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2008/07/05

今年は源氏物語千年紀

 自宅の寝床で、あるいは帰郷に際して東京から持ち帰ったロッキングチェアーに腰を沈めつつこの二週間ほどちびちびと読み進めてきた、『ダブリン市民』と『若い芸術家の肖像』の二作品が所収となっている『新集 世界の文学 30 ジョイス』(高松雄一/永川玲二訳 中央公論社)を読了した。

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← 『源氏物語絵巻(東屋)』(徳川美術館蔵) (画像は、「源氏物語絵巻 - Wikipedia」より。)

 同時に、外出などの際に、時間が空いた時に楽しむために携えていた、『中谷宇吉郎集 第八巻』(岩波書店)も、昨日、読了してしまった。
 全八巻の『中谷宇吉郎集』は、全六巻の『寺田寅彦集』(岩波書店)共々、買ったのは七年かそれくらい前なのだが、他の本のように購入したら即、手を付けるのではなく、敢えて温存してきた。

 心を遠い少年の日の夢に舞い戻らせるというか、実験や観察やデータの蓄積と分析など世界を接近戦で地道に見つめているにも関わらず、精神は何処か高邁で遠大で、且つ少年の素朴な好奇心・探究心を常に忘れない純なものが通奏底音のように流れている、いい意味での科学者の心そのものである…。

 自分がそうであれたらどんなによかったろうと思いつつ、自分では決して果たしえないキャリアーを彼らは着々と積み重ねてきた、その意味での小生にとっての憧れの人、ヒーローのような存在なのである。
 でも、上掲の著作集も、あとは寺田寅彦集の最後の一巻を残すのみとなった。
 こうなったら、最後の巻は(実を言うと、半分ほど読み進んでしまっている!)可能な限り、ひっぱるつもり。

 次に何を読むか。
 これは、読了が近付くと頭を悩ます問題である。
 懐具合が暖かかったら、書店で物色するのだが、とてもじゃないが、書店は鬼門の小生、郷里で通いたいと思っている図書館も工事中とかで、通えない。

 となったら、書棚で物色するしかない。
 何を読むか…。

Asago

→ 『源氏物語絵巻 朝顔』 (画像は、「源氏物語 - Wikipedia」より。)

 実は郷里で居住する部屋の書棚の隅っこにはずっと気になる本がデーンと置かれている。
 小生がこの部屋に帰省の折に住み暮らすようになる前からあった本。
 刊行の年は1967年。
 その本というのは、『カラー版 日本文学全集』(河出書房)の中のもので、『源氏物語 上・下』(与謝野晶子訳)である。

 姉の本なのである。姉が結婚して家を出て行った際、『カラー版 日本文学全集』(河出書房)は多分、持参したものと思うが(未確認)、この『源氏物語 上・下』だけは残していった。
 というより、小生が勝手に姉の書棚から抜き取っておいたのである。
 忘れ形見(?)というわけではないが、まあ、姉の思い出(って、別に亡くなったわけじゃない!)の品というわけであろう…か。

 ところが(多分、一度だけ、読破に挑戦した微かな記憶があるが)、とうとう今日まで実質上、手付かずのままに来てしまったのである。
 そもそも、『源氏物語』自体、原書は勿論、現代語訳にしても、全巻を通じて読みきったことがない。
源氏物語』の現代語訳は、与謝野晶子訳のほか、谷崎潤一郎訳、円地文子訳、田辺聖子訳、橋本治訳、瀬戸内寂聴訳、今泉忠義訳、尾崎左永子訳、中井和子訳、鈴木正彦訳などがあるらしい。
 あくまでらしい、であって、そのどれも読み齧りさえ、したことがない。

 エドワード・サイデンステッカーによる英訳本も小生は以前、所蔵していて、半ばまで読み進んだところで、挫折してしまった。人物構成が(日本語でも錯綜してしまうのに英語だと尚のこと)理解できなくて、物語を理解したり味わうどころではなかったのだった。 

Wakamurasaki

← 『源氏物語絵巻 若紫』 (画像は、「源氏物語 - Wikipedia」より。)

 さて巷間、言われているように、「紫式部日記には、寛弘5年(1008年)に源氏物語と思われる物語の冊子作りが行われたとの記述があり、そのころには源氏物語のそれなりの部分が完成していたと考えられる」こともあって、今年は「源氏物語千年紀」の年に当たるそうである:
源氏物語千年紀委員会

 学生時代や失業時代など、本の購入が侭ならない時期は小生、比較的古典を読むことが多い(余儀ない事情で!)。
 今年が丁度、「源氏物語千年紀」の年に当たるというのなら、原書は今は無理としても、訳だけはせっかくなので一度は読み通したい。

 小生、長編小説はこれまでも幾つかは読んできた。ドストエフスキーの長編は『カラマーゾフの兄弟』も含め、全作品共に少なくとも三度ずつは読んでいる。
 トルストイの『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』、マンの『魔の山』、ショーロホフの『静かなるドン』、ジョイスなどなど。
 残念ながら、プルーストの『失われた時を求めて』は、全体の半分を超えるほどか。セルバンテスの『ドン・キホーテ』も半分ほどで頓挫。
 が、『源氏物語』は現代語訳ですら、半分どころか十分の一も読んだかどうか定かではない。
 原書には挑戦したことすらない!
 どうも、『源氏物語』などの日本の古典にはコンプレックスがある。
 なんたって日本の本である。
 古典とはいえ、日本語の文章のはず。
 でも、学校では古典は苦手だった(漢文は好きだったが)。
 読めない! 日本語なのにすらすら読めない、そんなコンプレックスがあって、特に『源氏物語』には手が出なかった。
 手が出ない理由は、人物関係が錯綜していて、人間関係には極端に弱い小生には、冒頭の数章で早くも理解不能状態に陥ってしまう。

Yosano

→ 『カラー版 日本文学全集 源氏物語 下巻』(河出書房) (画像は、「与謝野晶子」より。) 本巻には、日本画家・新井勝利画伯のカラー挿画が所収となっている。残念ながら、ネットでは同氏の挿画画像を見つけられなかった。「田辺聖子 源氏物語 - 農作業メモ - 」参照のこと。

 ……。
 しかし、実は他にも理由がある。
 そう、光源氏へのコンプレックスである。古今無比の美男子の色恋話である(かどうかは分からない。作品の冒頭には光源氏は女性には控えめだった旨の断りがあるが、どうも、作者のエクスキューズに思えてならない)。
 色恋のヒーローの話は嫌いじゃないし、実際、光源氏なりに深い苦しみもあるのだろうが、しかし、あまりに非現実的な存在過ぎるし、もて過ぎる。身分が貴すぎる。
 要は女性(の書き手)には、色彩豊かな世界を自在に描けるのだろうが、どこまでも女性の理想の男性像に思える。
 その理想像には小生などははしにもかからない。女性の眼が、本音がそんな男性に向っているなら世の大半の男性は、実生活上の必要悪ならぬ必要随伴物に過ぎないってことがみえみえになってしまう。
 でも、まあ、この点は男も女も相身互いか。

 具にも付かないことを書き連ねてきたが、ということで(何がということなのか、自分でも分からないが)、『新集 世界の文学 30 ジョイス』を読み終える前日、『カラー版 日本文学全集 源氏物語 上・下』(河出書房)を書棚の奥の奥から引っ張り出しておいたのである。

 そして、ジョイスワールドを堪能した余勢を駆って(?)、与謝野晶子訳の『源氏物語』を今日から読み出した次第である。
 小生はちびちびと読むほうなので、この大部の物語を源氏物語千年紀の年内に読み終えられるか、否、最後まで辿り着けるかどうかすら覚束ないが、まあ、ゆっくりじっくり楽しみたい。

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コメント

僕は京都の「源氏物語千年紀」の展覧会行きそこなったので横浜の「源氏物語の1000年」心待ちにしています。混雑するだろうなー。
さて僕の高校では文化系の三年生は古典の授業は古文三単位、漢文一単位を選択するのが普通だったのですが、先生は週三時間の授業のうち二時間を源氏に充てていました。
高校二年までは全く読まずに三年でまとめて読む、人物関係なんかが複雑だから効果的。
さて、今源氏をお読みになるなら上半分が原文、下半分が翻訳というのを使ったらいかがでしょうか?

投稿: oki | 2008/07/07 22:06

okiさん

偶然ですね。小生、昨夜、間もなく開催となるせっせと下記の展覧会についてのメモを綴ってました:
「源氏物語」…あこがれの王朝ロマン

okiさんの高校はやはりレベルが高いんですね。受験生(高3)の大半は合格レベルに達する実力は既に備わっている…なので敢えて独自の授業もできるということなのでしょうね。

いま、ちびりちびりと与謝野晶子訳を読んでいる。案外と続けて読めそう。
人間関係の複雑さにはまいる。近親相姦なんて目じゃない世界だね。臣下の愛人や妻を寝取るのも平気な世界。
これが王朝なんだなって、低俗な読み方になってしまう。
俗人ですね。

投稿: やいっち | 2008/07/08 10:55

夕方、テレビのニュースでも放送されていたけど、さすが今年は源氏物語千年紀なのか、関連する話題が:
「源氏物語:全巻写本「大沢本」を発見 鎌倉中期の古い巻も」
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080722k0000m040091000c.html
 「大沢本」として存在は知られながら70年近く行方不明だった「源氏物語」全巻の写本が個人宅に所蔵されていたことが分かった。所有者の調査依頼を受けた国文学研究資料館の伊井春樹館長が大沢本と確認し、21日に大阪府立大で開かれた講演会で発表した。中には鎌倉中期の写しと推測される古い巻もあるといい、伊井さんは「重要文化財級の貴重な資料」としている。

 大沢本は、大沢という人物が豊臣秀吉より拝領したと伝えられ、明治以降度々の鑑定を受けたが、太平洋戦争前後にこつ然と姿を消した。

 大沢本を最初に鑑定したのは、明治期の古典研究家、小杉※邨(すぎむら)。小杉の覚書「鑑定雑記」を調べている伊井さんは、1907年11月に「大沢氏の子孫が持ち込んだ『源氏』写本を鑑定」という記述を発見し、かねて興味を抱いていた。また、源氏学者の池田亀鑑は40年ごろに大沢氏蔵の写本を見たが「十分な調査が出来ないまま、大戦をはさんで行方不明になった」と書き残している。今回、「源氏」本文と共に小杉らの鑑定書も見つかり、「鑑定雑記」の記述と一致することから大沢本と認められた。

 大沢本は全54帖がそろっているが、一度に写されたものではなく、不足分をかき集めた「取り合わせ本」。鎌倉中期の写本も含め、室町末期に体裁が整えられたらしい。

 「源氏」は原典が残っておらず、写本には藤原定家校訂の「青表紙本」、「河内本」の2系統と、どちらにも属さない「別本」がある。大沢本は約半数を別本が占め、例えば「夕霧」巻の末尾は「なにはの浦に」となっているが、この文言が付いた本文は、ほかに例がない。「詳細な研究はこれからだが、流布している『源氏』とは違う世界が見えてくるかもしれない」と伊井さんは期待する。現在の所有者は、大沢氏とは無縁の個人。現段階で公開の予定はない。

 異本に詳しい加藤洋介・大阪大准教授は「『源氏』が記録に現れて千年たつのを機に、写本の存在が相次いで確認されているのは喜ばしい。大沢本は質量ともに、近年まれに見る出物。室町期にどんな系統の本が読まれていたかを推測する手がかりになる」と話している。
          【斉藤希史子、手塚さや香】
          ※は「木」へんに「囚」+「皿」
                  (以上、転記終り)
今、読んでいる与謝野晶子訳『源氏物語 上下巻』の上巻は、なんとか今週一杯には読了できそう。

投稿: やいっち | 2008/07/21 22:10

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