マンディアルグ "オートバイ " の周囲を舐めてみる
ピエール・ド・マンディアルグ著『オートバイ』(生田 耕作訳、白水社)を恐らくは四半世紀ぶりに読んだ。
一昨年の暮れ、「マンディアルグ形而上下の愛に生き」なる拙文を書いたことがある。
但し、これはマンディアルグの忌日を契機にしてのもの。
今更、感想文を書くという気にはなれない。
→ 「ハーレーダビッドソンFLH1200・エレクトラグライド ショベルヘッド」 映画や小説に登場するバイクと全く同一タイプかどうか不明。色合いも、さて。ショベルヘッドの「ショベル」とは、「ロッカーアームのカバーが「ショベル」に似ているところからニックネーム的に付けられてい」るとか。詳しくは、「ハーレーダビッドソン ショベルヘッドとは?」にて。
以下、マンディアルグ『オートバイ』の、あくまで周辺をウロウロするので、本文(駄文)に進む前に、参考になるサイトを示しておく。
例えば、下記など:
「異端者の哀しみ ~マンディアルグ『オートバイ』論~ 松浦綾夫」
映画の『あの胸にもういちど』に事寄せて:
「883R :blog [パパサンアール・ブログ] 峰 不二子と、ハーレーダビッドソン」
マンディアルグの『オートバイ』で主人公というか語り手(モノローグ)のレベッカが駆るのは、「883R :blog [パパサンアール・ブログ] 峰 不二子と、ハーレーダビッドソン」によると、「ハーレーダビッドソンFLH1200・エレクトラグライド(ショベルヘッド)」。
小生は、少なくとも日本ではハーレーダビッドソンに乗りたいと思ったことがないし、誰彼が乗っているのを見て格好いいと感じたこともない。
日本の狭苦しい風景にはとてもじゃないが、似合わない(日本人にも)。
最近は都会などで格好でハーレーダビッドソンに跨る人も見受けられるけれど(人の勝手とはいえ)、ただの贅沢趣味か外見だけ、気分だけを味わっているようで、邪道(大袈裟!)なような気がする。
でも、アメリカ大陸とかオーストラリア大陸でだったなら、カウリング(風防)のないハーレーダビッドソンを何処までも淡々と駆ってみたいと思う。
小説に描かれている舞台の一つであるドイツのアウトバーンにも似合わないバイクだと思うのだ。
但し、映画の中では、小生が若かったこともあってか、格好いいってことより、セクシーさ、エロチックなものを嗅ぎ取っていた。
せっかくなので、バイクに付いて一言、贅言しておく。
そう、オートバイは、ファルス(phallus)あるいは「リンガ」(Lingam)そのものなのだろう。
エレクトラグライドの「エレクトラ」は、フロイトなんてのを一時期でも読み浸った人なら(性的コンプレックスに無縁ではない人間なら、つまりは全ての人間が…ってことになるが)意味合いを説明する必要もないだろう。エレクトラグライドの「グライド」も、「glide」で、滑る、滑空する…って意味だし(何処を滑る? 路面を? どの路面を?)、何処か「grind(グラインド)」という言葉にニュアンス的に近いものがあったりして、まあ、バイクの種類からして前の部分の膨れ上がった(ショベルヘッド!)、表面が滑(ぬめ)って滑らかなファルス(phallus)を舐めるように疾駆して恍惚の海に沈没したって、これはまさに女を描いているようで、あくまで男が妄想する女だということをまざまざと露呈している。男ならともかく女が呆気なく一度の恍惚で海の底に沈みっ放し(宙に舞い上がったまま)ってことはありえない…ように思うが、いかがだろう。
そう、だから、あくまで男の妄想小説なのだろう。だからどうっていうわけじゃないが。
ただ、女性が女性のエロスを描いたなら、まるで違う世界を現出させるんだろうなって思う。誰か女性の書き手がミラー版の『オートバイ』を書いて欲しいな。期待を籠めて!
← 画像は、「Amazon.co.jp: あの胸にもういちど マリアンヌ・フェイスフル, アラン・ドロン, ロジャー・マットン, マリウス・ゴーリング, カトリーヌ・ジュールダン, ジャック・カーディフ DVD」より。
以下は、オートバイに関連して書いた拙文からの抜粋を幾つか示す。
(前略) でも、胸のうちに何か度し難いものが残り続けたのは、自分でも本能的に感じていたものと思う。
それがオートバイ熱という形で症状として現れたのではないかと思う。
オートバイに乗りたい。が、実際には、「オートバイ我が唯一のパートナー」でも書いたように、実にストイックな乗り方をしている。まるで自分が人生を楽しむことを拒否するような。
自分に楽しみなど与えてなるものかという乗り方。ひたすらロードを淡々と走るだけ。雨だろうがカンカン照りだろうが、とにかく終日、走り続ける。観光地へは行くが人とのかかわりは一切、持たない。風景を愛でるようでいて、風景など目に入っていない。
ただ、時間を不毛に蕩尽する、そのための道具としてオートバイがあるような。
一方、オートバイほどに形而上感覚を味あわせてくれるマシンはない。
形而上感覚とは、ぶっちゃけ、途方に暮れ呆然としているという感じだろうか。
「夜の底をどこまでも落ちていくような、それとも星と我とのみが対峙するような形而上感覚に覚えていた快感が、恐怖の的となってしまった。孤独が恐ろしくなった。狂気にギリギリ迫るような破れかぶれの姿勢がすっかり影を顰めてしまった」こともあったっけ。
今は、もう、形而上も下も麻痺してしまっているような。
一旦、ギアを噛ませる。するするとバイクは動き出す。
エンジンの力、ガソリンのパワーで走っているのだけれど、性能がいいから、そうしたメカニズムとは違う、異次元の力が直接、マシンに作用しているような感覚が襲ってきたりする。
ロードの彼方へ走り出したなら、そこあるのは奇妙な浮遊感。大地、というよりアスファルトやコンクリートの路面との接地面は、せいぜいが名刺大ほどのもの。
コーナリングで車体を傾けると、あるいは滑らかな路面を走り続けていると、ライダーズハイとはまた違う、得も言えぬ抽象的な感覚が体を満たす。
大袈裟に言えば、宇宙感覚とでも言うべきか。
淡々と、長々と、あくまで徒労感と疲労感との果ての、もう、これ以上走るのはうんざりだという感覚の果ての、痛点を越えた時点で初めて覚えることの出来る心的な宙吊り感覚。
映画『あの胸にもういちど』で、女が感じていたものは、恋人と会い期待する喜びの感覚ではなく、会えるまでのロング&ワインディングロードでの会えるまでのロードでの恍惚感なのであって、その恍惚感というのは、実際に会って舌を絡ませ、体を絡ませ、汗と汗を混じらせる感覚の喜びよりも時に万倍の喜悦だったりする。
女は男に会う前に行って(逝って)しまうという過ちを犯したのだ。
ロードにおいては、接して洩らさず、最後の最後のギリギリのところでの覚醒感が肝要なのだ。
人生はいつまでいっても、何処まで行っても途上である。
その途上感、決して到達することは有り得ない、頂上なき頂上への登頂を強いられている(あるいは敢えて求めている)極限感覚にこそライディングの齎す形而上感覚の醍醐味がある。
決して触れえぬ現実(愛や恋や肉体)と、それでいて、決して離れ去ることの出来ない柵(しがらみ)としての現実との、一歩、足を踏み外したなら死が待つという切羽詰る状況でこそまざまざと実感しえる相克の念。
(以上、拙稿「マンディアルグ形而上下の愛に生き」より抜粋。)
→ 一番好きだったバイクは、格好やエンジンフィーリングも含め、「XJ650ターボ」。ターボだったので、愛称はター坊!
(前略)台風がやってくるのもお構いなしで、俺はオートバイに跨って、一路、東京を目指した。台風との競争だった。台風より早く東名を走り切ること。無事に生還するには、風雨など無視して突っ走ることだ。
風が吹く。オートバイが揺れる。比喩ではなく、木の葉のように揺れまくる。狭いシールドの端の風景が飛び去っていく。真昼間なのに、宵闇の暗さだ。
雨がヘルメットのシールドを叩く。雨滴がシールドに礫のようにぶつかってくる。バシッバシッという雨滴の、容赦なく砕け散る音が耳を劈く。
ガーゴーという風の鳴る音も、タイヤの磨り減る音も、台風の風雨の中では、ただの伴奏だ。
痛切な孤独が俺を癒す。この世から逃げ去るような、それとも風雨の断崖に頭から突撃していくような。
タイヤが滑る。タイヤが鳴る。路面と、僅か名刺大ほどの接地で、かろうじてバイクは大地と繋がっている。悲鳴を上げるタイヤのゴムは、究極の命の絆なのだ。
ほんの些細な気まぐれが俺を、名実ともにあの世へ送ってくれる。ちょっと気を緩めればそれで済むこと。誰も見ていないのだ。誰に遠慮が要るわけじゃなし。
瀬戸際の孤独の中で、俺はアインシュタインの夢を見る。オートバイを無茶苦茶に加速させて、やがて速度は光速に達する。その瞬間、俺は身も心も解き放たれて、この世と和解することができるのだ。俺がこの世に触れることができるのは、その刹那にしかありえない。
黒い革のジャンパーを着て、あの胸にもう一度! と呟きながら、いや、ヘルメットの中で思いっきりあの人の名を叫びながら、俺は台風を尻目に走る。この世を睥睨する。俺の顔を見て顔を背けたあの人のもとへと突っ走る。ハンドルを握る手が緩む…。
しかし、本当の俺は臆病者なのだ。ハンドルにしがみついているのだ。この世にしがみついて、ブルブル震えているのだ。ションベンだってちびりそうなのだ。
何故にこうまでして、死線と見紛う白い線を辿るのか。アスファルトの路面に蜿蜒と繋がる骸骨の連鎖を踏みしだき続けるのか。
誰一人居ない世界。透明なパイプ。手を差し出せば触れられそうなのに、接触は禁忌されている。何処までいっても交わることのない、捩れの位置のマリオネット。出番を失ったピエロ。
平行線だって、交わることがありえるというのに。あの日、俺はあの人に接しえるはずのギリギリの位置に居たのだ。けれど、捻れた根性の故に、俺はあの人を思いながら、あの人から遠ざかっていく。あの人の居る世界が見えなくなる。砕け散る雨滴に掻き消されていく。
なのに、東京は遥か彼方だ。
(以上、拙作「誰がために走るのか」より抜粋。)
「オートバイ我が唯一のパートナー」
「馬橋パレード…オートバイとの別れ」
「マンディアルグ形而上下の愛に生き」
「誰がために走るのか」
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コメント
ご指摘の通り「ドイツのアウトバーンにも似合わないバイク」ですね。のろのろと走って、一人良い気分で憂き世離れしている馬鹿さ加減が格好よくない。
一般路上でも今一つですが、ありえるのはバイエルンの田舎道で革の民族衣装を着込んで、胸をはじき出したバイエルン娘を後ろに乗せた光景です。写真ではありそうでも実際には見た事無いですが。
自らはそれには分不相応ですし、BMWですらなんとなく大振りで、精々ホンダが相応と考えます。四輪のときには考えない体格というのが二輪にはありますね。
投稿: pfaelzerwein | 2008/06/11 16:59
pfaelzerweinさん
ハーレーは、やはり大陸的な感覚がマッチしないと見ているほうは違和感を覚えてしまう。
乗ってる連中は気分がいいんだろうけど、その自慢げなところがまた気に食わないというか。
ま、いいんですが。
>バイエルンの田舎道で革の民族衣装を着込んで、胸をはじき出したバイエルン娘を後ろに乗せた光景
小生としては、「胸をはじき出したバイエルン娘」だけでいいですから、見てみたいものです。
>四輪のときには考えない体格というのが二輪にはありますね。
痛い! 実は体格というより体型がネックで(89年末から急激に太り始めた)、オートバイを辞め、1991年から大人しいデザインのオートバイ、さらに1999年からはスクーターに切り替えたんです。
オートバイにデブは似合わない。
でも、ハーレーだと太っちょでも、マッチョだと言い張っていれば乗っていられる!
投稿: やいっち | 2008/06/11 20:12