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2008/05/13

お地蔵さん……ん?(後篇)

 それにしても、富山は文化圏としては、関西のような関東のような曖昧な領域である。富山平野の真ん中に呉羽山(小高い山の連なり)があり、その西側が関西圏であり、東側は関東圏(少なくとも関西圏からは外れがち。というより見放されがち)だったりすることが多い。

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→ 一昨年の五月下旬、大田区の某所にて撮影。ある商店の軒下。お地蔵さんでもお堂でもなくて、可愛いので撮ってみた。

 小生の住むのは呉羽の東側(これを呉東=ごとう、と称する)であり、関西圏には入らない(但しお袋は高岡の出身で関西圏。父は生粋の呉東の人間である)。呉羽山を境に文化圏が富山でも分かれるのは、呉羽山の西側は加賀・前田家の領地であり、東側は前田家でも支流の家の領地で、(加賀藩に搾取され)文化的にも経済的にも困窮し、そもそも文化的な僻地だった。それゆえに実利的な気風が育まれた(なのに小生が能天気なのは、何故なのだ!)

 それでも、呉東(ごとう)が時に、関西圏の文化の余沢を受けているのは、余沢というより、大きくは、富山(の東部であっても)が糸魚川の西側に入るからに過ぎないのかもしれない。
 つまり、日本の文化圏は、糸魚川ー静岡構造線で大きく東西に二分されると古来より言われてきたが、その意味で、富山の東側という富山の中でも文化的に僻地であっても、大まかには、関西圏にかろうじて入るということなのだろう。
 なかなか事情は複雑である。
 ついでながら、糸魚川ー静岡構造線を辿ると、 糸魚川(新潟県)から松本盆地、諏訪盆地、甲府盆地を通り、富士山の西側を経て相模湾へ達する。天下分け目の戦いのあった関が原も、この構造線に近いのは偶然ではないのだろう。

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← 今年の四月、富山市内にて撮影。富山では立派な堂に鎮座するお地蔵さんを方々で見かける。

 小生のアテにならない記憶を辿ると、小生も、ガキの頃、今はなき木造の地蔵堂の前で近所の人たちが集まっていたような気がする。
 で、お地蔵さんたちに供えられた砂糖菓子の類い(主に落雁だったと思う)をお下がりとして貰ったような気がするのだ。さすがに子供として参加できたのは小学校の頃までだったような。中学や高校の頃には、その風習が廃れたのか、それとも、自分が生意気になって無視していたのか、ハッキリしない。
 上掲のサイトの説明にあるように、「目を半眼に開いているのは、生きている人だけでなく、死んだ人の悩みまでも聞いてくださるためということです。子供が死ぬと、その子が使っていたよだれ掛けをお地蔵様にかけ「この子に代わって地獄の苦しみに耐えてください。」とお願い」するのが地蔵盆の趣旨のようだが、地蔵盆の有無の記憶さえ朧な小生には、当時、ただ御菓子目当てに参加していたような意識しかなかったのだろうし、だから、記憶も曖昧になるのも無理はないのだ。

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→ お堂の中に鎮座するお地蔵さん。が…。

 お地蔵さんは、どのような機会に刻まれ路傍に安置されるのだろうか。
 お地蔵さんの多い場所は、きっと理由はともかく、非業の死を遂げる人の数が多かったことを意味するのかもしれない。
 小生の郷里である富山(の東部)も、昔は、土地が荒れて貧しかったようだ。常願寺川や神通川など暴れ川が多かったせいもある。今、富山が米どころと見なされているのが夢のようだ(治水がされるまでの度々の洪水で土壌が豊かになったとも一因と考えられるわけで、誠に皮肉な話である)。しかも、やっと取れた米などの収穫も、豊かな県の西部や前田家の本家(加賀とか金沢とか)に、みすみす持ち去られていく。
 子供に限らず、貧しさの故に悲しい死を遂げることが多かったのも当然の話である。

 お地蔵様の表情は優しい。それは初めから優しい表情を石に刻まれるからなのだろうか。それとも、最初は悟りめいた厳かな表情を刻まれていても、風雨に晒され穿たれて歳月を経るうちに、表情の稜線の輪郭も柔らかになり、結果として幼児めいた、何処か悲しい表情を示すようになったのだろうか。

 お地蔵さんについては、語るべきことがあまりに多い。既に地蔵という場合、地蔵菩薩の略だと説明したが、しかしお気づきのように、お地蔵様と親しみを篭めて呼ぶ場合は、地蔵菩薩の略そのものかどうかに関しては、曖昧なままに通過した。
2002年3月18日「お地蔵様の話」」によると、地蔵の地は、大地であり、蔵というのは、母胎を意味するとか。
 やはり、お地蔵様というのは、上記のサイトにもあるように、「水子供養に深く関わる」ものなのだ。あの、赤い涎掛けを見るだけでも、察するのが当然なのである。昔は、心ならずも水子となった赤子が如何に多かったことか。親は泣く泣く子供を見送ったのだ。
 だからこそ、お地蔵さんが日本各地の路傍に無数に佇んでいる…のか。

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← お堂の中の33体は、上掲の別に鎮座する一体を除いて全て観音様! ってことは、地蔵堂じゃなく、観音堂なのか?

 現実には、現代においても水子は多い。若い人にも中絶するケースが多いという。また、結婚していても、育てるのは困難だとかの理由で闇に流されることが多いとも言う。
 けれど現代においては、水子地蔵を殊更に作り祀ることなどない(のだろう)。あるいは密かに心の中で地蔵さんを作って一人参っているのかもしれないが、その点、昔は、石に刻んでまで気持ちを示したのだ。
 どちらがどうと言う必要もない。ただ、哀れである。合掌するしかないのだ。

              (03/01/12作  08/05/12参照サイト一部変更)

[本稿は、「03/01/12」に書いたもの。本日、参照サイト一部変更の上、ブログにアップする。掲げた画像は、旧稿にはなく新たに添付した。何故、旧稿を載せるのか。画像で分かるように、お堂に収まっているのは、別枠の一体を除き全て観音様…、つまり地蔵堂じゃなく、観音堂だという事実に気が付いたから。尤も、土俗的な次元では、道端にひっそりと佇むのはお地蔵さんって思ってもいいのかもしれない…? …でも、お袋がお世話したりして、何度も「地蔵盆」をこのお堂の前でやったのに…。なお、お地蔵さんに限らず、石仏については「散居村と石仏の里」がとても参考になる。]

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