ムージルの『特性のない男』でさえもなく
過日、ロベルト・ムージル著の『特性のない男』(加藤二郎/ 柳川成男/北野富志雄/川村二郎訳 河出書房 世界文学全集)を読了した。
本書には『三人の女』(川村二郎訳)も所収となっていて、現在、こちらに取り掛かり中。訳もこちらは読みやすい。
『特性のない男』は、「加藤二郎/ 柳川成男/北野富志雄」諸氏の訳のようだが、読みづらい。
訳が今ひとつなのか、もともと原書が独特な言い回しや比喩・表現に満ちているからなのか、原書を読んでいない小生には判断が付かない。
← 「図書出版松籟社ホームページ ムージル著作集」(加藤二郎 訳)
とにかく読みづらかった。小生は昭和55年頃に本書を買った。買うと堪え性なく、若さもあって勢いで読んだが、当時も文体(あるいは翻訳調)に難儀した印象だけが微かに残る。
本書を買った頃は、それまでのフリーター時代にケリを付け、サラリーマンに、つまり何者でもない存在たることを選んだ時期でもある。
今回は、約30年ぶり、二度目の挑戦ということになる。
タクシー稼業ともとりあえずはおさらばし、家事三昧、生い茂る雑草に埋れる生活にあっての登攀。
暑い最中、読むのは真夜中、就寝前のひと時。エアコンがないので、扇風機を弱にして、足元に微かに風が触れるようにして、寝床で仰向きになって、ワインでも嗜むようにちびりちびりと読んだのだった。
今回、与謝野晶子訳『源氏物語』を同時並行して読んでいることもあり、日に数頁から十数頁という、ゆっくりしたペースで読み進めたのだが、敢え無く沈没。
小生はムージルには縁なき輩(ともがら)なのか。
ムージルについては、「ロベルト・ムージル - Wikipedia」もあるが、『特性のない男』の読みとの絡みで、「ドイツ音楽紀行 ロベルト・ムージル「特性のない男」」の評論・紹介が非常にいい。
以下、小生が何を書き殴るかしれないので、良識ある人は同上のサイトを参照されるがいい。
とても詩的なくだりを引用してくれている。サイト主は一体、誰の訳を参照しているのだろう。自分で訳されたのか。
「最後はジュネーヴでこの大作の完成に心血を注ぐが、1942年シャワー室の中で脳卒中のため急死」というが、小生も二月末に帰郷して以来、ほぼ毎日、枝打ちか草むしりの日々で、今も延々とその作業は続いていて、主に昼食後、昼下がりにやる。
暑い! 帽子着用、首にはタオル、長袖、長ズボン、長靴、ビニールの手袋という完璧な草むしりスタイル。
汗だくになってやっていて、二時間ほどで作業を切り上げて、水のシャワーを浴びる。
作業の途中、既に喉はカラカラ。ビールの好きな人なら、シャワーのあとのビールなのだろうが、小生はスポーツドリンクに麦茶にアイスクリーム。
問題は、作業を終えて畑や庭から家に戻る際には足元がフラフラになっていること。
情けないほどにヨタヨタしてしまう。
下手すると、シャワーを浴びたり、そのあと水分をタップリ補給する前に熱中症か日射病で倒れてしまわないともかぎらない。
ムージルなら大作との格闘の末の名誉の戦死(?)となるが、何者でもなく何者にもなろうとしなかった小生だと、ただの野垂れ死にってことになるかもしれない。
もっと情けないのは、父母も含め小生の労苦に誰も関心を払わないこと。
ってことは、活動自体、あれどもなきがごとしってことになる。
一体、何をやっているのか。
特性のない男…というより個性も自己主張も何もない奴の徒労の果ての…、まあ野暮はもう書くまい。
→ 「図書出版松籟社ホームページ ムージル著作集 小説集」(加藤二郎 訳)
せっかくなので、必ずしも本書の中の典型的な叙述部分というわけではなく、むしろ、まあ、場合によっては読み過ごしてしまう、本書としては有り触れた、平凡ともいえそうな記述のうちの若干を引用してみる(訳書では傍点となっている部分はイタリック体に変更してある):
夕方になっていた。まるで空間から抜けでたような家家、アスファルト、鋼鉄レール、これらが都会の冷却したていく貝殻を形成していた。無邪気な、朗らかな、立腹した人間の動きを一杯つめた、この母貝。ここでは水滴(たわけ、まぬけの意あり)が、飛沫をあげて飛び散る小さな滴の形でどれも始まる。小さな爆発で始まり、壁々にとらわれて冷やされ、しだいに柔和になり、しだいに動かなくなり、やさしい母貝の殻に垂れさがり、そしてついには固い粒となって、母貝の壁に固着する。「なぜ」と、ウルリッヒはふと考えた。「俺は巡礼者にならなかったのか」純粋で無条件な生き方、澄みきった大気のような身にくい入るほど新鮮な生き方が、彼の眼前にひろがった。実人生を肯定しようとせぬ者は、聖者がしたように、少なくとも実人生の否定をすべきであろう。だが、まじめにこんなことを考えるのは、まったく不可能であった。同様に彼は冒険家にもなれなかった――冒険家の人生は、永遠の蜜月のごとき趣きがあろうであろうし、彼の五体も彼の気性もkの楽しさを感じてはいたが。またそのための素質は充分にあったけれども、彼は詩人になることも、金と権力のみを信ずるあの失意の男たちの一人になることもできなかった。彼は自分の年齢を忘れて、自分が二十歳であると想像してみた。だが以上のどれにもなり得ぬことは、心の中では決定していたも同然であった。この世のありとあらうるものへ、彼を引きつける何かがあった。だがそれより強い何かが、彼にそうさせなかったのである。では、なぜ彼はこんなに曖昧で不決断な生き方をしていたのか。疑いもなく――と彼はひとりごちた――孤立した無名の生き方に俺を縛りつけているものは、それ一つだけでは歓迎されない言葉、つまり精神とよばれる、あの世界を分解し結合するものへの強制にほかならないのだ、と。するとなぜか分からなかったが、ウルリッヒは不意に悲しくなり、そしてこう考えた――「俺はこの俺自身を愛していないのだ」と。都会のこの凍りつき石化した肉体の奥の奥で、彼は自分の心臓が鼓動しているのを感じた。彼の中に、どこにもとどまろうとしなかった何かがあった。それは、自分が世の壁々にそって歩いていると感じていた。そしてなお幾百万もの他の壁があると考えていた。この徐々に冷化してゆく滑稽な自我の滴、これがその火を、そのごく小さな灼熱の中核を、捨てようとはしなかったのだ。
精神は、美がものを良くも悪くも、愚かにも魅力的にもすることを、体験してきた。精神は、羊と悔悟者を分解して、その両者に従順と忍耐を発見する。ある物質を検査して、それが多量の時は毒となり、少量ならば嗜好品となることを認める。精神は、唇の粘膜と腸の粘膜とが親戚であることを知っているが、一方また同じ唇の卑下があらゆる聖者の卑下と親戚であることも知っている。精神はものを混合し、解きほぐし、そして新しく関係づける。善と悪、上と下とは、精神にとっては懐疑的 - 相対的観念ではなく、むしろ函数の項、つまりその置かれた関係に依存している価値となろう。精神は、悪徳が美徳に、美徳が悪徳になり得ることを幾世紀もの間に習得した。そして一生の間に犯罪人を有益な人間に変えることに成功せぬ場合には、それは結局ただの無器用にすぎぬとみなすのだ。精神は、許されたものと許されないものとの区別を認めない。なぜなら、すべてのものに、他日新しい大きな関係に参入できる特性が、あるかもしれないのだから。精神は、自分は金輪際確実であるかのように振舞うもの、つまり、偉大な理念や偉大な法律、それらの石化した小さな押型、そして垣でかこまれた性格などを、すべてひそかに死のごとく憎悪する。精神は、すべてのものを、それが自我であれ秩序であれ、固定化したものとは考えない。われわれの知識は日ごとに変わり得るものなのだから。精神はいかなる拘束をも信じない。そしてすべてのものにはそれぞれ固有の価値があるが、その価値はすぐ次の創造行為が演じられる時までのものである――ちょうど話しかけられている顔が、話される言葉につれて変ってゆくように。(第二部 40)
こうした文章が延々と続くものと思って、そう大した誤解は生じないはずである。
遠くにキルケゴールの不安の概念などを嗅ぎ取ろうとしたりカフカを透かしてみようとしたり、あれこれするのは見当違いなのだろう。
それくらいならチャップリンの『モダン・タイムス』(Modern Times)を、その生真面目さの点で気付いてみたりするほうが滑稽なほどに楽しいかもしれない。
背負った課題自体が未完を宿命付けられていた、あまりに偉大な作品、今はそれだけを記しておく。
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コメント
『特性のない男』は、本屋で手に取ったことがあるぐらいで、本気で読もうとしたり挫折した経験はありません。
上の二つの引用を読みながら原文を想像しているのですが、かなり密に書き込まれていますね。この調子で、パステルではない強い色連ねて重ねられていくとなるとなかなか読み難いかもしれませんね。一文の長さではそれほど長くないとすると、次から次へと平行移動しては行けそうですが。
カフカよりは読みたいと思いますが、プルーストの方がリスト上位ですね。今回、やいっちさんが読み遂げていたら気になる所でしたが、先ずは安泰という感じです。
それにしても源氏との読み比べはなかなか興味深い企画に思えました。
投稿: pfaelzerwein | 2008/08/06 00:39
pfaelzerweinさん
「特性のない男」は、読了だけは四半世前にも今回も果たしています。
ただ、読みこなせたかというと覚束ない。
御察しの通り、相当に密度の濃い作品で、引用したような文章が延々と続きます。
会話部分でさえも。
今回はちびりちびりと読んでいったので、文体に慣れていったような。
pfaelzerweinさんなら原書を手に取り、翻訳との対比もできるのでしょうね。
時に文章が難解に感じられるのは、訳が問題なのか原書なのか、それとも読み手(つまり小生)の読解力が足りないのかの判断が付かないでいます。
カフカは若い頃、凝って、全集も揃えようとして半分で頓挫したっけ。小説と日記、書簡だけは大体、読んだけど。
カフカは今後も読み返す作家の一人です。
プルーストも全体は読んでいないけど、3分の2は読んだ。彼の文学や芸術評論も素晴らしい。
読み比べというなら、プルーストの「失われた時を求めて」と「源氏物語」とで試みるのがいいと思う。
(「源氏」と「特性の…」となったのは、帰郷して書棚にあったので、偶然、このメニューとなっただけ。)
実際、「源氏物語」を読んでいて、与謝野晶子の訳の影響もあるのかどうか、何度もプルーストの小説(パーティでの会話や人物群像、入り組んだ微妙な人物表現)を連想させられたものです。
「源氏物語」は全体の4分の3まで読み進めているのですが、特に宇治十帖は(つまりは光源氏が不在となり息子の薫(ら)の話)は、書き手(作者)がそれまでとは違う人みたいな気がして、物語として面白い(読ませる)けど、あれれという感を抱いてしまう。
暑い中の「源氏」と「特性…」とへの挑戦はなかなか乙なものです(もうすぐ、でした、に変るはず)。
投稿: やいっち | 2008/08/06 10:15