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2008/07/20

汗水垂らして御簾(みす)のこと?

[今朝、我が家で取っている読売新聞に「簾」が特集されていた。すわ、拙稿が参考にされた? なんて一瞬、思ったが、本稿は、08/07/17に書いたものだが、他の記事を先行していてアップが若干、遅れてしまっていた。取り急ぎ、アップさせておく。 (08/07/20 記)]

 過日より、与謝野晶子訳『源氏物語』を牛車の歩みで…じゃなく牛歩のペースで読んでいる。
 牛歩となってしまうのは、日々が慌しく、ゆっくり読書に耽る余裕がないこともあるが、先日来の暑さに辟易している故でもある。

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→ 「ヨ シ ズ」 (画像は、「ヨシズ・スダレ」より。)

 読み出すと最後までというのが小生の主義なので、寝床でも就寝前には読みたいのだが、何せこの本(『カラー版 日本文学全集 源氏物語 上・下』(与謝野晶子訳 河出書房))、重過ぎる。
 寝床で手で支えて読むのはちょっと難しい。

 で、寝床では別の本を読み始めた。
 それはロベルト・ムージル著の『特性のない男』(加藤二郎/ 柳川成男/北野富志雄/川村二郎訳 河出書房)である。

 これは三十年ほど前に若さの勢いで読んだもの。当時はどんな本もとにかく読みきること自体が目的になっているようなガムシャラなところがあって、急峻な斜面を下を決して見ないようにして登るような感覚だけがあった。
 今回は、日にせいぜい二十頁ほどしか読み進められないので、せっかちな小生も本書に向き合わざるを得ないところがある(『特性のない男』については、後日、簡単な感想文を書くつもりでいる)。

 日中は『源氏物語』、夜半を回っては『特性のない男』を、日に同時並行して読むってのも、妙なもの。せめて、『源氏物語』と『失われた時を求めて』との同時並行なら乙だったのかもしれないが。

 さて、与謝野晶子訳『源氏物語』だが、当初は今年の秋までに読み終えられるか、いやその前に読みきることができるかと危ぶんでいたのだが、与謝野晶子訳に馴れたこともあってか、複雑な人物群像に頭が混線してしまうのではという懸念も杞憂に終わっていて、既に上巻の半分以上、ということは全体の四分の一を楽しみつつ読めている。
 光源氏を碌でもない奴と思いつつも、紫式部がどういう意図でこういう作品を、あるいはこういう人物像を描いたのか、その謎を少しでも解きたくて、牛車に乗って、風景を愛でつつ歩んでいる。

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← 「御殿簾(座敷簾)」 (画像は、「掛 簾(近江葭掛簾)」より。)

 読んでいて気がつくことはいろいろある。「青簾、玉簾、簾簾、玻璃簾、絵簾、簾売、古簾」などだと俳句での夏の季語となるが、余談ということで、今回は「御簾(みす)」をチラッとだけ。
 
 源氏物語の世界というか宮中の世界というと、もう御簾とは切っても切れない関係にある。
 文体もだが、雅の世界には身分や人間関係や血筋や情念や時代が複雑に濃厚に絡み合っていて、しかも常時、新陳代謝ではないが、特に身分や地位は変貌する。地位が変わると、様相がガラッと変わってしまう。

 それは花の美の多彩さでもあり緑の濃淡でもあり、影(闇)の陰影でもあり、情念の鬱屈さの度合いでもあり、感情自体の移ろいやすさでもあり、風の音にも驚かれぬる人の情の脆さと執念の凄まじさでもあり、思惑の錯綜ぶりでもあり、その全てが御簾越しだったり、御簾と御簾や柱や透垣(すいがい)や屏風や几帳(きちょう)や庭の植木や壁や塀との間(透き間)越しだったりといった光景と符合し並行し、ねじれの関係にあったりする。

 ねじれの中心には光源氏が、さらにはもっとやんごとなき方があるわけだが、むしろ、それはソリトン波や渦潮、あるいは台風の目のようなもので、あるといえば厳然としてあり、しかし、数式の中の「X(エックス)」のように捉えどころがないこと甚だしい。
 誰もが頂点を意識するが、頂点は次の頂点を意識する…とは、つまりは背景への没入(退場)を頂点に立ったその時点から自覚させられる。
 文化。美。学芸などの技(わざ)。色恋。権力。権威。その全ての共通項は、盲目的な自己目的化だろう。
 美のための美。権威のための権威。意味のない意味。根拠のない自負。つまりは無への恐怖それとも過信だろうか。
 その全てが屏風や障子や御簾や塀や板壁などによって仕切られ綾取られる。つまり、絶えざる自己分裂を宿命付けられた個別のセルに細分化されていく。

 御簾越しだからといって、曖昧かというと、逆に、簾の透き間から垣間見える陰影に想像力が、妄想が際限もなく膨らんでしまう。

 さて、せっかくなので、御簾を含め簾(すだれ)について一応の知識を仕入れておこう。

すだれ(簾)|日本文化いろは事典」:

簾は、日差しを避けつつ風を通すという、一石二鳥の便利な道具です。現在でも和風の住宅では主に窓の外に外掛け用として使われています。
(中略)
簾は、非常に古い歴史を持っています。簾という言葉は万葉集にも登場しています。
平安時代の貴族の住宅では、現在のドア・引き戸のような部屋同士の仕切りが無く、御簾〔みす〕と呼ばれる、現在の簾の原型となるものを使っていました。基本的な形はほとんど変わっていませんが、「御」という接頭語が示すように、現在のすだれに布地でできた縁をつけ、房を垂らした高級なものでした。現在は竹や葦〔よし〕と、紐だけのシンプルなものが主流です
(中略)
平安時代の寝殿造りの住宅では、簾台〔れんだい〕(簾を掛けるための木の枠。簾をかけたものを目隠しや仕切りとして使用した。)に掛けたり、長押〔なげし〕(障子や襖〔ふすま〕の上や和室の柱と柱の間に架かっている横材)にかけて使用していました。

簾(すだれ) - 語源由来辞典」:

すだれは、「簀(す)」+「垂れ(だれ)」で、すだれを単に「 す」と言うこともある。 「簀(す)」は、蒸籠(せいろう)や巻き寿司をつくる際に用いられる割り竹を並べて編んだもので、これは「すだれ」とも呼ばれる。
また、貴人や神仏の前に垂らすすだれは「御簾(みす)」と言う。 「簀(す)」の語源は、「隙」「透く」など「隙間があるもの」の多くに使われる「す」で、これらは全て同源と考えられる。

 これ以上の知識は、上掲のサイトや下記のサイトを参照願おう:
すだれ資料館
ヨシズ・スダレ
掛 簾(近江葭掛簾)
簾 すだれ

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→ 画像は、「すだれ資料館」の中の、「ようこそ、すだれ資料館へ」より。

 つい先日、西日の当たる我が部屋のあまりの暑さに辟易して、かといってエアコンを買うカネもなく、ほとんど腐りかけた簾(すだれ)を引っ張り出してきた。
 というか、春先に蔵から邪魔だとばかりに引っ張り出したのだが、捨てるのは勿体無くて縁側の隅っこに仕舞っておいたのだ。
 で、西日の当たる窓を遮蔽したくて、炎天下、汗水垂らして家の隅っこにある我が部屋の外に簾を庇の裏に釘を打ち付けたりしてぶら下げたのである(拙宅の簾を垂らした光景は、「スーパーのレジにて」なる記事中の画像を参照のこと)。

 さすがにかびて腐り始めた簾では、御簾とは呼びがたいが、まあ、気分は御簾に囲まれた部屋にいる我輩なのである。
 簾の垂れ下がった光景を見て、そういえば、小生、今、『源氏物語』を読んでいる…ことに思い当たった。

 小説の中では随所で、というより、簾のある光景が出てこない場面はないのではと思えるほどに、雅の世界と簾とは縁が深いと、遅まきながら気付かされた次第なのである。
 結果的には絶妙のタイミングで『源氏物語』を読んでいることになるわけだ。

 ということで、冒頭の一文に繋がる。

                      (08/07/17作)

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