「人間は考える葦である」考?
ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal、1623年6月19日 - 1662年8月19日)の言葉に、「人間は考える葦である」がある。
「クレオパトラの鼻、それがもう少し低かったら、大地の全表面は変わっていたであろう」と共に有名な言葉である。
→ 「冬に穂が残るヨシ」 (画像は、「ヨシ - Wikipedia」より)
「人間は考える葦である」のくだりをもう少し示しておこう(前田陽一/由木康訳『世界の名著 29 パスカル パンセ』中央公論社)。
人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一適の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すよりも尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。
以下、「だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある」云々と続いていく。
こうした言葉に宇宙観あるいは世界観において、地球中心説(天動説)から太陽中心説(地動説)への大転換があったこと(宇宙の中にあって各天体は神に依らずして如何に浮び秩序を保ちえるのか…)、同時にパスカル自身の苦痛に苛まれた個人的な事情も読み取っていいのだろう。
沈黙して止まぬ宇宙のただなかにポツンとある「わたし」。
むしろここでは強烈な自我の自覚、唯一者であることの孤独、戦慄を読みとるべきなのかと思ったりもする。
が、ここではそんな高邁な哲学的問いやセンス・オブ・ワンダーの世界に飛び込むつもりはない。
「人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである」というフレーズの言葉尻をちょっと捉えてみよう、拘ってみようと思うだけである。
「人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである」という時、「自然のなかで最も弱いものである」とは、人間を指して云っていることは間違いないだろう。
と同時に、「自然のなかで最も弱いものである」とは、「葦」を指して云っているのだとも理解していいのだろう。
小生がちょっと引っ掛かったのは、そもそも「葦」ってそんなに弱い存在なのか、という点である。
(実は、「たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すよりも尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない」という下りにも引っ掛かっている。「宇宙は何も知らない」って、一体どういう意味? 人間も含めて、まるごとそっくり全体が宇宙なんじゃないの? 人間より知能の優れた存在が宇宙に存在するか否かは別にして、宇宙を想像し瞑想する存在は宇宙の中には存在しえるんじゃないの。そもそもその前に人間にしてもどれほどのことを宇宙に付いて知っているというの?)
← 『鷺と葦』(鈴木春信・画、18世紀) (画像は、「ヨシ - Wikipedia」より)
小生は、つい先日、「バナナは木ではなく草である:余談篇」の中で、「ノアの箱舟」のエピソードに事寄せて、(旧約)聖書における植物の扱いに、ささやかな疑問を呈しておいた(呈しただけで、いかにも小生らしく、ほったらかしのままなのだが)。
「ヨシ - Wikipedia」を覗けば、「ヨシまたはアシ(葦、芦、蘆、葭)」について大よそのことを知ることができる。
「温帯から熱帯にかけての湿地帯に分布する背の高いイネ科の草の一種で」、「条件さえよければ地下茎は一年に5m伸び、適当な間隔で根を下ろす」という。
「主として河川の下流域から汽水域上部、あるいは干潟の陸側に広大な茂み(ヨシ原)を作り、場合によってはそれは最高100ヘクタールに及ぶ」ということで、いまでも地域によっては河川敷辺りで葦の原を見ることが出来よう。
「人間とのかかわり」でいえば、「まっすぐに伸びる茎は木化し、竹ほどではないにせよ材として活用できる。古くから様々な形で利用され、親しまれた」し、「屋根材としても最適で茅葺民家の葺き替えに現在でも使われてい」たりする。
日本では、「日本神話ではヒルコが葦舟で流される」とか、「日本の古名を豊葦原瑞穂の国という」など、馴染み深いものがある。
『日本書紀』はともかく『古事記』については、ちびりちびりと読み親しんできた。
好きなくだりは随所にあるのだが、特に下記の叙述は大好きで、折々言及してきた(「水母・海月・クラゲ・くらげ…」参照):
国稚(わか)く浮ける脂の如くして、海月(くらげ)なす漂える時、葦牙(あしかひ) の如く萌え騰(あが)る物に因(よ)りて成りし 神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこちのかみ)、次に天之常立神(あめのとこたちのかみ)。この二柱の神もみな独神と成りまし て、身を隠したまひき
この中に「葦牙(あしかひ) の如く萌え騰(あが)る物に因(よ)りて成りし 神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこちのかみ)」がある。
「ウマシアシカビヒコヂ - Wikipedia」によると、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこちのかみ)とは、「葦の芽に象徴される万物の生命力を神格化した神」で、「一般的に活力を司る神とされる」という。
日本の古代人にとっては、「葦」に限らず、大地は何処も原始林や原野の世界、泉鏡花の『高野聖』に描かれる、どんな得体の知れない魔物の蠢くかしれない、肥沃でもあれば野性の圧倒的な生命力・繁殖力に驚異する異形の世界だったのではないか。
パスカルが「人間は考える葦である」といったフレーズを綴った際に脳裏に浮かべていた「葦」とは、一体どんな品種なのだろう。
パピルス? ヨーロッパ型のもの?
イソップ物語にある「葦とオーク(オリーブ?)の木」(Le chêne et le roseau)の話は脳裏の片隅にあった?
『聖書』での「葦」は、どういった品種のものなのだろうか。
→ 吉永良正/著『『パンセ』数学的思考』(みすず書房) パスカルの「思想は、徹頭徹尾、数学的思考をベースにしている。『パンセ』から最新の宇宙論やフラクタルへ。理科系の哲学入門」だって。
さすがにネットの威力、検索すると下記なる恰好の頁が浮上してきた:
「聖書に出て来る植物その2 - ★+。.゜天使のはしご゜.。+★ -」
「葦」の「出てくる聖書箇所は旧約聖書に46箇所、新約聖書に8箇所あ」るとして、下記を例示してくれている:
「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。」(マタイの福音書12章20節)
「イスラエルではガリラヤ湖のほとり(特に入江になっている所)にたくさん生えて」おり、「死海は塩の海ですが、西岸に一部葦を生じています。そこは淡水のわく地域ではありますが、葦が塩に対しても強いことを示してい」るという。
さらに、「聖書では、“かみぐさ・パピルス(ゴーメ)”を“葦”と訳す場合もあ」るとか(イザヤ書18章2節など)、「荒地や砂漠の多いイスラエルにおいて、葦・よしの茂りあう所というのは、豊かに恵まれた情景を言い、決して悪い意味で言っているのでは」ないとも。
いずれにしても、「ヨシ原は、自然浄化作用を持ち、多くの生物のよりどころとなっている」はずなのだが、「近年ヨシ原は、浅い水辺の埋め立てや河川改修などにより失われることが多くなり、その面積を大きく減らしている」という。
人間はともかく、葦(ヨシまたはアシ)は人間には弱いようである。
あらゆる場面で中間者の観念が適用されうるはずなのだろう。
(08/04/27作)
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コメント
滋賀県ではヨシ原を守る運動から、ヨシ笛が盛んで、コンサート等も行われています。
残念ながら、私は未だ、実際には聴いたことが無いのですが、素朴で澄んだやさしい音色らしいですよ。
投稿: 雫 | 2008/05/05 12:34
雫さん
芦笛、テレビでちょっと聴いたことがあるような。
でも、吹く姿も含め、コンサートで聞いて見たいものです。
葦簀(よしず)とか葦舟とかいろいろ用途もあるし、「ヨシ原は、自然浄化作用を持ち、多くの生物のよりどころとなっている」から、「ヨシ原復元の事業」はもっと広まるといいですね。
ヨシやススキの穂の風に揺れる光景って、何故か懐かしさを感じます。
投稿: やいっち | 2008/05/05 15:27