 ・・・・・人生、何がどう転ぶか、わからないのもです。

 もしかして、やいっちさまにとって「創作」は通過点だったのかもしれません。
 あるいは、今がある種の「試練」なのかもしれません。

 それはきっと、もっと先になってみないと分からないんでしょうね ^^

投稿: RKROOM | 2008/09/21 00:48

RKROOM さん

今が正念場だと直感的に感じています。
父母の都合で帰ってきたわけだけど、それは言い訳に過ぎず、自分の中に磨耗し疲弊したものを実感していないとは言えない。
小生の場合は、センス・オブ・ワンダーの感覚がなくなったら、創作に限らず、ものを書くのはゼ・エンドですね。
その肝心のセンスが磨り減っている…。
何処にも辿り着けないというより、目標そのものを見失っている。

RKROOM さんの写真と言葉とが素晴らしくコラボレーションしているブログは、一つの到着点であり、少なからぬ人たちの宿りの場ともなっていますね。
小生には、どのようにあれば自分で納得するのか見えないで居る。

今はとにかく日々、できることをやっているだけ。それだけでアップアップ。
でも、偉そうなことを言うと、今のめいっぱいの自分を楽しみたいとも思っているのです。

投稿: やいっち | 2008/09/21 02:55

カメラを向ける、というのはすごく抵抗感があるのです、私。
撮りたい物が撮れなくって(何してるんだろう。。)と思う。
でも、もうちょっと頑張ってみようかな~なんてね。
お互い「今やれること」をやっていきましょ~

投稿: ちゃり | 2008/09/22 23:45

ちゃりさん

一ヶ月ほど、句日記のブログ、更新されてませんでしたね。
でも、ここ数日は復活(?)!
夏休みだったの?

ちゃりさんの句日記は好きなので、ああ、ここも◎■△かなって、ちょっと寂しい思いをしていたよ。

だれにもあれこれあるよねー。
自分を励ますのは(ネットを除くと)やはり自分だけなのかなーって。
褒めるネタなんてないんだけど、それでも自分で自分を褒めて、おだてて、ちょっとずつ歩いていければいいなって思ってます。

文章も写真も、<真実>の前か後ろを描けるだけ。でも、文章や写真を見るのも、人なので、誤解も含め、人には気持ちが伝わるんじゃないかって、希望的観測ながら願いつつ、おっちらえっちらジタバタしてますよ。

投稿: やいっち | 2008/09/23 09:24

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