島崎藤村とラスキンと雲と…少し賢治
以下は、昨年、「空 水 海 雲 霧」などをテーマにあれこれ記事を書きまくった際、関連する記事を書こうと思って集めていた資料集。全てネットで見つけたもの。
主に小生が好きな作家・島崎藤村を巡ってのもの。
→ 6月12日の夕方、仕事の開始時間が遅れ、ちょっと時間が空いた。せっかくなので、車で遠からぬ場所にある公園へ。
これらを適当につなげて島崎藤村に関連して表題の記事を書こうと思っていたが、忙しさに紛れて失念…。
これらの資料を集めていた頃は、小生が翌年には帰郷するなんて思ってもいなかった。
落ち着いたら少しは腰を据えた文章を書きたいと思いつつも日々の雑事に追われているばかり。
以下、生のまま資料を残しておく。当時、どんな文章を書こうとしたものか…。
なお、文章と掲げた画像とは全く無関係。せいぜい、風景に関係するってことくらいかも。
「島崎藤村とラスキンと雲と…少し賢治」
「考える葦笛 日本の風景画……ラスキンの赤い糸(4)」:
風景画家として水彩画を初めて広く一般に広めた大下藤次郎(1870~1917)は、山の絵を多く描いている。彼は、小島烏水らとほぼ同じ時期に日光や尾瀬、北アルプスなどに踏み入って絵を描いた。徹底して写生旅行を行い、当時の誰よりも足で描いた画家の一人である。
大下は美術雑誌『みづゑ』を創刊したことでも知られるが、そのなかでラスキンの著作を何度も紹介している。同じ雑誌でラスキンの山岳論を論じたのは小島烏水だった。
(中略)
ラスキンの雲の論文は明治期に日本でもかなり有名だったらしく、何人かの文化人がそれに触発されて雲の観察を行っている。その中でも特にマニアックに研究を行ったのが、島崎藤村だった。島崎は信州の学校に赴任するとき、ラスキンの『近代画家論』5巻を携行し、信州滞在中は毎日雲を観察し日記につけていた。
冒頭に紹介した大下藤次郎の絵にも、地平線を低くとり、雲を強調した絵があるが、これなどもあるいはラスキンの影響があったのかも知れない。
← 湖の対岸には中世ヨーロッパの古城が?
「島崎藤村 - ウラ・アオゾラブンコ」
「「三宅克己「思ひ出づるまゝ」 昭和11年9月」の項:
夜は勉強の邪魔をしては相済ないと思ひつゝ、私は馬場裏の島崎さんを御訪ねして、信州の自然に就ての御話を聴いたり、又此方からも絵の話を為た。時にはラスキンのモダアン、ペインタアス中から、自分達に有益な部分の講義なども願つたりした。画家でも無い島崎さんが一冊の手帳に毎日雲の変化など、日記のやうに手記されて居たのには驚入つて了つた。
風景などに就て自分が感じて居る事は、島崎さんは一層詳しく調べ上げて、何だか実際絵を描かれる先輩のやうに思はれた。(後略)
「第九回歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会 -日本文学に見る河川-」
藤村記念館の新井館長「島崎藤村と千曲川」
藤村は小諸へ来る時に、イギリスの評論家ジョン・ラスキンの「近世画家論」というのを携えて来ております。このことからも既に藤村は詩にはある程度限界を感じていたんではないか。詩から散文へという思いが働いていたようであります。そしてラスキンの芸術観とか自然観とか批評精神とか、そういうものに強く影響を与えられたようです。そしてこのラスキンに学びまして、雲の観察なんかを書くわけでありまして、「落梅集」にもそれを載せております。
もうひとつ自然主義文学の主張にも刺激されて、事物を正しく見ようと、そういう気持ちが強く働いていたわけでございます。明治学院時代に二葉亭四迷の「あいびき」などを読んでおりまして、これは訳文でありますけれども、その新鮮な自然描写に非常に強く感銘と言いますか、文体に感銘をしていったというようなことが書いてあります。
それから小諸義塾の同僚に三宅克巳という図画教師がおったわけでありますが、その写生画に心を惹かれまして、三宅に頼んで三脚まで買って、日課のようにしてそれを、小諸の自然と風俗などをスケッチした、観察記録したと、忠実にということですね。藤村はこれを「スタディ」という言葉を使っております。それから千曲川のスケッチの奥書に書いてあります。
「自分の第四詩集、というのは落梅集のことでありますけれども、その時には私はもっと事物を正しく見ることを学ぼうと思い立った。この心はかなり激しかったので、その為に私は3年近くも心静かに黙して暮らすようになった。いつ始めることもなくこんなスケッチを始め、これをていねいに書き続けることを自分の日課のようにした」とここにはあります。
→ 古城の塔と見えたのは、工場の煙突でした。
島崎藤村「千曲川のスケッチ」
(前略)
雪のクリスマス
こういう寒さと、凍った空気とを衝いて、私は未知の人々に逢う楽みを想像しながら、クリスマスのあるという日の暮方に長野へ入った。例の測候所の技手の家を訪ねると、主人はまだ若い人で、炬燵にあたりながらの気象学の話や、文学上の精しい引証談なぞが、私の心を楽ませた。ラスキンが「近代画家」の中にある雲の研究の話なども出た。ラスキンが雲を三層に分けた頃から思うと、九層の分類にまで及んだ近時の雲形の研究は進んだものだ。こう主人が話しているところへ、ある婦人の客も訪ねて来た。
(中略)
長野測候所
翌朝、私は親切な技手に伴われて、長野測候所のある岡の上に登った。
途次技手は私を顧みて、ある小説の中に、榛名の朝の飛雲の赤色なるを記したところが有ったと記憶するが、飛雲は低い処を行くのだから、赤くなるということは奈何などと話した。さすが専門家だけあって話すことがすべて精しかった。
測候所は建物としては小さいが、眺望の好い位置にある。そこは東京の気象台へ宛てて日毎の報告を造る場所に過ぎないと言うけれども、万般の設備は始めての私にはめずらしく思われた。雲形や気温の表を製作しつつ日を送る人々の生活なぞも、私の心を引いた。
やがて私は技手の後に随いて、狭い楼階を昇り、観測台の上へ出た。朝の長野の町の一部がそこから見渡される。向うに連なる山の裾には、冬らしい靄が立ち罩めて、その間の空虚なところだけ後景が明かに透けて見えた。
風力を測る器械の側で、技手は私に、暴風雨の前の雲――例えば広濶な海岸の地方で望まれるようなは、その全形をこの信濃の地方で望み難いことを話してくれた。その理由としては、山が高くて、気圧の衝突から雲はちぎれちぎれに成るという説明をも加えてくれた。
「雲の多いのは冬ですが、しかし単調ですね。変化の多いと言ったら、矢張夏でしょう。夏は――雲の量に於いては――冬の次でしょうかナ。雲の妙味から言えば、私は春から夏へかけてだろうと思いますが……」
こう技手は言って、それから私達の頭の上に群り集る幾層かの雲を眺めていたが、思い付いたように、
「あの雲は何と御覧ですか」
と私に指して尋ねた。
私も旅の心を慰める為に、すこしばかり雲の日記なぞをつけて見ているが、こう的確に専門家から問を出された時は、一寸返事に困った。
(後略)
← ここは、富山県富山市にある富岩運河にある中島閘門である。「1998(平成10)年5月1日に指定」された「昭和の土木建造物としては全国初」の「国登録有形文化財」なのである。詳しくは、「産業技術遺産探訪~富岩運河 中島閘門 中島橋」参照。数年前、家族でここへ来たっけ。母も歩けていたし…。
「宮澤賢治「文語詩稿 五十篇」評釈 一 信時 哲郎」:
短い文語詩の中であっても、こうして二種の雲の姿を描いている賢治について、佐藤栄二は島崎藤村のエッセイ「雲(『落梅集』所収)」を引用し、さらに藤村が触発されたというラスキンの名前を出しているが、賢治が彼らの影響下にあったのは間違いないところであろう。
宮澤賢治「南から また東から」
南から
また東から
ぬるんだ風が吹いてきて
くるほしく春を妊んだ黒雲が
いくつもの野ばらの薮を渉って行く
ひばりと川と
台地の上には
いっぱいに種苗を積んだ汽車の音
仕事着はやぶけ
いろいろな構図は消えたけれども
今年はおれは
ちゃうど去年の二倍はたしかにはたらける
「あの雲がアットラクテヴだといふのかね」
その黒い雲が胸をうつといふのか
それは可成な群集心理だよ、
なぜならきみと同じやうな
この野原の幾千のわかものたちの
うらがなしくもなつかしいおもひが
すべてあの雲にかかってゐるのだ
あたたかくくらくおもいもの
ぬるんだ水空気懸垂体
それこそほとんど恋愛自身なのである
なぜなら恋の八十パーセントは
H2Oでなりたって
のこりは酸素と炭酸瓦斯との交流なのだ、
→ もう一度、閘門からの遠景を。
夏目漱石『永日小品』
「[論考]・・・ グレー=シュル=ロワンと明治のピクチャレスク 荒屋鋪 透」:
ピトロクリの谷は秋の真下にある。十月の日が、眠に入(い)る野と林を暖かい色に染めた中に、人は寝たり起きたりしてゐる。十月の日は静かな谷の空気を空の半途(はんと)で包(くる)んで、ぢかには地にも落ちて来ぬ。と云って、山向へ逃げても行かぬ。風のない村の上に、いつでも落ち附いて、凝(じっ)と動かずに霞(かす)んでゐる。其の間に野と林の色が次第に変って来る。酸(す)いものがいつの間にか甘くなる様に、谷全体に時代が附く。ピトロクリの谷は、此の時百年の昔し、二百年の昔にかへって安々と寂びて仕舞ふ。人は世に熟(う)れた顔を揃へて、山の背を渡る雲を見る。其の雲は或時は白くなり、或時は灰色になる。折々は薄い底から山の地を透かせて見せる。いつ見ても古い雲の心地がする。
← 夕景に佇む愛車。仕事が始まる前、夕日で一服。
「漱石文庫関係文献目録データベース - サ行」:
「清水 一嘉 「「Ruskin ノ遺墨ヲ見ル」 : 漱石のロンドン日記から」 (「學鐙」 94(3), p.14-17 / 1997年3月 丸善)」
漱石がピトロクリを訪れたのは明治三五(一九〇二)年秋のことで、なぜ漱石はピトロクリに行ったのかという点についてはいまもってわからない。その答えのヒントになるのがラスキンの絵だというのがわたしの考えである。漱石はラスキンの「キリクランキーの山道にて」をサウス・ロンドン・ギャラリーで見ていたのである。そして「キリクランキー」をいう名前は漱石の脳裏に深く刻み込まれたのである。それを裏づけるような資料をわれわれは漱石の残した「断片」のなかに見出すことができる。そこには横に一列、「ホメル」「Contrast」「カイドリ」「父」などのことばとともに「キリクランキー」という文字が何の脈絡もなく置かれている。
→ 夕日が神通川の土手の緑に沈んでいく。
夏目漱石 「三四郎」(寺田寅彦の受け売りか?)
青い空の静まり返った、上皮(うわかわ)に白い薄雲が刷毛先(はけさき)でかき払ったあとのように、筋(すじ)かいに長く浮いている。
「あれを知ってますか」と言う。三四郎は仰いで半透明の雲を見た。
「あれは、みんな雪の粉(こ)ですよ。こうやって下から見ると、ちっとも動いていない。しかしあれで地上に起こる颶風(ぐふう)以上の速力で動いているんですよ。――君ラスキンを読みましたか」
三四郎は憮然(ぶぜん)として読まないと答えた。野々宮君はただ
「そうですか」と言ったばかりである。しばらくしてから、
「この空を写生したらおもしろいですね。――原口にでも話してやろうかしら」と言った。三四郎はむろん原口という画工の名前を知らなかった。
← 夕日に見惚れ、最後まで見入っていた。この翌日、好きな香西かおりさんのコンサートへ。
「寺田寅彦 浅草紙」:
「一般に剽窃(プラジアリズム)について云々する場合に忘れてならないのは、感覚と情緒を有する限りすべての人は絶えず他人から補助を受けているという事である。人々はその出会うすべての人から教えられ、その途上に落ちているあらゆる物によって富まされる。最大なる人は最もしばしば授けられた人である。そしてすべての人心の所得をその真の源まで追跡する事が出来たら、この世界がいちばん多くの御蔭を蒙っているのは、最も独創力のある人々であった事を発見するだろう。またそういう人々がその生活の日ごとに、人類から彼等が負う負債を増しながら、同時に同胞に贈るべきものを増大して行った事が分るだろう。何かの思想あるいは何かの発明の起源を捜そうとする労力は、太陽の下に新しき物なしというあっけない結論に終るに極(きま)っている。そうかと云って本当に偉大なものが全くの借り物であるという事もありようはない。それで何でも人からくれるものが善いものであれば何もおせっかいな詮議などはしないで単純にそれを貰って、直接くれたその人に御礼を云うのが、通例最も賢い人であり、いつでも最も幸福な人である。」(ラスキン)
参考:
「A John Ruskin Gallery Drawings and Watercolors」
「空と山を眺め描くのみ…ラスキン」
(07/11/11記)
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