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2008/08/12

富山で久しぶりの図書館

 月曜日、野暮用を済ませ、待望の場所へ向った。
 自転車で二十分ほど。炎天下だったので普通なら帽子をかぶっていくところが、所用が入ったこともあって、忘失してしまった。

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→ 図書館の帰り、富山城址公園に立ち寄って緑陰や川の流れを愛でる。

 今年の二月末に帰郷した。
 東京では最寄の図書館へ平均すると週に一度は足を運んでいた。
 自分の願望としては書店へ足を運ぶほうが好き。
 書店へ行けば、新刊もあるけど、ちょっと棚を巡れば数ヶ月は店晒しになっているような本、印刷されて数年という本も少なからず見受けられる。
 さすがに古本屋ほどには古い本は置いてないが。
 でも、手元不如意でもあるし、家(東京でのワンルーム)に蔵書を置くスペースもなく、次第に本を買って読むという習慣からは遠ざかっていった。
 いやその前に、書店からさえも足が遠ざかった。

 何と言っても、東京暮らしの頃、我が家から数分の場所にあった町の小さな書店が、数年前にコンビニに変わってしまったのが大きい。

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← 富山城(址)は、ずっと改修中。赤祖父門も設置され、ほぼ完成の域のようだが。北陸新幹線の開通を機に、富山市全体が変貌を遂げつつある。水の都・富山。環境都市・富山、成るか ? !

 それは突然の変貌だった。
 別にコンビニが悪いわけじゃないが、あの書店がなくなったことで、仕事帰りや買物のついでに、あるいは散歩がてらにぶらっと立ち寄って、という楽しみがなくなってしまった。
 小さな有り触れた書店がコンビニに変わって数年して歩いて10分あまりの場所、自転車なら数分の場所に情報館という名の文化施設が出来た。 
 インターネットやステージや会議室、ダンスなどの練習場所などのある施設で、その中に大きいとは言えないが図書館も併設されていた。
 小生にとって、書店代わり、書庫代わりの便利な施設だった。
 
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→ 緑陰で読書する若い女性の姿も。

 さて、帰郷してしばらくは引越しの片付けに手間取り、二ヶ月近く図書館どころではない生活が続いた。
 三月末頃からは草むしりも本格化して、野菜作りや枝打ち(剪定)も併せ、お盆までほぼ毎日畑や庭仕事に精力が費やされた。

 それでも、春も終り頃、最寄の図書館へ足を運んだこともある。
 足を…じゃなく自転車で向ったっけ。
 失望した。
 職員もいて、それなりに努力はしているのだろうが、如何せん、蔵書があまりに少なすぎる。子供向け、学習用、家庭用、あとは新しいとは言いかねる小説類が目立つ。
 小生の好みに叶う本は少ない…乃至、その日は見当たらなかった。
 がっかりである。
 
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← 北アルプスなどからの豊富な雪解け水や湧き水を生かしての、水の都・富山を目指している…。どうせなら、通勤や買物・行楽もできるような、運河か川の環状線(川)を市内にめぐらしてもらいたいもの。

 で、折を見て市の中心部にある図書館へ自転車で行こうと思った。
 が、なんと、アスベストの処理・対策の工事ということで、七月の後半まで休館だというのだ。
 これまたガッカリである。

 となると、手持ちの本を読むしかない。
 東京を引き払うとき、長い東京暮らしの間に購入した本の大半は処分した。
 百冊ほども持ち帰ったろうか。
 郷里の富山の家には学生時代までの本、サラリーマン時代、ワンルームの部屋に置ききれなくて小包にして送り納屋にダンボール詰めのまま蔵置していた本が数百冊はある。
 夜は週に三度から四度は仕事。
 日中は朝から家事三昧で、時間は限られている。
 小生は開き直って、大部の本を選んで読むことにした。
 要するに文学全集系統の本を選んで読むことにしたのだ。
 
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→ 帰り道などに見かける小花の綺麗な木。夏の日差しに負けない鮮やかなピンク。

 例えば、先月からはロベルト・ムージル著の『特性のない男』(加藤二郎/ 柳川成男/北野富志雄/川村二郎訳 河出書房 世界文学全集)与謝野晶子訳『カラー版 日本文学全集 源氏物語 上・下』(河出書房)を読み続けてきて、先週、『特性のない男』を読了し、明日(火曜)にも与謝野晶子訳『源氏』も読了の予定となった。

 当初は与謝野源氏は年内に読了できるかどうかも覚束なかったのだが、読み出すと案外と読める。
 特に宇治十帖は、それまでの光源氏ではなく息子(?)の薫で、歯痒いと感じつつも一個の悲劇物語として、独立しているようでもあり、すんなり読めてしまった。
 宇治十帖は複雑な人間関係が特徴の『源氏物語』にあって、比較的人間関係の錯綜度が低いからかもしれない。
 素人が僭越とは思うが、やはり宇治十帖はそれまでの紫式部との違いが歴然としている。

 読了してから図書館へ、という思いもあったが、手元の本の読了が近付くと、次に読む本を手元に置いておきたくなる。
 書店へ、とも思ったが、小遣いのない身、やはり図書館だと思い直した。
 野暮用があれこれあって、図書館へ向かえたのは、午後の三時頃。
 自転車を図書館の駐輪場に止めたときには既に三時半近くだった。

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← 家の裏庭と畑(昔は我が家の田圃だった)との境目にある用水路付近に立ち、既に暮れてしまった夕景を撮ろうとしたが、間違ってフラッシュを焚いてしまった。

 でっかい建物。
 しかし、中に入って失望した。

 名前は図書館なのだが、実際には複合施設で、一階はギャラリーなどになっていて(それはまあ、それでいいのだが)、二階は児童のための図書コーナーと青少年問題の相談室、三階は文献相談室(レファレンス?)そのほかと図書館、というわけで、小生にとって利用可能な図書コーナーは三階の一画だけなのだった。
 しかも、音楽に飢えている小生、AVコーナーも楽しみにしていたのに、そのお寒いコレクション。
 車での仕事が多いのだが、ラジオはFMが聴けず、NHKも聴けなくて、音楽的にも情報的にも退屈。

 本は数冊を二週間の期限なのはいいとして、CD類は一週間という返却期限。
 あまりに短い。
 日々、慌しく暮らしている小生、一週間というのはきつい。
 感覚的には、借りた翌日にはもう返却期限が迫っていると感じてしまう。

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→ 同じ風景を十数秒後にフラッシュを使わず撮影。印象が随分と違う。肉眼的には両者の中間かも。

 蔵書は、一時間ほどの視察で早計に判断は下せないものの、やはり乏しいような気がする。
 違う図書館だと、最初のうちは物珍しく感じるが、すぐに全貌が見渡せてしまい、物足りなくなる、そんな感じがしてしまう(少々、生意気)。
 他にも市街地に図書館があるので、そこも視察に行ってみたい。
 我が図書館となるのは間違いないのだし、これからじっくり付き合っていくのだ。

 せっかくなので、貸し出しカードを早速、作ってもらった。
 そして、早速、一冊、借り出してきた。
 このところ、文学関係の本をずっと読んできたので(ムージルの前は、ジョイスだった)、そろそろサイエンス関係の本が読みたい。
 ということで、借りたのは、ジョン・D・バロウ 著の『宇宙に法則はあるのか』(松浦 俊輔 訳 青土社)である。

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← ジョン・D・バロウ 著『宇宙に法則はあるのか』(松浦 俊輔 訳 青土社) 宇宙論が今、劇的変貌を遂げつつある。ホーキングの予想(見通し)に反して、宇宙の相貌は想像を絶して複雑のようだ。

 余談だが、久しぶりの図書館ということで、肝心のものを所持するのを忘れていた。
 それは老眼鏡。
 書架に並ぶ本を手に取り、パラパラ捲る…まではいいのだが、文章をまるで追えない。
 開架コーナーを物色して回ったのだが、小説にしても、面白いかどうかの感触を探りようがないのだ。

 外出の際、エコバッグならぬビニール袋は常備するようになったが、図書館へ足を運ぶ際には眼鏡ってことを肝に銘じておかないといけないと思ったことだった。

 さて、待望の音楽ライフの再開は望み倒れに終わったが、図書館便りの読書生活がまた始まる。ちょっとは生活が豊かになると思いたい。


 

関連記事:
図書館の本のこと(前篇)
図書館の本のこと(承前)
図書館の本のこと(続々)
紙魚・白魚・雲母虫・本の虫

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