「蜘蛛の巣」という永遠
与謝野晶子訳『源氏物語 上・下』の上巻をなんとか読了。
何処まで賞味できているかどうかは別にして、次は下巻へ。なんとか来月一杯には与謝野源氏は読み切れそう(『特性のない男』も半ばまで来ている。ちなみに、与謝野晶子訳『源氏物語』は、ネットで読める:「角川文庫 全訳源氏物語(与謝野晶子訳)」)。
とにかく人物関係が輻輳している。
とはいっても、錯綜していると感じるのは理解が足りないから…なのだろう。
→ 画像は、「蜘蛛の巣をめぐるエトセトラ」より。
宮中など雅なる世界は貴賎の差異と男女の上下とが蜘蛛の巣の網のように入り組んでいる。情念においても陰影を織りなしている。
ここからいきなり飛んでしまうのだが、蜘蛛の巣というと、小生はどうしてもドストエフスキーの小説を連想してしまう。
そう、小生にとっての永遠の青春の書である『罪と罰』である。
この小説で、最初から小生を虜にしたのは、マルメラードフでありスヴィドリガイロフという人物(像)である。
ラスコーリニコフには最後まで感情移入できなかったし、ソーニャにも何か作り物めいた感が否めず、むしろポルフィーリィのラスコーリニコフを追い詰めていく取調べの場面に手に汗を握ったりする。
でも、やはり、マルメラードフでありスヴィドリガイロフだ(今回はマルメラードフはさておく。)
スヴィドリガイロフの末路を描く場面はどんな詩文より美しいと感じる。
そのスヴィドリガイロフが語る永遠とは(工藤精一郎訳):
われわれはつねに永遠というものを、理解できない観念、何か途方もなく大きなもの、として考えています。それならなぜどうしても大きなものでなければならないのか?そこでいきなり、そうしたものの代わりに、ちっぽけな一つの部屋を考えてみたらどうでしょうか。田舎の風呂場みたいなすすだらけの小さな部屋で、どこを見ても蜘蛛の巣ばかり、これが永遠だとしたら。
この一文に初めて遭遇したときの衝撃は今も鮮やかである。
ドストエフスキーが小説の世界を極めたとしたら、その後のどんな大作よりも、この一文、この場面にこそあるのだと思う。
破滅型人物像は、ニコライ・スターヴローギンなどもあるが、必ずしも成功しているとは思えない。
あくまで悪無限的縮小再生産していくスヴィドリガイロフでなければならず、ドストエフスキーですら、彼以上の世界は描ききれなかったのだろう。
ドストエフスキーの諸作品には子供への愛情が描かれることが多い。…というか少年やもっと少女への偏愛志向が随所に表れている。
少女を誘惑し陵辱するスヴィドリガイロフはその筆頭でもある。
けれど、『源氏物語』を読むと、スヴィドリガイロフらの悪魔ぶりなど笑止に思えてくる。光源氏に限らず高貴なるお方たちは平気で幼女をかどわかし(拉致し)、監禁し、自分好みに育て上げ、溺愛し、うまく育たなかったらおっぽり出す、死ぬほどに悩ませて、時には自分も苦しむようであるが、そんな自分に陶酔している、あるいは美しいと作者は表現している。雅な世界の隠微さは、底が知れない。しかも、自らを決して恥じない。美が全てなのである。
ドストエフスキーがもしも『源氏物語』(のロシア語訳)を読んでいたら、スヴィドリガイロフやスタブローギンの人物像をもっともっと精彩に<肯定的に>描いていた、あるいは描く弾みと励みを得ていたのではないか、なんて思えてくる。
人間の世界の淫蕩さ隠微さという泥沼の底は果て知れない。そして深みにずっぽり嵌まったものこそが、きっと誰より<美しい花>を咲かせる…のかもしれない。
やりきれないほどの赤い闇の深さを予感するのである。
さて少しだけ冷静になって考えてみる。
どうして永遠はススだらけの、蜘蛛の巣の張った薄暗い風呂場に堕したのか。やがてはフーコーが言うように人間が消滅していってしまうのか。
背景には欧米の場合ならば、「神の不在」という一言で象徴されるのだろうが、要は科学の急激な発達があるのだろう。
この辺りの消息は、直ちに関係するわけではないが、下記の拙稿で少し触れたことがある:
「ジョージ・スタイナー著『言葉への情熱』、あるいは、電子の雲を抱く」
もう六年以上も前に書いた雑文で、今、読み返すと微笑ましくもある(同時に気恥ずかしくもある!)が、一部、転記しておく。
文中に「蜘蛛の巣」なる言葉が入っているのは愛嬌であろう:
神は不在なのではなく、神への問いそのものが私の手から奪われてしまったのだ。私が諸科学の肥大化した個別分野に解体され尽くしてしまった以上、私が私を問うこと、私が私を感じることさえ僭越なのである以上、いわんや神においておやである。
私は、今やデジタルの情報の海に漂っている。無数の科学の知の海にバラけてしまっている。遺伝学も分子生物学も数学も化学も批評学も生理学も免疫学も心理学も民俗学も考古学も、それぞれが細切れにされた私の居場所である。
が、いつの日か、そうした個別化学の成果が寄り集まって総合され、私が再び一個の丸ごとの人間であったはずの私に戻れるなどという幻想は、まさに幻想に過ぎないのである。
科学は、その探求の手を休めることがあるだろうか。分析の手を鈍らせることなどありえるだろうか。更に蜘蛛の巣より細かな網のような極限的個別科学にならんとする勢いを止める手立てなどありえるだろうか。
今も、私は無数の個別の、それも顕微鏡的に細密な科学の無数のプレパラートに挟まれて観察され分析されている。それどころか、その切り刻まれた肉片さえ、もっと細かく引き千切られようとしている。そう、私は霧、私は雲、私は大気中の浮遊塵だという所以である。
それでも、性懲りのない私の中の何かは、疼いてやまない。専門家には、素人の遠吠えに過ぎないのだろうが、でも、この全てが表層化されつつある社会の片隅に、そう、ホームレスがやっとの思いで住処を捜すように、私は居場所を探す。私とは一個の全体なのであり、それは科学の手の及ばない何かなのだと言いたくてならない気持ちを抱えながら。
懐かしいと感じる一文。
六年前というのは僅かなのか、ずっと前なのか。
いずれにしても、今の自分には上掲の発想からは随分と遠ざかったような気がする。
参考にならない関連稿:
「「蜘蛛の糸」を裏読みする」
「我が友は蜘蛛!」
「「我が友は蜘蛛!」後日談」
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