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2008/05/25

図書館の本のこと(続々)

 カードで思い出したが、図書館の本というと、昔は背表紙の裏面に貸し出しカードが添付してあった。
 ビニールか紙の(いかにもそれと分かる)手製の袋に挟んである。
 借りた日の日付印がスタンプで押印してある。

Egyptpapyrus

← 「パピルス製の巻物に書かれたエジプトの死者の書」 (画像は、「パピルス - Wikipedia」より) 「英語などの言語で紙を意味する「paper」や、フランス語の「papier」などは「papyrus」に由来する。

 昔は、小学校や中学校の時は本の貸出カードには名前を書き込んだりもしたようだが、小・中・高校と図書館の敷居を高く感じていた小生は実際にどうだったか分からない。
 大学の図書館や一般の公共の図書館では、貸し出しカードには借りた日の日付印のみ押すようなシステムだったと思う。

 古く難しそうな本にも何回となく日付印が押されているのを見ると、しかもここ何年も押されていないのが確認できることもあり、書物にも旬があること、持て囃される時期ってものがあるんだなとか、先輩たちはどんな思いでこんな本を(テーマ的にも内容からしても今となっては資料的価値もあるのかどうか分からない…)読んだのだろうかと、想像力が掻き立てられたりする。
 しかも、誰かが書いたのだ!

 図書館の中で読んだ(読もうとした)本で何故か今も妙に記憶に鮮明なのが動物学者で進化論者として有名だった丘浅次郎の本。『進化論講話』だったか書名は失念したが、文章に覚えた違和感が今以て忘れられない。
 文章は明快で理解が及ばないということはないのだが、如何せん語調というか文調というのか、時代がかった(超)高踏派なリズムには辟易して、どんな本でも一旦読み出したら意地でも読み通す小生もさすがに耐え切れず書を放り出してしまった。
 まあ、相性が悪かったということなのだろう。同氏の名誉のために付記しておくが、同氏は「現在の生物科学系の動物分野の創始者といっていい人物」なのである!

 数学や物理学など、センスなどまるでないのに興味だけは抱いているジャンルがある。音楽だって専門書となるとチンプンカンプンである。
 なのに、さすがに借り出された回数は少ないものの、明らかに読み漁られたのが歴然としていたりすると、ある意味、嫉妬の念のような、何か空しいような暗い情念が疼きだす。
 人の一生は限られていて、読める本の数は限られているようなものだが、仮に永遠の命に恵まれることがあっても、あるいは驚異的な速読力を身に付けても、理解の不能な本は何処まで行っても不能なままなのだという現実。
 自分には時間が限られている…以上に理解力そのものが乏しいものでしかない…、そのことを徹底して思い知らされたのも、閑静なる厳粛さといった空気の漂う大学の図書館だったような気がする。

 その前に受験戦争の最中に自分の出来の悪さはつくづくと、そして繰り返し行なわれる試験を通じて散々に思い知らされてきているのだけれど、受験勉強をしなければならない、それさえ終われば好きなことを思いっきりできる、本も好きなだけ読める、なんて思っていたのだけれど、実際、読書三昧の生活の時期も幸いにも送れたのだけれど、さて講義の合間に図書館のやたらと広い開架の図書の一角をしかつめらしく歩きつつ、数知れない図書の背を眺めていると、自分の無力・非力をしみじみと、そう家の床下から下水の水でも浸み出してきて若気の至りの根拠のない自信が土台から根腐れしてくるように感じさせられてくるのだった。

 それでも意地のようになって本を買っては読み、借りては読みという日々を何年も続けた。
 続けるしか能がなかったというべきか。
 図書館の本に貸し出しカードが添付されていたのは、今から思うと(最初は意図したものではなく整理の都合だったのだろうが)実に人間味のあるものだったのだと痛感する。

Egyptalexandriabibliothecaalexandri

→ 「新アレクサンドリア図書館(Bibliotheca Alexandrina)」 (画像は、「新アレクサンドリア図書館 - Wikipedia」より)

 このことは本の貸し出しカードに限らないのだろう。
 コンピューター(電子)管理。紙類を一切使わず管理でき情報を統合でき、施設の充実にも資する。
 借りるほうにとっても、利便性が高まることに何ら異存のありえるはずもない。
 ただ、ひとつのささやかな我が侭として、図書館(当局)側に尋ねずとも、この本はいつ頃、何回ほど借りられたかが分かると何となく興が湧く…、ただそれだけのことである。

 そんなこと必要ない。本の手垢や痛み具合で相当程度に見当が付く、現代じゃ、管理がペーパーレスなだけじゃない、書籍そのものがペーパーレスなんだぞ! 古典だったら「青空文庫」で十分堪能できるし、電子図書館だってある…って、そんな一喝が聞こえてきそうだ。

 ペーパーレス化社会って、でも、手垢に塗れることのない社会、情報の網には乗らない、載せる値打ちのない<瑣末>な枝葉の刈り込まれる社会なのだろうか。
 じつは決して瑣末なことじゃないって心の中では思っているのだけれど、わざわざ声高に主張するほどのことじないし、手垢も今度は電子ブックにでも付けていくしかないのか。
(この辺りのことは、「図書館の本にアンダーラインが引いてあるのを見つけた。 - 森の路はずれ(避難所)」なる記事がとても面白い。味がある。)

 
参考:
紙魚・白魚・雲母虫・本の虫

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