ジョイス…架空のイメージとの遭遇(承前)
さて、余談が長くなった。
書棚で目にしたのは、『新集 世界の文学 30 ジョイス』(高松雄一/永川玲二訳 中央公論社)である。昭和47年の刊行だが、小生が入手したのは古書店で。
読んだのは学生時代の終わりごろだったような。
← 『ザ・デッド ―ダブリン市民より―』 (画像は、「ザ・デッド ―ダブリン市民より― ジョン・ヒューストン監督作品」より。) 「ジェイムズ・ジョイスの短篇が、華麗に、香気豊かに映像化された――」というが、一体、どんな映画なのか。今回、『ダブリン市民』の短編の数々の魅力を賞味して、改めて関心が沸き立った。
その頃は、内外を問わず、腕ずく力尽くで哲学や文学などの本を読み漁っていた。とにかく読み倒す。分かろうが面白くなかろうが、一旦、手にした本は図書館のものであれ借りたものであれ買ったものであれ、最後まで意地でも読み通す。
読了した…。山を征服した…感覚…?
登ればいいってもんじゃない。登ったはいいが、高山病に罹って、意識朦朧としたままに下界へ一気に転げ落ちていくばかりでは恥ずかしいばかりである。
本書についても、面白いと思った記憶がない。でも、読破したのは間違いない。
本書には、『ダブリン市民』と『若い芸術家の肖像』の二作品が所収となっている。
悲しいことに、『ダブリン市民』については(『若い芸術家の肖像』についても当時については!)全く、印象が残っていない。
この作品がこんな短編集だったってこと、しかも、一つ一つに苦味やペーソス、アイロニーがあること、中には不条理劇風な結末となっている作品もあって、じっくり読むに相応しい本だったと今頃になって気付いた。
家庭の事情で本を読むためのまとまった時間はない。日々の中から掻き削るようにして数頁ずつ読み、大作ではないのに「ダブリン市民」は一週間も読むのに要した。
この本、実は、ジョイスのある本が愛読書になって以来、ジョイスの本を一通りは読みたいと思いつつも、今回まで読めずにきたもの。
が、「ダブリン市民」単独の形で所収となっている文庫本が、運が悪かったのか、なかなか書店では見つからない。
どんな本なのか気になっていたのだ。
…そう、ずっと昔、三十年ほど前に読了していたことを失念してしまっている!
感想は書かないが、ジョイスのダブリンやケルトやアイルランドへの思いが、あるいは少年の頃に観た世界への愛惜の念が強く感じられ、つくづく読んでよかったと思った。
さて、ある本が愛読書になっていると書いたが、それが『若い芸術家の肖像』である。
これも、30年ほど前に「ダブリン市民」と共に読んだはずだが、感銘も何も、読み終えたという満足感だけで次の本へ移って行ってしまった。
この『若い芸術家の肖像』を新潮文庫版で読んだのはもう十数年の昔になる。
その時、学生の頃、本書を読んだことを覚えていたかどうか。
一読して魅せられてしまった。
確か、柳瀬尚紀による『フィネガンズ・ウェイク』が出て、これもある意味、腕力で読んだのだが、ただ、彼の作品への関心が湧いて、書店で『若い芸術家の肖像』を見つけ、何故か(これは既に愛読書となっていた)リルケの『マルテの手記』と相次いで読んだのだった。
「若い芸術家の肖像」というが、どうしてこんな書き出しなのだろう。何が芸術家の肖像なのだろうと、いぶかしい思いを抱きつつもジョイスの描写の力に引きずられて読み進めると、突然、ストンとああこれなのだ! と気付かされる。
ある瞬間、小説の主人公のある少年が自分が他の誰とも違う世界を生きつつある、違う次元を孤独に生きなければならない、他人とその世界を分かち合うのは至難…ほとんど不可能を予感させる、そんな世界を生き、しかも表現しなければならない思いに駆られている自分に気付く…。
この瞬間の気付き(の記述)は、いつ読んでも美しい。
→ ジョイス作『若い芸術家の肖像』(大澤正佳 訳 岩波文庫) (画像は、「文庫本大好き-岩波文庫コレクション 若い芸術家の肖像(ジョイス)」より。) 小生は、本ブログで紹介している中公版以外では、丸谷 才一訳の『若い芸術家の肖像』(新潮文庫版)で二度、読んだことがある。
昔、ある文学者は、美を前にして時よ止まれ的なことを言ったらしいが、独創的な文学者(表現者)はある日ある時、そんなセンス・オブ・ワンダーの念を抱く。
そして同時に孤独の海を独り漂流することを運命付けられていることを自覚する。
そんな世界を隣近所の誰彼と容易に分かち合うとか共感し合うというわけにはいかないのだ。
せっかくなので、『若い芸術家の肖像』から、その瞬間を叙述したくだり(のうちの一つ)を転記する:
(前略)しばらくまえから家庭内にかすかな変化が感じられたし、変わることはありえないと思いこんでいた状況のそうした変化は、子供っぽい彼の世界像に無数の小さな衝撃を与えた。彼の野心も、ときどき魂の闇のなかで頭をもたげるのを感じるだけで、出口をもとめようとしない。内部の世界と外界とを同じようにつつみこんでいる暗がりのなかで、彼の耳にはロック・ロードの馬車道を走る雌馬のひづめのとどろきと、自分のうしろで揺れている大きな缶のがちゃがちゃ鳴る音がひびいていた。
ふたたび彼はメルセデスを思いうかべ、彼女のイメージをじっと見つめているうちに妙に不安な衝動が彼の血の中に忍びこんだ。ときどき一種の熱病が彼の体内に湧きおこり、ひとりで彼は暮れがたの静かな大通りにさまよい出る。そこここの平和そうな庭や、やさしい光のもれる窓が、おちつかない彼の心になごやかな空気をそそぎこむ。遊んでいる子供たちの騒音は彼をうんざりさせ、その愚かしい声をきいていると、クロンゴウズですでに感じていたがいっそう痛切にうかんでくる。自分は彼らとは違った種類の人間なんだ。自分は遊ぼうと思わない。自分の望みは、たえず魂の目にうかぶあの架空のイメージに、現実の世界のなかで出会うことだ。いったいどこで、どうすれば出会えるものか、それはよく判らないが、自分をみちびいてくれる予感によれば、こちらから露骨な行動をとらなくても、あのイメージのほうがやがて自分に会いにくるはずだ。ふたりは静かに出会うだろう。むかしからの知り合いみたいに。あらかじめ待ちあわせの約束でもしてあったみたいに。場所はどこかの門のそばか、もっと人目のないところか。そこにいるのはふたりだけ、あたりはすべて暗闇と静寂につつまれているだろう。その限りない優しさの瞬間に自分はきっと生まれかわる。みつめる彼女の目のまえで自分はとらえどころのない空気みたいに稀薄になり、次の瞬間、たちまちめざましく変貌する。弱さも臆病さも無経験も魔術のようなその一瞬にすべてけしとんでくれるだろう。 (永川玲二訳)
しかしながら、少年のスティーヴン・ディーダラスは、このあとすぐ甘く、且つ苦い体験をする。街の女との遭遇。目くるめく甘美の体験。そして宗教的煩悶と精神的奈落の底へ。
「自分の望みは、たえず魂の目にうかぶあの架空のイメージに、現実の世界のなかで出会うこと」であるとしても、それを実践しえるためには、幾つもの試練を乗り越えないといけない。
ドラマははじまったばかりなのである。
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コメント
またまた興味あるところです。先日来手元に十代に買ったジョイスの二冊のパーパーバックが積まれています。双方とも二百ページほどなので到底一週間では無理と思っていますが、ダブりナーを一章づつでも読んでみようかとも考えてます。
投稿: pfaelzerwein | 2008/07/02 14:16
pfaelzerweinさん
ダブりナー、それぞれの短編が味がある。フィネガンズで大作の書き手ってイメージ(先入観というか偏見)に染められていた小生、ホント、発見でした。
短編の積み重ねで子供の頃の(記憶の中の)ダブリン(市民)を描く。
ああ、この先に長編があるんだなって再認識させられました。
原書で読むのは億劫、且つ小説の読み手としては?マークの付く小生、pfaelzerweinさんの読みに期待です。
それはそれとして、「芸術家の肖像」はさすが。読むたびに新鮮。
投稿: やいっち | 2008/07/03 09:58