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2008/07/29

「富山の薬売りと薩摩藩」の周辺

 magnoriaさんの「富山の薬売りと薩摩藩」という記事の題名に瞠目(大袈裟?)!
 何ゆえ、「富山の薬売り」と「薩摩藩」とが併記されるのか。

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→ 「社会評論社 玉川信明セレクション 日本アウトロー烈傳 第3巻 越中富山の薬売り 反魂丹の文化史 玉川信明

 記事に拠ると、以下のようにある:

文政十一年のスパイ合戦 検証・なぞのシーボルト事件」(秦新二 文春文庫)を読んで、薩摩藩が輸入した薬を富山の薬売りが独占的に扱い、薩摩藩と富山藩の間にはそのための特別なルートが出来上がっていたということを知った。

 小生、こう見えても(どう見えているのか分からないが)、富山生まれで今現在、富山在住。
 約36年間、富山を離れていたとはいえ、心は富山に置きっ放し(これも若干の嘘があるが、この際、等閑視する)。
 親戚に薬売りを生業(なりわい)にされている方も居た(今も、後継者の方がされているのかどうか分からない)。
 当然ながら、売薬さん(富山の薬売り)について多少なりとも調べて見たことがある。

 ある記事(「国見弥一の銀嶺便り」の後欄無駄)の中で、「富山のくすりやさん」という頁(ホームページ:「大同製薬 とやまのくすり」)を紹介したこともある。

風船から安本丹へ」という間接的にだが、売薬さんに関連する記事を書いたこともある。

 けれど、「富山の薬売りと薩摩藩」の関係に付いては全く知らなかった。
 上掲の「富山の薬売りと薩摩藩」にはさらに以下のようにある:

 富山の薬売りたちは、薩摩から薬を移入し、それを日本国中に販売する組織を作り上げていた。それは薩摩組と呼ばれ、薩摩組は見返りに昆布と情報を薩摩藩に与えていた。日本国中から薩摩に昆布を運んでいたのです。

 その上で、下記のサイトを紹介してくれている:
富山商工会議所 会報「商工とやま」 平成19年5月号 特集 薬都・とやま 300年以上の歴史と価値を再発見しよう! 其の一 富山売薬のはじまりと発展

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← 三代目豊国「薬うり直介」 (画像は、「お江戸今昔堂 富山の薬売りと反魂丹」より。)

 売薬さんの歴史(富山の薬の代名詞でもある「反魂丹」の歴史)については、「薬都・とやま 300年以上の歴史と価値を再発見しよう! 其の一 富山売薬のはじまりと発展」や「富山のくすりやさん」などを参照してもらおう。
 ここではまず「全国に散らばる仲間組」に注目する。
 そもそも売薬さんが地方へ(他藩へ)出て行くこと自体が困難だった:

 富山の薬は藩を越えた「輸入品」であったために、旅先での営業には各藩の鑑札(許可)を受ける必要がありました。他国からの売薬商人が藩内で行商をすることを制限する入国統制を行なっていたのです。富山の売薬商人たちの全国への行商は、仲間組によって厳重に管理されていました。鑑札は個人ではなく、地域毎に組織された仲間組を通して旅先藩と交渉がもたれ、仲間組に与えられていました。安政期(1854~60)には、信州組、関東組、美濃組、五畿内組、九州組、薩摩組、南部組、越後組など22の仲間組があったといいます。幕末の頃には富山藩には2000人以上、加賀藩の領域と合わせると3000人以上の売薬さんが活躍し、日本一の規模を誇っていました。

 この全国に散らばる仲間組の中に薩摩組があったわけだ。

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→ 後醍醐天皇を奉じたる名和長年(富山売薬版画) (出典:富山県立図書館所蔵) (画像は、「お江戸今昔堂 富山の薬売りと反魂丹」より。) 「富山売薬版画」については、「富山売薬のはじまりと発展」中の「売薬版画と進物」なる項を参照のこと。

 売薬事業の育成発展には富山藩の積極的な支援があったことは言うまでもない。
 さて、本稿の本題である、「薩摩藩と昆布ロードと薬の輸入」なる項目に移る:

 旅先藩での売薬の営業差し止めを避けるために、各地で藩経済のプラスになるような対策が必要とされました。中でも薩摩藩との取り引きには、富山ならではの特徴があります。薩摩組の売薬商人たちは、薩摩では手に入りにくい北海道松前の昆布を、太平洋側ルートや日本海側ルートを通って遥か日本の最南端の薩摩まで北前船で送りました。昆布貿易によって薩摩藩に利益を与えることで、薩摩での行商を続けることができたのです。さらに薩摩藩に送られた昆布は琉球を経由して中国へと輸出され、中国からは逆に薬の原料が輸入されました。鎖国時代にあって、長崎という窓口を通さずに輸入することで、薬の原料を安く大量に輸入することができたのです。

 興味が尽きないので、さらに調べてみた。
 すると、薩摩組の売薬商人たちは塗炭の苦しみを乗り越えてきたことが分かった。富山藩と薩摩藩がすんなりコミュニケートできたわけではなかったのだ。
「薩摩藩は、他国者を寄せつけぬ閉鎖的な土地柄であった」ことは、幕末の歴史好きな方ならずとも常識だろう。
 しかも、富山は浄土真宗王国の土地柄である。一方、「「浄土真宗は平等思想、信者らの団結は強い、それでは藩内の統一、領民らの思想統制に障害をきたす」という」という薩摩藩との交流なのだ。
 至難を極めないわけがない!

 どんなドラマがあったのか。

置き薬>置き薬用語集>差し止め(さしとめ)」なる頁(ホームページ:「置き薬ネット」)の記述が興味深いし参考になる。
 ここでは冒頭の一節だけ転記させてもらうが、富山のみならず、歴史のドラマを知りたい人にも面白い頁だろう:

反魂丹を始めとする、越中富山のくすりは、満足にくすりを飲めなかった江戸時代の人たちの多くの命を救い、固く国境を閉ざしていた諸藩も、富山の売薬さんにだけは、関所の通行を許しました。しかし、諸藩の財政が苦しくなると、売薬さんが富山へ持ち帰るお金が多いのを快く思わず、差し止めといって、売薬さんが領内で商いをするのを禁止しました。特に、薩摩藩(鹿児島県)は記録によると、天明元年から明治6年までの92年間に9回、延べ23年間にわたって差し止めを受けている。薩摩藩での商いは受難の歴史であり、苦闘の連続であったといってよい。

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← 「反魂丹御免札」 (画像は、「お江戸今昔堂 富山の薬売りと反魂丹」より。)

 富山…特に東部の地域は商売人の気風が昔から強いという土地柄。文化よりも商売・実利。
 けれど、こうした先人の歴史のほんの一端をでも知ると、商売・商業の歴史にも深い敬意を払わざるを得ないのである。
 
 ところで、「売薬の発展を培った風土」ということで、「売薬商人の出身地は、富山を中心に、かつてたびかさなる洪水の被害を受けていた地域で、滑川、水橋、東岩瀬、四方などがあげられます。北アルプスの山々から一気に流れ下る急流河川によって頻繁だった洪水や冬場の積雪などから、これらの地域では出稼ぎが重要な生活手段となっていました」とある。
 しかし、だからといって、ダイレクトに薬業に結びつくわけではない。
 商売は他にもいろいろ考えられるはずであろう。

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→ 「立山之宝護符」(出典:富山県立図書館所蔵) (画像典拠は、「お江戸今昔堂 富山の薬売りと反魂丹」。)

 調べてみたら、「会報「商工とやま」平成13年6月号 立山と富山(1) 立山と富山薬業 立山博物館 顧問  廣瀬 誠(元県立図書館館長) 」という恰好の頁があった。
 ここではもう深入りしないが、佐伯有頼の立山開山神話に既に薬業の源泉を示す逸話があったのである。実際、薬を売り歩いたのも、富山の場合、立山の修験僧だったのである(「お江戸今昔堂 富山の薬売りと反魂丹」参照)。
 千年以上の歴史を土壌として富山の薬売りや薬業が今日あるわけだ。

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