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2008/08/24

幽霊の正体見たり枯れ尾花

 夏なので、定番の話題ということで、幽霊の話をちょっと。
 といっても、幽霊話については散々書いたので、(幽霊話は怖いし)今日は周辺をうろついてみるだけ。

Miscanthus_sinensis0842

← 「ススキ」(尾花) (画像は、「ススキ - Wikipedia」より。)

幽霊の正体見たり枯れ尾花」という言葉…フレーズを知る人は少なからずいるのでは。
 では、このフレーズが、実は俳句であって、芭蕉の句であることを知る人は少ないのでは。
 小生も、ほんの数年前、拙稿「枯尾花」を書いた際に、あれこれ調べていて初めて知ったのだった。
 但し、複数のサイトでこの句が芭蕉の作品とされていることは確認したが、芭蕉の句集のどこに所収となっているのかなどは分からないままである。

 一説に拠ると(「落語・講談によく出ることば 話芸“きまり文句”辞典 [ゆ]で始まる語句・ことわざ」などなど)、「横井也有の「化物の正体見たり枯尾花」によるという」のだが。
「 「鶉衣」に記された也有の句のひとつ「化物の正体見たり枯尾花」は「幽霊の正体見たり枯尾花」と変化して広く知られている」というのだから、今はこの説を承っておく。
 多分、この説が正しいものと思う(断言する自信はない)。

 念のため話を先に進める前に断っておくと、「尾花」とは「ススキ」のことである。

 拙稿「枯尾花」で小生は以下のように書いている:

(前略)ネット検索の過程で見つけた、気になる言葉を紹介しておく。それは、「杯中の蛇影」である。あるいは「杯中の蛇影のみ」だ。
 これは、ある友人が賢人のもとを訪ねた際、賜った杯の中に写った弓の影を蛇の影と勘違いし、仕方なくその場では杯を飲み乾したものの、体調を崩してしまった。が、同じ場に誘われた際、同じ影を杯に示し、その影の正体は、実は、弓だと賢人が友人に教え、友人の気鬱を治してやったという話。「疑心暗鬼を生ず」と同類の言葉として、「幽霊の正体…」の句が、このサイトでは紹介されている。
「幽霊の正体…」(や、「疑心暗鬼を生ず」、あるいは「杯中の蛇影のみ」)は、小生に、ロールシャッハテストを連想させる。これは、「スイスの精神科医ロールシャッハが創案した性格テストで、左右対称系のインクの染みの図版10枚を見せて、連想するものを言わせるもの。どのように見えたかをチェックし、総合的に被験者の特徴を診断する。」と言うものだ。心の状態が、常態、まあ平凡なる気分の状態にあるなら、なんと言うことのない画像に映るだけなのだろう。
 が、例えば、お堀端の柳が、あるいは、河原でなくとも、町外れの一角の空き地に枯尾花が、つまり枯れたススキが生えていて、風に揺れていたりすると、それも、夕暮れ時などに曖昧な灯りか月明かりのもとで見たりすると、人が悲しみに、それとも、恨みの念で俯き加減になっているかのように見えることもある、ということなのだろう。

07_10042

→ 画像は、「ダラーンと枝垂れ柳のこと」より。夜中に見たら、幽霊が両手をだらりとさせて立っているように見える…?

 黄昏時やまして丑三つ時などに、お堀端でなくとも何処かの街灯のない柳の並木道などを通りかかったりすると、ついつい柳の細かな枝の動きや揺れが怪しく見えたりする。
 辺りに人影が全くかせいぜい遠からぬところに一つだけだと尚更であろう。
 柳の枝は下に向って垂れ下がっている。
 風に揺れたりすると、まさしく足のない幽霊が出現したかのような、そうでなくとも誰か怪しい人影が潜んでいるような気になってしまう。

 夜分だから当然なのか。
 正体など実際は大したことがないのに、人の勝手な思い入れが想像を、妄想を逞しくさせているだけなのか。
 けれど、柳の枝の為す悪戯など切っ掛けに過ぎず、実際にはそれを見る人の心に普段は忘れているか、胸の奥底に仕舞いこんでしまっている悩みや傷や悔恨の情などが、揺れる枝や葉っぱの織り成す幽霊となって形となるのだろう。

 幽霊と呼称するが、要は胸のうちに何かしら確かに潜んでいるもの、表に出ることを憚りつつも、噴出する機会を窺っているものがあるのに違いない。
 人は何を観るにしても意味を求める。見慣れたものなら見過ごすだけだが、見慣れない正体の知れないものには、どんな意味を形を読み込めばいいのか、一瞬、戸惑ってしまう。
 それが真夜中などの寂しい状況であれば、魂魄となって形となるのだろう。
 
 形の定かにないものに形を読む。それが人間の習性なのかもしれない。
 どんな混沌の中にも形を見出す性癖を持つ生き物、それが人間なのか。

 例えば、子供の頃、野原などに寝そべって雲を見て、その時の気分や体調次第で、アンパンに見えたり、、飛行機だったり、大入道(おおにゅうどう)だったり、嫌いな先生の顔だったり、それこそ好きな誰かの面影を読みとったり、何かしら形を見出してしまう。

 それがもっと大きな、ただの気のせいでないものとなると、科学で言う自然法則だったりもするのかもしれない。
 法則は全宇宙を通じて普遍的に通用するものなのかどうか。
 まあ、ここまで来ると話が大袈裟になりすぎる。

 要は法則やパターンなのだという説明に説得力を持つかどうかだろう、などと決め付けるとあまりに浅薄な結論に堕してしまう。
 脳の中の幽霊というのも、明晰で窮屈すぎる。

 闇の中に幽霊を見る。見た以上はそこにある、そこに居ると思うしかない。誰が何と言おうと、幽霊はいる! それだけは言えるような気がする。
 見たくはないのだけど。

07_10041

← 画像は、「ダラーンと枝垂れ柳のこと」より。


関連拙稿:
幽霊の正体見たりスッポンポン?
ダラーンと枝垂れ柳のこと
葦と薄の恋
すすきの穂にホッ
枯尾花

                               (2008/08/24 作)

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コメント

UFOは何度か見ていますが、幸い幽霊には縁がありません。ただ幽霊の科学としては視覚の構造が関係しているかもしれません。視覚というのは一度情報をバラバラに分解したものを脳で再構築しているので、この時に主観を始めとするいろんな要素の混入する余地が大きいですね。

投稿: R33 | 2008/08/25 06:19

R33さん

小生にとっては、幽霊を見た、というよりUFOを見たってほうが凄いなって感じる。

幽霊は見る人の心理次第で、同じ場にいる人が見えなくても<見える>ってことは分からなくもないけど、UFOはどうなんだろう。

UFOも、「主観を始めとするいろんな要素の混入する余地が大きい」のか、それとも実在すると考えられているのでしょうか。
ユングの説など有名だけど:
C・G・ユング 著『空飛ぶ円盤』
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480080578/

小生には考えが浮ばない。

投稿: やいっち | 2008/08/25 09:39

UFOは三回ほど見たのですが、いずれもツレも目撃しているので客観性があると思います。ただUFOはあくまで未確認の飛行物体であって、必ずしも乗り物とは限らないでしょうね。まして宇宙人との関連は僕には不明です。
また一度、謎の光が輝くのを見ましたが、この時も幸いツレが一緒に目撃しました。

投稿: R33 | 2008/08/25 12:59

R33さん

UFOはあくまで未確認飛行物体。
なので、極論したら幽霊もUFOかも。

あくまで未確認飛行物体の意味でなら、小生もUFOを真夏、お盆だったか夏休みだったかに帰省した折に郷里の我が家の屋根裏部屋で見ました。
窓外の遠くに七つや八つの輝くものが編隊を為す形で動き回っていました。
一瞬、目を疑ったけど、目を凝らしても間違いなく見える。
目だけは自信があるので、確かに見たと思っています。
円盤とかじゃなかったけどね。

投稿: やいっち | 2008/08/25 15:32

芭蕉の句かどうかに関しては、2004.12.13.の貴稿「枯尾花」での結論「いずれにしても芭蕉の句ということはなく、川柳のようである」説を私は支持します。芭蕉の句とするためには、その所載句集等の出典がわからないと・・・。

投稿: mitleben | 2008/08/26 07:33

mitlebenさん

久しぶり!
熱心にウォーキングされているようですね。

さて、この「枯尾花」の句、芭蕉が作ったにしてはやや月並。
芭蕉が川柳を作るのかどうか、調べたことはないのですが、もうちょっとひねりがあっていいはず。

まあ、川柳としてそれなりに楽しめばいいのでしょうね。
詠み方によっては深い意味も考えられるわけだし。

投稿: やいっち | 2008/08/26 10:09

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