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2008/09/14

上野原遺跡から神話へ、そして邪馬台国のこと

 長部日出雄/著の『「古事記」の真実』(文春新書)を読んでいたら、気になる記述に出会った。
 それは「高天原は高千穂峡」という章でのこと。

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← 長部日出雄/著『「古事記」の真実』(文春新書)
[目次]
稗田阿礼は日本最初の女性作家;日本語の父は天武天皇;天武天皇の鑑は聖徳太子;楽劇としての古事記;森鴎外と津田左右吉の苦衷;高天原は高千穂峡;神代を伝える原郷;須佐之男命とは何者か;出雲大社の示すもの;天照大御神の誕生;古代が息づく伊勢神宮;われわれにとって「カミ」とは何か

『古事記』において、「筑紫が日向(ひむか)の高千穂のくじふる嶺(たけ)」を天孫降臨の地としている。
 だが、戦前・戦後のある時期までは、「歴史上からいえば、今の日向・大隈・薩摩は九州に於いて最も遅く開けた土地で、又た後々まで皇室に服従しなかった所謂熊襲の国であった。又た地理上からいへば、海にも陸にも交通の極めて不便な位置であり、其の上、豊饒な平野もなく、上代に於いて大なる勢力をもつていたものの根拠地としては何一つ其の資格がない」(本書より)と思われていたし、二十年ほど前までは大よそ、そういった認識だったのだろう。
 が、97年、「鹿児島湾に面した台地上に、日本最古(発見当時としては最新)の文化が存在していたことが立証された」のだった。

 つまり、97年「5月26日、鹿児島県埋蔵文化財センターは、「国分市・上野原遺跡で今から九五〇〇年前の縄文時代の定住化した国内最大規模で最古級の集落遺跡を発掘した」と発表し、この縄文時代早期前葉の遺跡は、平成11年1月14日、日本国内最古最大級(同年同月現在)の定住集落跡として、国指定史跡に認定された」のである。
 当時(平成6年)、朝日新聞の夕刊に「4500年前の巨大木柱出土」「20メートル超す建造物か」「吉野ヶ里しのぐ可能性」などと報じられていた。
 が、「青森県・三内丸山遺跡の衝撃的なニュースの陰に隠れて、全国的な話題にならなかった」という。
 
 小生などはまさにそうで、三内丸山遺跡関連の話題には注目していたが、上野原遺跡関係の記事には接してはいても、重要度を理解できておらず、聞き流していた(見逃していたのかも!)ように思える。

 関心を改めて持たれた方には、小生の贅言など無用だろう。また、古代史や日本の考古学に明るい人には、上野原遺跡の存在や意義などについては、全くの常識に属することだろう。
 小生など、霧島の周辺を巡って、「深山霧島…坊がつる賛歌」なる拙稿を書いたことがあるのだが、もう少し調べておけばと、ちょっと悔いる気持ちがある。

 まずは、上野原遺跡の公式サイトを示しておく:
鹿児島県上野原縄文の森

上野原遺跡は,南に鹿児島湾や桜島,北に霧島連山を望む,鹿児島県霧島市東部の標高約260mの台地上にあります。約9,500年前には定住したムラがつくられ,また約7,500年前には儀式を行う場として,森の恵みを受け,縄文時代の早い段階から多彩な文化が開花し,個性豊かな縄文文化がきずかれ」たという。

1986年(昭和61年)に、国分市(現・霧島市)において工業団地(国分上野原テクノパーク)の造成中に発見された。同年から1996年(平成8年)にかけて鹿児島県教育委員会が発掘調査を行い、近世から縄文時代早期前葉までの遺跡群を含む複合遺跡であることがわかった。特に遺跡群の最下層には発見当時において日本列島で最古の大規模な定住集落跡があり、出土した土器が1998年(平成10年)に国の重要文化財に、遺跡の一部が1999年(平成11年)に国の史跡に指定された。「縄文文化は東日本で栄えて西日本では低調だった」という常識に疑問を呈する遺跡ともなった」のである。

 日向や鹿児島などが、「未開で」「荒蕪の地、というのは、稲作がはじまって、弥生時代になってからの話で、漁撈と狩猟採集の縄文時代、鹿児島湾の沿岸一帯から霧島山にかけては、温暖な気候と海の幸山の幸に恵まれて、この国の列島でもいちばん豊かな土地であったのでは……とおもわれる」と、長部日出雄は上掲書で書いている。
「伊耶那美命(イザナミノミコト)が、火の神を生んだことで御陰(みほと)を焼かれて病み臥し、意外と思われるほど物語のごく早い段階で、現世から姿を消し、黄泉国(よみのくに)に去ってしまう」のも、活火山である桜島の噴火や環境の変化で埋没してしまったり、あるいは少なくとも一時期は漁撈と狩猟採集に依存することが不能になったのだろう。

 環境の変化とは、噴火での地形の変化もあるが、縄文海進という今より平均して3~5メートル海面が高かった状態が縄文時代前期の約6000年前にピークを迎えて以降、低くなっていき、湾などの光景が一変してしまったことをも指す。
 縄文時代早期であれば、「日本列島の海に面した平野部は深くまで海が入り込んでおり、気候は現在より温暖・湿潤で年平均で1~2℃気温が高かった」わけで、鹿児島湾一帯もその例に漏れないわけである。

 伊耶那美命(イザナミノミコト)の神話もそうだが、『古事記』の中の一節、「国椎く、浮ける脂のごとくして、くらげなすただよえる時に、葦牙のごとく萌え騰る物により成りませる神の名…」も、国が呆気なく消え去ってしまう、言い伝えられて来ただろう苦い記憶が暗示されているようでもある。

 卑弥呼の出自の地も、日向や霧島山(日向と卑弥呼の音的な関係?)などの近辺にあったのではないかと思えてならない。
 邪馬台国のあった時代においては、日向の地は、古の繁栄の記憶が神話ではなく実際に嘗てあったものとしてリアルに神の地として受けとめられていた、だからこその祭政上での権威が卑弥呼(日向)にあったのではないかと素人なりに想像される。
 卑弥呼は縄文人の血筋を受け継いでいる、だからこその権威でもあったのかもしれない。

魏志倭人伝』の邪馬台国についての記述を見ても、海に面していて(少なくとも海(湾)を展望できて)、「男子はみな墨や朱や丹を顔や体に入れたり塗ったりしている」「海に潜り魚や貝を捕る」など漁撈に(も)大きく依存し、「土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている」「着物は幅広い布を結び合わせているだけである」など温暖な地であることなどが書いてあり、日本でも相当に南の地であることは、位置を考える上でも最低限の条件なのである。


 が、桜島の度重なる噴火もあったのだろうが、縄文海進での地形や温暖な気候という恵みもなくなり、弥生時代にはもう神話の土地となったのだろう。
 土地柄からしても、稲作には適さず、僻地となっていったのだろう。

 小生には個人的に長く疑問に思っていたことがあった。
 幕末、何故に鹿児島(薩摩藩)があれほど熱心に中央への進出にこだわったのか、どうして天皇を担いでまで中央の権力を握ろうとしたのか、錦の御旗という発想がリアルなものとして浮かんだのか。

 その前に、「後々まで皇室に服従しなかった所謂熊襲の国であった」のは、我が地こそが、今でこそ中央にある勢力の発祥の地なのだという誇りがあったからではないか(京都の一部の人たちが未だに東京への遷都を認めず、一時的に「天皇の東京行幸で留守の都」となっただけだと思いたがっているようなものか)。

 地の利(琉球を含めての広い海域での交流を通じて情報を逸早く摂取する立場にあった云々)もあろうだろう。
 また、熊襲の地で、長らく歴史の陰に埋没していたから、その鬱憤を晴らすためでもあったのか(薩摩藩の中でも身分制が厳しく、下級藩士の憤懣が溜まっていたのが爆発したように)。

 でも、それ以上に小生は鹿児島には、天孫降臨の地(に近い)や、我々の先祖こそが神武東行説話の当事者だったのだという言い伝え(記憶)が濃厚に残っていたことが大きかったのではなかろうかと思えてならない。
 天皇家は我々の先祖が…という誇り。今こそ、我々の復権の鬨(とき)の声をあげるべし…。

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コメント

 はじめまして。カミタクと申します。

 私が運営しております、拙ホームページ「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/kagoonin.htm
内のサブ・コンテンツ「上野原縄文の森(上野原遺跡)訪問記」
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/KAGKANAB.HTM
から記事にリンクを張りましたので、その旨報告申し上げます。

 今後とも、よろしくお願い申し上げます。

投稿: カミタク(リンク先は「上野原縄文の森(上野原遺跡)訪問記」) | 2009/09/02 22:03

カミタクさん

本格的なサイト、本格的な訪問記ですね。
そんなサイトにリンクしていただき、光栄です。
いつかは訪れてみたいと願っています。

>今後とも、よろしくお願い申し上げます。

こちらこそ、どうぞ、よろしくお願いいたします。

投稿: やいっち | 2009/09/03 17:59

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