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2008/06/02

読書拾遺……我がサドの時代

 久しぶりに読書拾遺を。

 ヴァルター・レニッヒ著の『サド侯爵』(飯塚信雄訳 ロ・ロ・ロ・モノグラフィー叢書 理想社)を読了した。刊行は72年だが、小生は80年版のものを入手している。

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→  ジャン・ジャック・ポーヴェール著『サド侯爵の生涯(1)  無垢から狂気へ 1740~1777 』(長谷泰訳 河出書房新社 )

 帰郷して書棚に並ぶ本の中から手当たり次第というわけではないが、興の赴くがままにピックアップして読んでいる。
 過日も日記で書いたが、ヘーゲルの『精神現象学』(長谷川宏訳 作品社)、徳田良仁著『芸術を創造する力』(紀伊國屋書店)、若桑みどり著『イメージを読む』(ちくまプリマーブックス)、横山裕之著『芸術の起源を探る』(朝日選書)、宮沢賢治著『ポラーノの広場』(新潮文庫)、そして本書といずれも少なくとも刊行されて10年から30年を経過している。

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← ヘーゲル著『精神現象学』(樫山欽四郎訳 河出書房新社 世界の大思想 12) (画像は、「大山堂書店 世界の大思想12 ヘーゲル 精神現象学」より) ショーペンハウアーが忌み嫌ったヘーゲル。近親憎悪的なほどに! ショーペンハウアーにはヘーゲル(の精神現象学)のような予定調和的世界など皆無。ショーペンハウアーは、彼の修行時代、世界を旅して回って、サドの描く世界が絵空事ではないことを目に焼きつけ胸に刻んだのだろう。相容れない立場の二人。けれど、樫山欽四郎訳のヘーゲルの『精神現象学』を苦労しつつ読みながら、『精神現象学』の根底にある種の神秘思想のようなものを嗅ぎ取っていた。ショーペンハウアーには相済まないが、二人には世界の底の闇の河という奔流のような何か通底するものがあると若い小生には感じられていたのだ。

 ヘーゲルの『精神現象学』以外は再読、再々読である(但し、長谷川宏訳では初めてだが、樫山欽四郎訳(河出書房新社 世界の大思想 12)で読んだことがある。自分が若かったせいもあるのか、樫山欽四郎訳を読んだ時のほうが読み応えを感じた)。

 富山に帰郷して入手したのは、レオナルド・サスキンド著『宇宙のランドスケープ』(林田陽子訳 日経BP社)と志治 美世子著の『ねじれ ―医療の光と影を越えて 』(集英社)の二冊。

 今は、寝床ではマンディアルグ著の『オートバイ』(生田耕作訳 白水社)を、ロッキングチェアーではショーペンハウアー著の『意志と表象としての世界』(西尾幹二訳 中央公論社)、外出の際には中谷宇吉郎の著作集を、何れもちびりちびり読んでいる。
 ショーペンハウアー著の『意志と表象としての世界』は、西尾幹二訳では恐らく二度目(あるいは三度目)で、他に何れも違う方の手になる訳書で三度読んだので、通算すると少なくとも今回で五回目の通読ということになる(高校の時、抜粋されたものを読んで嵌まってしまったようだ。白水社のショーペンハウアー全集も所蔵していて、大半は読んだ)。

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← 澁澤龍彦著『サド侯爵の生涯』(中公文庫)

 さて、ヴァルター・レニッヒ著の『サド侯爵』(飯塚信雄訳 理想社)は、80年に入手し、すぐに読了したはず。
 この年というと、ガス中毒事故があったりして、個人的にはエポック的な年だった。
 ガス中毒であわや死にそうになった、その前に読んだのか、それともあとだったかは記憶に定かではない。
 多分、手に取ったのは事故の前だったような気がする。
 事故のあと(あとから振り返ってみると、なのだが)、気力が随分と萎えた。
 正確に言うと、失恋して間もない頃にガス中毒事故があったわけで、気力の減退は事故の前からな訳で、とすると、やはりこの手の本を読めたのは事故の前だったと推測されるわけである。

 サド侯爵の本は高校のときか、いずれにしても大学生になった頃は定番の本は読み漁ったものである。
 定番の本というと言うまでもなく澁澤龍彦訳の『悪徳の栄え』や『悪徳の栄え(続)』で、学生なって間もない頃に逸早く手を出している。
 澁澤龍彦著の諸著も購入して、あるいは借りて読み漁った。
 但し、学生の頃、『悪徳の栄え』を読んで熱中したかというと、結構しんどかったという記憶があるばかりである。
 荒唐無稽に思えたし、自身が初心(うぶ)でもあった。

 記憶が曖昧なのだが、小生は角川文庫版の『悪徳の栄え』を新刊ではなく、古本屋で入手したような気がする。
 気恥ずかしくてなのか気が弱くてなのか、後ろめたくてだったのか、それとも単に新刊を買う経済力がなかっだけだったろうか。

 ヴァルター・レニッヒ著の『サド侯爵』(飯塚信雄訳 理想社)には、「サド伝を読むことの意義を説明した文章がある」ので、以下、「サド侯爵/ヴァルター・レニッヒ著、飯塚信雄訳」より転記させてもらう:

 サド侯爵の場合にはその生涯を、個人的な運命のあとをたどってみることが、他のいかなる人物におけるよりも大切である。 (中略)彼の作品はサドの個人的な運命の中から生まれてきたものであり、この操作なくしては彼の作品を理解することが困難なのだから。

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→ マルキ・ド・サド 著『悪徳の栄え 上』 (澁澤龍彦 訳 河出文庫)

 本書を28年ぶりに通読してみて、サド侯爵(の生涯)の凄みを再認識させられた。
 本書のほかにも伝記本といて、J-J・ポーヴェール 著の『サド侯爵の生涯Ⅰ』(長谷泰 訳 1998 河出書房新社)や澁澤龍彦 著の『サド侯爵の生涯』(1983 中公文庫)などがあるが、手っ取り早くサド侯爵の生涯を一瞥したいというなら、格好のサイトがある。
松岡正剛の千夜千冊『悪徳の栄え』マルキ・ド・サド」である。
 サドの「個人的な運命のあとをたどってみ」せてくれている。

 何と言っても、「サドは74歳におよんだ生涯の後半ほとんどを獄中で暮らした。たびたび収監され、ついで11年まるまるを監獄ヴァンセンヌと監獄バスティーユに連続幽囚された。それでいて大小50巻に達する書物に性的想像力の極みを言葉に移しおえた」のである。
「(前略)そんな時代の半分をサドは貴族の特権として性的狂乱に耽り、半分を貴族の権利を剥脱された者として獄中で性的妄想に耽った。
 投獄されたのは身から出た錆である。娼婦や乞食の少女を鞭でめった打ちし、下男とともに何人もの女に鶏姦を強いた。そうした度重なる性的乱行のせいだった」…。

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←  マルキ・ド・サド 著『悪徳の栄え 下』 (澁澤龍彦 訳  河出文庫 )

 侯爵にとっては必ずしも典型的な事例というわけではないが:

 こうして侯爵は、アルクイユ事件よりもさらに忌まわしいマルセイユ事件をおこす。1772年6月、サド32歳である。

 このとき、侯爵はラ・コストの城からマルセイユに赴き、十三番館という宿屋に泊まって下男に私娼を漁らせた。
 侯爵は青い裏地の灰色の燕尾服とオレンジ色の絹のチョッキに羽飾りの帽子をかぶり、長剣を腰に吊って金の丸い握りのステッキを手に待機した。私娼たちは4人調達されていた。
 侯爵は一人ずつ選んで別室に呼び入れ、カンタリスという催淫剤をのませて鞭打ちを始めた。さらに「うしろから交わらせば1ルイをやる」と言ったが、娼婦たちは嫌がった。しかし公爵はこれを次々にくりかえした。マリアンヌを相手にしたときは自分を鞭で打てと命じた。マリエットに鞭打たせたときは、打たれるたびに声を上げ、その数を暖炉の煙突にナイフで刻みつけた。ローズのときは下男と鶏姦させ、ローズのときは下男と正常位で交わらせ、侯爵は女に鞭を打った。さらに数人と下男と一緒に姦淫をくりかえした。一人の女には強力な下剤をのませて糞便をもらさせ、その尻を愛撫した。午後になると下男は別の女たちを漁った。マルグリットが犠牲になったが、彼女は鶏姦を断った。


 とにかく、「松岡正剛の千夜千冊『悪徳の栄え』マルキ・ド・サド」を一読すれば想像力も何もパンパンに膨らむに違いない。
 あるいは、「「サド侯爵の生涯」(その1)」「「サド侯爵の生涯」(その2)」(ホームページ:「Archive de marikzio」)を読むのもいい。

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→ 「悪徳の栄え 【原作:マルキ・ド・サド/監督:実相寺昭雄/主演:李星蘭】ビデオ・DVD - あるあるビデオドットコム」 (出演者:佐野史郎/中島葵/李星蘭/石橋蓮司/米沢美知子 制作年:1988年 メーカー:日活)

 サドについての本を読んだあとに、続いてはショーペンハウアー著の『意志と表象としての世界』を読む。
 快楽の哲学の極みから厭世哲学という奈落の底へ?!
 と思ったら大間違いで、少なくとも小生の中では(多少の位相のズレは等閑視して)二人はある意味、背中合わせになっている。
「性的乱行」は、「人間の本来の快楽にとって、普通のこととか尋常のこととはいえないものの、ヴォルテールの哲学同様に「普遍」の思念と行為だと思っていた」ようだが、そうした人間(に限らないのだが)の時に盲目的で野獣的な(性)欲の奔出をかく至らしめるのは、世界の根底に世界を突き動かす黒く巨大な河が流れているから。
 というより世界自体が不可視の闇の奔流そのものなのである。

 面倒だし小生の手に余るので松岡正剛の手により『意志と表象としての世界』について解説してもらう:
『意志と表象としての世界』アルトゥール・ショーペンハウアー 松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇

「物自体が意志ならば、世界そのものはもともと「見えない意志」だということになる。それを人間は一知半解に反映して、自分の意志と思いこんでいるということになる」わけで、サドの哲学をどれほど徹底し、「「普遍」の思念と行為」だと思っていようと、そのこと自体が実は「見えない意志」あるいは「無目的に人間をかりたてる意志」(人間だけじゃなく、人が表象しえるこの世界をも盲目的な意志は駆り立てる!)という闇の奔流のなすがままに玩ばれているに過ぎないのである。

 というわけで、学生時代サドとショーペンハウアーという両極(その実、背中合わせ)を自分なりに振り子の可能な限り振り切ったことで、もうある意味自分の限界(壁)に突き当たってしまったようである。

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コメント

御無沙汰しております。Usherです。

「マンディアルグ」と「クノップフ」の記事も合わせて楽しく読ませて頂きました。

そういえば、6月2日は聖侯爵の誕生日でしたね。私もこの日は記念にサドの小品を読んでいたのです。

投稿: Usher | 2008/06/17 22:43

Usherさん
久しぶり。コメント、嬉しいです。
なんだか朋あり遠方より来るって感があります。

サド…、1740年6月2日が誕生日だったのですね。
小生は完全に失念していました。
誕生日にこの記事をアップしたのは、全くの偶然です。
余程、縁があるのかな(どんな縁だ)?

小生、若かりし日は『悪徳の栄え』などの小説を絵空事と思いつつも妄想と欲情に駆られて頑張って読んだけど、事実は小説より奇なりってこと(現実はサドの小説より凄まじかった、衝動と権力欲と支配欲とに駆られた人間はとんでもないことを仕出かしてしまう)を少しは思い知った今、読み返したらどうなんだろう。
ある意味、水面下では日本(に限らないだろうけど)の一部の闇社会でもっとシビアーな現実が横行しているのかも。

投稿: やいっち | 2008/06/18 03:16

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